第20話 生きとし生けるすべての者へ祝福と喝采を
その日の朝食はグロリオサと二人きりだった。彼女は綺麗な宝石のついた白いワンピースを着ていた。
「よく似合う」と僕は言った。
「あなたも」僕も同じような白い、袖に宝石のついた服を着ていた。
「僕はこの服、あまり好きじゃない。なんだか来ていると緊張する。明日からはまた、暗い服を着ると思う」
「私もこの服、あまり趣味じゃないわね。たまに着るならいいけど」僕は笑った。彼女も笑った。その日の朝食はまた、魚料理だった。塩鮭に白魚のムニエル、海老とアサリのスープ、サーモンの刺身。でも僕は真っ先に豆腐とレタスのサラダを手に取った。
「野菜もしっかり食べようと思うんだ」と僕は言った。
「それに、肉も」
「良い事ね」
「健康のためにもね」
「明日雪が降るんじゃないかしら」
「それほど驚くことじゃないさ」僕はしゃきしゃきのレタスを味わった。
「野菜だってすごくおいしい。君といて気づいたんだ」
「おかしな人」彼女は笑った。
「おかしいとは思うけれど」僕も不思議な気分だった。
「でもこんなにも食事がおいしいと思うのは初めてなんだ」
空は水色だった。綺麗な水色がどこまでも広がっていた。空にはペールギュント組曲の『朝』が流れていた。久々に朝らしい朝だった。この部屋には大きな窓がある。
「この世界ではさ」と僕は語った。
「時々、人がいなくなるんだ。ふっとね。誰も気づかない。静かに消えるんだ。知らない誰かに連れ去れたように。そんな日にはね、雨が降ったりするんだよ。知っていた?」
彼女は首を振った。朝陽に照らされて、彼女の横顔が空に溶けていく。
「昔父に教えてもらったんだ。この世に真実を知る義務が僕にはあったからね。僕は昔から雨が好きだった。水を身体中に浴びるのがこの上なく好きだった。雨の日の匂いも雨が上がった後の晴れやかな気分も、その後に見える虹も。
でも、その度に今この瞬間にも、この狭い世界のどこかで誰かがひっそりといなくなっているのだとしたら? そう思うともう、手放しに雨を喜べなくなった。それが僕の、唯一の古い記憶。もしも今後雨が降ったとき、君が気分を悪くしたら申し訳ないけれど」
「大丈夫よ」と彼女は海老のスープに口をつけながら、いつもの淡々とした調子で言った。
「私はね、いつもこう思うようにしているの。たとえ残酷な真実でも、何も知らないで生きているよりも何倍もマシだって」
「ブタよりソクラテスの方が良いんだね。君は」
「当然でしょう」
「君は真実が知りたい?」
「当然でしょう?」彼女は水を飲んだ。
「たとえそれが……どんなに残酷でも?」
「そうね」彼女はフォークを皿に置き、手を休めた。
「真実から私たちは目をそらさずに学ばなきゃいけないと思うの。なんだか学校の宗教の先生みたいなことを言うけれど」
「そうだね」僕も同じ気分だった。同時に、君なら大丈夫だと思った。君は真実を知る勇気を持ち合わせている。君ならば真実にたどり着ける。君ならばそこから何か学べる。君はこれから真実を知るだろう。サクラ先生が今日の午後にでもやってくるかもしれない。でも君ならばきっと大丈夫だ。
「ところであなたは今何歳なの?」彼女は唐突に質問した。
「貴方の年齢って全く分からないのよ、正直。二十歳って言われても、四十歳って言われても納得しちゃうわ」
「わかんないな」僕も正直に答えた。
「今度、教皇様に聞いてみるよ。僕の父に」
「そう、それが良いわね」
「ああ、面倒くさいな。今日からお勉強漬けだよ。あんな仕事、僕には合わないのにさ」
「いいじゃない、向いていると思うわよ?」
「君の方が向いているよ」
「まさか」
「君が姫になって、職務を継げばいいと思う。正直な話ね」
「それってまさかプロポーズ?」
「そうだな、提案という意味ではそうかもしれない。まあ、他にも方法はあるかもしれないけれどね」
「そう」
「そうだよ、まだ父にも相談していないしね」
「考えておくわ」彼女は無表情で言った。しかし心なしか、スプーンを持つ手が震えているような気がした。
「僕に興味はあるだろ?」
「あると思う」
「なら大丈夫だ」
「変な理屈」
「気になるということは好きだということだよ。いつかわかるさ」
「そう? そればっかり」彼女は笑った。
「それに」と僕は付け加えた。
「君の暴走を止められるのは僕くらいしかいない」
目の前の少女は食事の手を止め、僕を睨んだ。僕は笑った。
夜になり、朝になる。また夜になり、朝が来る。待っていても朝は来る。この世から、一人の人が消える。誰にも気づかれることなく。昨日まで一緒にいた人物が、今日になれば跡形もなく消えている。消えてしまった人は、もう残された人の記憶には存在しない。ただ、何かがいつもと違う、そんな印象を与えるだけだ。
消えてしまった人はどこへ行くのだろう。どうしてその人は消えなければならなかったのだろう。答えなど無い。それはただの、ほんの気まぐれのような偶然に過ぎないのだ。
時折、町には空から何かが降って来る。それがテレビの時もあれば、レインコートの時もある。パンが降って来たと思えば、巨大なタワーがいきなり立つこともある。そんなわけで、町には色々な物が溢れている。何かが消えるのと同時に、何かが生まれている。でも人々はそれに気づかない。誰がいなくなっても、誰が生まれても、日常は変わらず続いていく。
雨が降る。誰かが歌う。この小さな箱の中で、ただ皆、懸命に生きているだけなのだ。そしてまた朝が来て、夜が来る。いつも空の色は違う。かかっている音楽も違う。ただ、この狭い「水槽」の中で生きている者はみな、懸命に生きている。それだけはずっと変わらない。
空に文字が浮かび上がる。青い空に白い文字が。でも、お互いを見つめ合っている二人は気づかない。まだ多くの人間は、その文字に気付いていない。そこにはこう書かれてある。
『生きとし生けるすべての者へ祝福と喝采を』
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