3-12
「もし、旦那様の執務室はどこにありますか」
「なぜ、そんなことを」
突然目の前に現れた男に、急な襲撃から女たちを避難させるべく動いていた年かさの侍女は固まった。
「ユースゴ様から大切な書類を避難させるよう言われました。私は普段は陰で動く者です。早く、急ぐのです」
本来なら、そんな身分の者ならば場所を知らぬなどありえない、と正常な判断ができる侍女も、襲撃という非常事態に動転していた。廊下の向こうから甲冑のこすれ合う音がしたから尚更だった。
「こちらです」
小走りに駆けだした侍女の後ろをブロードは走った。
※
執務室に入ったブロードは後ろ手で鍵を閉めた。扉に耳を当て、侍女の足音が遠ざかるのを確かめ、部屋をざっと見回した。年季の入った机に、来客用の椅子が数脚。
『経済兵書』『マルドミ連夜戦記』『経世設楽』『ルマリ・カーンの日記』。
マルドミに関する本で半分以上埋まった本棚を一瞥すると、ブロードは窓に背を向け、樫の木で作られた机の下にもぐった。手早く引き出しをすべて出す。目当ての物がないのを確認すると、天板の裏に触れた。天板はよく磨かれ滑らかで、外側の簡素な造りに比べ丁寧な仕事だった。ブロードは口角を上げ、天板の端を軽く叩いた。滑らかな研磨は精巧な小細工を施すには必要な工程だ。二重底や隠し棚のある机は一見しただけではわからない。かつかつ、と規則的な音がした。精密な細工を施すその種の机は内側こそが肝だ。ブロードは少し場所をずらして叩き、慎重に音の違いに耳をすませた。
一通り天板を叩いたブロードは机の下から這い出した。
「これ以上どこを探せというんだ」
襲撃の混乱に乗じ、詰所の武器庫はもちろん食糧庫までのぞいたが、国内でも有数の私兵を抱えるラオスキー侯爵の武器庫の備えが常とどれだけ違うかなどブロードに分かるはずもなかった。国境の領主として万全の備えだ、ブロードにわかったのはその程度だった。なにがしか交わした書状があるはずだと思って執務室にやってきたのだが、空振りだったようだ。ブロードはずらりと並ぶ本に目をやった。
「まさか、本の間ということはないだろうな」
ブロードは膨大な本のささった本棚に手を伸ばした。
ピュー。鋭い笛の音がして夜空が一瞬赤く光った。窓から火矢が一本飛び込んでくる。ブロードは剣を振り抜き、叩き落とす。火種を踏み潰し、窓際に身を寄せる。窓の外では、男女を問わず、家人たちが着の身着のまま消火に当たっていた。屋敷の塀の外が赤くなり、また火矢がきた。数本、飛び込んできた火矢を踏みつぶしたブロードは、鼻をひくつかせた。この辺りでは嗅いだことのない臭いだった。厳しい目で火種に視線を戻す。机の脚が不自然な燃え方をしていた。
「なるほどな」
ブロードは机の脚の中ほどに短剣を刺し、皮を削ぐように、くいっと手首を返した。木製の机の脚にはあるまじき鈍い音がして、剣が跳ね返された。
「なるほどな」
断続的に空が明るくなる。ブロードは焦げた場所と燃えていない場所の境目を探り、剣を突き刺した。何度も弾かれたが、ブロードは繰り返した。しばらくして机の脚の焦げた木目がポロリと落ちた。机の脚の中から金属製の筒がのぞく。
ブロードは熱を帯びたその筒の蓋を慎重に取り出した。中には数枚の紙があった。ブロードは明かりを求め、窓際によった。
「マジか」
金属製の筒がブロードの手を転がり落ちる。中身に夢中なブロードは背後に転がっていく筒に気づかなかった。床を転がった筒は扉にぶつかり止まった。音もなく扉が開き、入ってきた人物が足元の筒を拾い上げた。
「まさかここにいたとはな」
「これが?」
「ええ、ブラッデンサ商会会頭、ブロード・タヒュウズです」
ジエ・マックイーンは筒を隣にいるユースゴに渡し、大刀を抜いた。
ブロードもまた手の中の『証拠』を懐に押し込むと剣を構えた。
「これは本当なのか?」
ジエは黙ってブロードに大刀を向けた。
※
ヘンダーレ侯爵邸、火矢の飛んでこなくなった前庭に次々と明かりが灯る。火矢を放った人間の索敵に行った兵士たちが戻るまで、少しでも屋敷の備えを多く見せる必要があった。
