2-10 鍛錬場の夜
「王、おやめください。私は何も存じませぬ」
夜の鍛錬場、男はひたすら許しを請うた。何度も打擲された頬は晴れ、左手はだらりと垂れ下がり、床には模造剣が転がっている。
カンテラに近づいた羽虫が一瞬で羽を焼かれ、じりりと音を立て、胴体だけぼとりと落ちる。触覚がぴりりと揺れる。王は靴の上に落ちた焦げた羽虫を摘み上げた。
「我はな、別によいのだ。羽虫が飛ぶのは自然の摂理、咎めはしない」
「は?」
「ただな、それが皿に入るのは不快なのだ」
分かるだろう?
王は男の髪の毛を掴んだ。男の顎を掴み、口を開けさせ、口の中に羽虫を落とした。
王は男に顔を近づけ言った。
「飲め」
男は恐怖に目を見開いた。髪を掴まれ頭を動かせない。それでも、視線とこぼれる涙で拒否を伝えた。王の口元がほんの少し動いた。王の表情が和らいだように見え、男はごくりと唾を飲み込んだ。喉を異物が通っていく。男は目を白黒させた。何度も咳きこむも、胃液と涎と涙しか出なかった。
男は助けを求めて王を見上げた。王は感情のない目で剣へと手を伸ばした。男は恐慌状態に陥った。騎士としての矜持をかなぐり捨て暴れた。
「王」
制止する第三者の声に男は涙目のまま顔を上げた。男の視界に光がきらめく。
「別に、血が騒いだだけだ。どうした、ヤホネス」
王は眉一つ動かさなかった。男の体から剣を引き抜いた。男は目を見開いたまま、前に倒れた。宰相は顔を背けた。
「王、今からでも遅くはございません。セド中止の勅令をお出しください」
「……なぜだ?御璽も許可印もある。止める理由がどこにある?」
「総史庁長官が自白しました」
「自白? あれが、国をセドに出したと?」
「はい。そう申しております」
「……ぬるいな」
王は剣をひと振り、血を払った。
「ヤホネス、そなた本気で止める気があるのか?」
王はヤホネス宰相に近づく。腕から首へ這い上がるように剣を添わせた。刺繍の入った宰相の服の袖が切れていく。宰相の腕には傷一つない。
「まあいい」
王は一人ごち、宰相の服で血を拭った。鮮やかな黄色の刺繍糸が赤く染まって散った。
王は一度だけ揶揄うような視線を宰相に向け、宰相に背を向けた。
「ああ、それとあとの処理は任せた」
「この男は何をしたのですか」
「ミヨナの食事に羽虫を入れて供したのだ」
王は常に傍から離さない女の名を思い出したように口にした。
「それでしたら、食事を供した侍女を罰するべきでしょう」
警護の騎士が殺される理由はないはずだった。
「細かいことだ」
王の囁きに宰相は奥歯を噛み、拳を握り締めた。
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