3-1 そうめんういろう
豪華な外装の建物の三階を見上げ、ハル・ヨッカーは大きく息を吸った。
「ターダシネ!」
「何をしている!」
朝の高級宿サンタロスに響いた明るくも物騒な殺し文句に、夜番の男が飛び出してきた。ハルは捕まえようとする男の腕をかいくぐり叫ぶ。
「ターダシネ!」
貴賓室である三階の暁の間の窓が開いた。
「お騒がせして申し訳ありません。すぐに静かにさせますので」
夜番の男は長期滞在の上客に詫びた。
「いや、こちらこそすまない。ハル、すぐに行かれるそうだから黙って待て」
カーチスはハルの姿を認めると、首を振った。
「はい、お口にちゃっく」
ハルは口を触って頷いた。暁の間の窓が閉じる。
夜番の男はまじまじとハルを見ると首を振り、店の中へ戻った。
※
「迎えに来なくてもきちんと行くつもりだったよ。昨日君に王都中連れ回されてくたくただったから、もう少し休みたかっただけだよ。一体君は今を何時だと思っているのだい?宿の朝食もまだだというのに」
昨日、「そうめんういろう」をすると決めた後、ブラッデンサ商会総出でそうめんういろうの雛形を作ることとなった。ハルも協力しようとしたが、あまりの字の汚さにジャルジュの逆鱗に触れ、外でそうめんういろうでも集めていろ、と放り出された。ハルと同行しようとしたワリュランスは、ハルの字が読める貴重な戦力のため、ジャルジュの許可が下りなかった。結果、タラシネ皇子がハルのお守として街中を連れまわされた。
どうやら懐かれたらしい。タラシネ皇子は幾分寝乱れた気配を残しつつ、あくびをかみ殺した。
「朝、早いうそ。市まだあるです」
ハルは憮然と首を振った。
「もう、ね。だけどねえ」
「タダシネ、行く言ったから行く。うそはダメ。うそは……ナサケナイ?ワルイ?……リョガイモノ?」
ハルは首を傾げながら、タラシネ皇子の袖口を掴んだ。
「慮外者って、意味分かってないでしょ。ああ、分かったよ。約束だったからね。それにしても、ワリュランスは一緒ではないのかい?」
タラシネ皇子は袖口を引っ張るハルに小走りになりながら周囲を見回した。伴侶至上主義のサイタリ族がハル・ヨッカーだけをよこすとは思えなかった。
ワラビ、とハルは考え込み口を開いた。
「ワラビ、おしりふき」
「おしりふき……」
二人の後ろを歩いていたカーチスが噴出した。
「カーチス。言葉通りではないことは確かだね」
タラシネ皇子はカーチスを窘めた。
セド翌日から五日間だけグレッサン通りには市が立つ。民家から張り出した突っ張り棒の上に色とりどりの布が張り巡らされ、その下では地方や他国からやってきた者たちが臨時に店を開く。香辛料に、果実、地方の野菜、馬や武具、服に、宝飾品、ありとあらゆる物が並ぶ。セド見物から市での買い物が王都観光でのお決まりだ。
早朝から開かれる市は、すでに人で溢れていた。
人にぶつかるたびにハルは後ろを歩くタラシネ皇子を振り返り、ちらちらとその腹部に目をやった。
「大丈夫、もう痛くないよ」
タラシネ皇子はくすぐったそうに笑った。ハルは唇を尖らせ考え込んだ。
「ない」
やおらタラシネ皇子の服の袖を掴んだハルに、カーチスが眉を上げた。
「おい、ハル・ヨッカー無礼だぞ」
「ブリいない。私、心配。タダシネ、歩く遅い。まいごある、だめます」
そんなカーチスに、ハルはこれは絶対だ、と首を振った。
「なんだと、迷子だと?」
「まあまあ、すごい人込みだから。逸れるよりいいだろう。ハル、今日のそうめんういろうが上手くいくといいねえ」
タラシネ皇子はカーチスに視線を送り、自分の古傷を庇うように立つハルの頭に手を乗せた。
ハルはむっと唇を尖らせたままタラシネ皇子を見上げた。
「うん?」
タラシネ皇子は小首を傾げ微笑んだ。
「ない」
ハルはタラシネ皇子の手を振り払い、目的地である広場を目指して人をかき分けた。
※
中央広場にはすでにワリュランスとジャルジュをはじめ、ブラッデンサ商会の交渉班の人間が集まっていた。広場中央に設置された机の上には彼らが徹夜して書き上げた「そうめんういろう」がうず高く積まれ、その周りには徹夜を余儀なくされた人間たちが、束の間の休息を得ようと、太陽に背を向け薄く目を閉じ立っている。彼らの目の下には一様にくっきりとしたクマがあった。
「まさか一晩で本当に用意できるとはね」
タラシネ皇子は「そうめんういろう」と書かれた一枚を手に取りため息をついた。ハルの解読不能な文字とは違い、そのどれもが画一的で当たり前だが非常に読みやすい。昨日、ハルが言った文面そのままが記されていた。
「すごい、ジジイすごい!みんなすごい!ありがとござ!」