「いつ火矢が来るか分からん。桶でも樽でもいい、水を入れて用意しろ。奥は守れ」
奥向きの警備を担当するサグラフィー第二隊隊長が声を張り上げた。家人は老若男女問わず走り回った。
「放せ、放せといっているだろ!」
ジエに罪人のように引っ立てられながら、ブロードは顔を上げた。
兵士だけでなく家人も桶をもって走り回っているのは理解できた。だが、どの顔も緊張に強張っているが、恐怖はない。感じる余裕がないのか、それとも――。
ブロードは不自然にならないよう周囲を観察した。門のところに脱出しようとしていたのだろう、ピートが立っていた。ピートの目が泳ぐ。ブロードは小さく顎をしゃくった。ピートは驚いたように目を丸くしたあと、弾かれたように暗い門の外へと走りだした。ブロードは殴られた口の端の血を舐め、もう一度縄抜けを試みた。だが、両手首をがっちりと交差した罪人の輸送時に用いる縛りは外れなかった。
「ユースゴ様、何かありましたか」
サグラフィー第二隊隊長はユースゴと見知らぬ客人に駆け寄った。
「侵入者だ」
ジエが縛り上げたブロードをサグラフィーに突き出した。
侵入者、皆の視線が一気にブロードに集まった。
「では、火矢の?」
「それについては後で話そう。都までとなると籠、では遅いな。馬は――」
「逃げられますね」
軽く手を振ったユースゴに、ジエは門の近くの荷車に目をとめた。
「あれを一台頂けますか?」
「それは構いませんが、馬で引いていくにも時間がかかりましょう」
「ですが――それは」
領主の屋敷に侵入したなど重罪だ。まして襲撃の手引きをしたのならなおさらだ。それをただの商人に渡すなどありえないことだった。サグラフィーは異を唱えた。
「サグラフィー隊長」
だが、国境を守る人間として守るべきは時に法ではなく、実利である。ユースゴの視線に、サグラフィーは口を閉じる。旦那様であるラオスキー侯爵の名代でもあるユースゴの判断は、ラオスキー侯爵不在の今は絶対だ。サグラフィーは、門の近くにある、燃え残っていた一台の荷車を指した。
「あちらの荷車でしたら」
「構いません」
「おい、だから俺じゃねえって何度も言っているだろう」
ブロードは後ろ手に縛られたまま踏ん張った。
ジエは目を眇めた。腰に差した短刀を鞘ごとぬき、したたかにブロードを打ち付ける。
「我がトルレタリアン商会の積荷に手をかけたのです。商人間で積荷の強奪、まして隊商の命まで奪ったとなれば損害の補填だけで済むべくもない。あなたも商会の会頭であれば商人の不文律などご存じでしょう」
「だから俺じゃねえって何度も言っているだろう」
顔から地面に突っ込んだブロードは口の中に入った砂を吐くと、背骨をぐいっと丸くし、一息で立ち上がった。後ろ手に拘束されているとは思えない、人間離れした動きだった。
首筋から立ち上る怒気に、ブロードを捕えようとした兵士がたじろいだ。
ジエは動けない兵士を冷たい目で見ると、ブロードに対峙した。
「申し開きは都で聞きましょう」
「だから――」
「くどい」
ジエはブロードを殴った。勢い荷車の上に仰向けになったブロードにのしかかり、慣れた手つきでブロードの両手足を荷車に固定した。
「おま、離せ! どうせ補填と称して金をふんだくるつもりだろうが」
暴れるブロードの腹に、ジエは革の手袋をした拳を叩き込んだ。
「かはっ」
「続きは都で。ではユースゴ殿お世話をおかけしました。こちらに来るまで難民の動きも活発になっているようでしたから。くれぐれもご用心を」
ジエは慇懃に頭を下げた。
「そ、そうだな。そろそろ難民も金が尽きるころだ、用心しよう。……それで、それは生きているのか?」
ユースゴはのけ反りながらブロードを指さした。
「大丈夫、気絶しているだけです。何かするのなら殺すだけです」
ジエは首から下げた笛を口に当てた。
ピューイ。夜空に鳥の影が周回した。
※
「それで、火矢を射た奴らはどうした?」
「それが、痕跡はあれど、姿は見えず。火矢を見たというサワーウィン砦の連中も怪しい連中は見なかったということで」
