第21話 信じればそれが世界になるが真理は別にある

僕はゆっくりとひと息ついた。

「ここからは誰にも言っていないことを打ち明け舐めればならないな」と僕は言った。

「何でも言ってみて」

「君は絶望しても、ヒトでありたいかい?」

「ええ」

「僕らは、ある一人の人間の水槽の中の生き物だ」

 テーブルは消え、カトラリーが落ち、床からブラックホールのような黒い、底知れぬ空間が現れ、広がった。やがてその闇は僕を、グロリオサを包み込んだ。


「僕らは、ある一人の人間の水槽の中の生き物だ」

「なぜ……なぜ……それを……」グロリオサの顔と体は、半分がもう闇に飲まれていた。

「誰にも話してはいけない。気を確かに持つんだ」と僕は彼女に語り掛ける。彼女がいた場所に、彼女が飲み込まれてしまった物に。

「僕らはいくつもの壁に阻まれて生きている。何かを発見したと思えば、何かを壊したと思えば、またすぐに壁にぶち当たる。愚かな行為だと分かっていても、その壁をいくつもいくつも壊して壊して、命がけで外の世界を知りたくて、ずっとずっともがき苦しんできた」

「私は……わたしはいったい」あたり一面は、すでに闇に侵食され、グロリオサの影はもうなかった。僕の手も指も――さっきまでフォークを握っていた手さえも――すでに闇に取り込まれ、消えてしまった。

「僕らは生きている。君は今、君自身の存在を疑っている。世界の存在さえを疑っている。いくつもの真実を乗り越えたうえで、果てしない壁を目にして、この世界がただの闇だと思っている。そうだ、僕たちはある御方の技術により、彼女の頭の中から生まれ出た。聖母マリヤ様が腹を痛めてキリストを生んだように、僕らを生んだわけじゃない」

「その御方はいつも言っていた。すべて子は、ひとしく、この世に生まれ出でたのが悲しくて、産声を上げて生まれてくるのだと」

「そうだ。彼女はそう思っている。彼女から生まれた僕らも、そう思う『自由』はある。けれどそれでも、僕らは生きている。喋っている。感じている。僕らは独立している。感じただろう、僕は感じた。初めて君と寝たとき、僕は確かに君に包まれ、暖かくなった。君は初め震えていた。その時のことを、まだ覚えているかい?」

「覚えている。覚えているわ。確かに私は愛され――愛した。あなたを。私も熱かった。あんなにも幸福な日々・・・何もかも失った日々の中で、初めて生まれ出でた感情に、名前を付けることすら私には難しかった・・・」

「わかっている。僕らは記憶の中でこれから生きるだろう。誰かの心の中で生きるんだ。僕らは記憶を糧にして、生きてきた。記憶を、この闇の中の灯として、明るく道を照らし、僕たちを進むための燃料と、道しるべにした。僕らは記憶が無ければ、生きていけないんだ。僕にははっきりわかる。僕にはすべての時間が必要だったことを。僕には君との時間が必要で、これからも必要なことを」

「でもどこに消えてしまうの? 私の感情も、肉体も、いつか消えてしまう。いつか誰も私のことを知っている人なんか消えてしまって、誰も彼も私のことを忘れる。いつしかあなたを愛したこの思いも、父を探し、彷徨った日々のことも、すべて、すべて、消えてどこかへ行ってしまう。すべてただの一瞬の出来事で――

「それは違う。確かに僕らは消える。けれど、ただ消えるわけじゃない。思いは消えるわけじゃない。誰かが受け継いで、使って、繋がっていくんだ。僕らはずっとずっとそうして生きてきた。昔から、ずっとずっとこうして命を語り継いできた。僕たちが悩み、もがき、奔走し、誰かを愛したことは、やがて誰かのエネルギーになる。誰かが受け継ぎ、糧にしてゆく。僕らが誰かの生きた証を、足跡を辿ってここまで来たように。僕にはわかる。未来には、僕らのたどった道を超えてゆく子供たちが生まれるってことを」

「私は・・・無意味じゃないの・・・?」

「無意味じゃない。そんなことなんてない。僕はすべて、誰かが生きた証を、歴史すべてを信じたい。そのうえで、僕は僕と、子供を救うよ」

「崖から落ちそうな、子供を、」

「信じるんだ。僕と君自身の存在を。思い出すんだ。この空が真っ赤にも染まる世界でも、信じれば、すべて本物になる」

「大丈夫。私は、生きているの。私自身を。そして、あなた自身にも――」

「グロリオサ――」僕は手を伸ばす。彼女がいたであろう場所に。もう、何も見えない。ただの暗闇だ。僕には何もわからない。けれど僕には信じるしかない。僕は手を伸ばすしかない。

「ジャン――」

「こっちだ」必死に、腕を伸ばす。微かな光と、誰かの感触を求めて。暗闇の中でも希望となれる、共に生きる誰かの感触を探し求めて。

 「あ」


  僕は

   誰かの

     手を

      掴んだ

        気がした


    けど     もう

      ここには

        きみじゃない

          ぼくのなかの

             きみは

               いきている

                  だから まだ

                         ぼくは

                            おちて

                              きえても

                                きえずに


                                          

            い き ら れ る



     ぼくは、  きみの、  なかに、  いきているかい?




「記憶の泉を通るんだ」

どこからか、遥か上から、声がおりてきた、きがする。


「必ず泉は出口につながっている。必ず誰かが掘り起こして、明るい場所へと照らしてくれる。だからそれまでは、信じて、生きろ。信じろ。信じるんだ」


 暗闇の中から、四方八方から、微かに音楽が聞こえてくる。

 女の声。子供の声。男の声。老人の声。

 それらが一つに重なり合う。


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