ショートショート Vol3 親父の居酒屋

森出雲

親父の居酒屋

「らっしゃいっ!」

 馴染みの居酒屋。家から駅に向かう途中のガード下に、いつからあるのかも判らない古い店。

 煤汚れた壁に天井。座るたびに、ギシギシ音を立てる椅子。下半分が、埃のこびりついた醤油さし。いつのものか判らない古いポスター。今は見ることも無くなった女優の色褪せた笑顔が壁を飾っている。

「えっと、取りあえずビール」

「あいよっ、生中ねっ」

 店主のおやっさんの威勢の良い声。いつ聞いても懐かしい。


 この店は、俺が小学校の四年から知っている。

 俺の親父の馴染みの店だったからだ。畳職人をやっていた親父は仕事が終わると決まってこの店で酒を飲んでいた。

 夜十時を過ぎると、お袋に親父を迎えに行かされる。それは、親父は放っておくとつぶれるまで飲んでしまうからだ。しかし俺は、この店に親父を迎えに来ることが嫌ではなかった。何故なら、店主のおやっさんが必ず「いつも済まんな」と言って、その頃は贅沢なオレンジジュースを飲ませてくれたからだ。


「しかし、そうやって飲む姿はお前の親父とそっくりだな」

 いつからか、何度と無く言われた言葉。他の常連たちにも言われたこともあった。

「しかも、肴の好みまで同じ。やっぱり親子なんだな」

 おやっさんはそう言って、俺の前に牛筋の土手焼きを置く。

―― この店は、この土手焼きで持っているようなもんだ。と、いつか親父が言っていたことがあった。勿論、それは大げさな事ではなく、長い間、変わらぬ誰もが認める一品だ。

 俺は、一口、変わらぬ味を楽しむ。

 世の中には「お袋の味」ってのはあるが、「親父の味」ってのは聞いたことも無い。

「もう何年になる?」

「え? ああ、八月で十五年かな」

「そうか、もうそんなになるか……」


 小学校六年生の夏休みのある日だった。

 俺は、学校の林間学校で二泊三日の校外学習のため家にいなかった。

 その二日目の夜、それも深夜。担任にたたき起こされ、駅前の総合病院に連れて行かれた。

 酔いつぶれた親父がふらついた足取りで家路の途中、車にはねられてこの世を去った日だ。


「お前の親父はいつも言っていたよ。いつかウチのちびと、ここで酒を飲むんだ。それが夢だ」と。

 親父の夢は、叶えてやれないけど、俺はこうしていつも親父が座っていた場所で飲んでいる。

 あの頃と何も変わらないこの店。五月蝿くて汚れていて、土手焼きの美味い店。

 そう言えば、あのポスターもあの頃のまま。芸能界のことなんて何も知らない親父が、あの女優のことだけは知っていたもんな。

 土手焼きを、また一口。親父の懐かしい味がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ショートショート Vol3 親父の居酒屋 森出雲 @yuzuki_kurage

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