ユースゴの問いに、サグラフィー第二隊隊長が答えた。
「やはり、難民の線も疑うべきか」
食うに困って食糧庫のある領主の屋敷を襲う。ありえない話ではなかった。
門の方で騒ぎ声がして、ユースゴは顔を向けた。
「お、お助けください」
兵士の制止を振り切った男がユースゴの前で膝をついた。服はところどころ擦り切れていた。
「何があった!」
「襲われて」
「誰にだ」
「分かりません。ただ寝ていたら突然やってきて天幕の中の女たちを連れて行って」
天幕、その言葉に緊張が走った。この辺りで天幕で暮らしている人間は限られる。
「そなたナジキグの難民か」
「はい。ただ、そいつらが、サワーウィンの奴らがどうとかマルドミに戻るとか、どうかお助けください!」
「なんだと!?」
額が地面につかんばかりに頭を下げた男に、兵士の一人が声を上げた。悲鳴のようなその声にユースゴもサグラフィーも振り返った。
「どうした」
「いえ、あのその」
兵士は口ごもった。
「言え!」
サグラフィーの叱責に弾かれ、兵士は背筋を伸ばし、ブロードを指さした。
「あの、あの男ともう一人、牢にいた男が、マルドミ軍がやってきている、と。それを報せに行ったらサワーウィン砦の人間に襲われたと」
「どうしてすぐに報告しなかった!」
「も、申し訳ありません! 難民の世迷言だと。サワーウィン砦の人間が民を襲うなど、あるわけがないと」
ユースゴはあちらこちらで小火を消す家人に目をやり、首を振った。
「それで、牢から逃げたもう一人の男は捕まえたのか?」
ユースゴの問いに、兵士は顔面蒼白になり膝をついた。
「いえ、それがまだ」
国境の警備兵に襲われたといったブロード。マルドミ軍の来襲を報せ、サワーウィン砦の人間に襲われたといったという男。指し示される事実に、ユースゴは歯噛みした。
「サグラフィー隊長」
サグラフィーは厳しい顔で頷いた。
「すぐに団長に報せを。皆即刻、第一級警備体制をとれ!」
「はっ」
「これより、事実が分かるまでサワーウィンは敵とみなして行動せよ」
サグラフィーの指示に皆が一斉に駆けだした。
ユースゴは改めて目の前の男を見た。まるで時機を計っていたかのように現れた男の存在を見逃すほど甘くはなかった。
「もう一人の牢にいた男というのはお前か?」
「……はい」
ピートは頭を覆っていた布を外した。ユースゴの隣に立っていた兵士が槍を構えた。
「なぜ、今来たようなふりをした?」
「最初にお伝えした方には問答無用で牢に放り込まれましたので」
ピートは頭を下げた。
「そなたたちがこの火矢を仕掛けたか?」
「違います」
ピートははっきりと否定し、ユースゴを見返した。
「ではなぜわざわざ戻ってきた?脱獄は死罪だ。それはナジキグでも同じだろう」
ピートは気絶させられ、荷車にくくられたブロードに目をやった。
「確かに、話も聞かず、牢に放り込むような扱いに何も思わないわけではありませんが……。ですが、我らナジキグの人間を助けていただいているのも事実です。ですが何より、俺の言葉を信じたその男を死なせるわけにはいかないと思っただけです」
「それがあの男だと?知り合いか?」
「いいえ、今日牢で初めて会った者です」
「脱獄の罪に問われても、か?」
「そんなものは、人の信義の前になんの意味がありましょう?マルドミは我がナジキグと不可侵の協定を結んでおりました。春には婚儀により盤石のものとなる予定でした。今私がここにあるのは――」
ピートはまっすぐにユースゴを見た。
「これからそなたたちのいうことが真実か確かめに行く。そなたたちが共謀していないとも分からぬからな。無実だというのなら、協力してもらおう。それで侵入と脱獄については不問にしよう」
「ありがとうございます」
ピートは頭を下げた。
「ジエ殿」
家人にピートに水を出すよう言うと、ユースゴはジエを振り返った。
「水でもかけますか」
ジエはブロードを見下ろし、ユースゴが返事をするより早く荷車を蹴った。
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