ハルは興奮したように跳ね、早速一枚手に取った。近くにいた通行人に声をかけた。
「そうめんういろーおねげーしま!おねげーしま!」
ハルの元気な声が広場に響く。いきなり声をかけられ、ぎょっとした通行人がそそくさと逃げていく。徹夜の努力を無にする声掛けだった。
「ありぃ?」
ハルはきょとんと首を傾げる。
なんの押し売りだ。ジャルジュが半眼になった。どこかどんよりとした空気を漂わせているブラッデンサ商会の人間の目も殺気を帯びる。
「ハ、ハル。それでは分かりませんからね。私が説明しますね」
ワリュランスはすかさず、そしてやんわりと伴侶の持つ「そうめんういろう」を取り上げるため手を伸ばす。
「私、できます」
ハルは手の中の「そうめんういろう」を握りしめた。ワリュランスは困ったように笑った。
「そうですね。私のかわいいハルはできますよね。でもたくさんの人に〈そうめんういろう〉を書いてもらうのでしょう? そういうのはハルより私の方が得意な気がするのです。私にお手伝いさせてください、ね」
ワリュランスはハルの額に自分の額をくっつけた。
「近い、ない」
突然のことにハルはあわあわと両手を振った。だがワリュランスの方が、力が強い。やんわりとハルを囲い込むとその瞳に映る自分の姿に満足げに微笑み、ハルと額を合わせたまま愛らしく小首を傾げた。
「ね、お願いです」
「でも、ワラビ危ない」
ハルは口ごもった。
一体自分たちは何を見せられているのだ。
徹夜明けのブラッデンサ商会の面々は二人に一様に荒んだ目を向けた。それでもサイタリ族の伴侶とのじゃれ合いに割って入る勇気のある者はいない。
いや、一人いた。
「馬鹿ですか、ハル・ヨッカー。一体何が危ないのですか?あなたのその言語能力の方がよほど危ないですよ。私たちの労力を無駄にしないためにもあなたは引っ込んでいなさい」
ジャルジュは二人の間に割って入ると、強引にハルの手から「そうめんういろう」を取り上げた。道行く人々を気にかけ、声こそ抑えられていたがにじみ出る怒りの色にハルは後ずさった。
「ジジ……ジャジィ……」
ジャルジュは「ジジイ」と言いかけたワラビを睨みつけ、「そうめんういろう」をワリュランスに押しつける。
「でも――」
「黙りなさい。あなたの仕事は黙ってそこにいることです。いいですね」
さらに言い募ろうとしたハルにジャルジュはぴしゃりと言った。
ハルはワリュランスとジャルジュを交互に見た。それからぐるりと自分を見る面々の顔を確認し、頷いた。
「よろしくおねげーしま!でも――」
ハルは心配そうな顔でワリュランスを見上げた。
「ありがとうございます、もちろん分かっています。大丈夫ですからね」
ワリュランスはハルの髪に指を絡め、不満げな伴侶の頬を撫でると、おもむろにフードを脱いだ。サイタリ族の美貌は伊達ではない。一気に道行く人々の視線がワリュランスに集まった。ワリュランスは頬に手を当て小首を傾げると、それは嫋やかに微笑んだ。普段は伴侶にしか見せることのない、とっておきの笑みだった。買い物帰りの老女が籠を取り落とし、煙草をくゆらせていた男が大きくむせた。紅をはいたように赤い唇が「そうめんういろう」と言い切らぬうちにワリュランスの周りに人々が群がった。
うちの店で働いてくれだの、ご飯行きましょうだの、結婚してくださいだの、混沌の極みだった。
「何ですか、あれは。ハル・ヨッカーとは逆の意味で悪目立ちして、使えない」
「だから、言う、したのに――。ワラビ、人ほいほい」
ハルはジャルジュを恨みがましく見上げた。
「まあまあ、まさか君が止めたのがこういう理由だとは思わないだろう。どうする、君が行く?僕が行く?」
「ほいほい?」と首を傾げながら、タラシネ皇子はハルの肩をたたき、ジャルジュに視線を送った。その間にもジャルジュは人に囲まれ続けている。人寄せにはなっているが、とても説明できる様子ではなかった。
ジャルジュは「そうめんういろう」を一枚手に取る。昨晩何枚も書いたそれにもう一度目を通す。ハルはといえば、道行く人を捕まえひとりずつにそうめんういろうの説明をし始めていた。最初こそ、立ち止まって話を聞いてくれた人もいたが、相手は首を傾げるばかり、終いには誰も立ち止まらなくなっていた。連携も何もなかった。大体、黙ってそこにいると頷いたのではなかったのか。
ジャルジュは大きなため息をついた。
「一応ブロードから任されていますから、私がまいります。説明をしますから、皆は紙を配って署名をさせてください。タラシネ皇子もお願いできますか」
「もちろん。それとさ」
「何でしょうか」
「皇子って呼ぶのやめてもらえる? 捨てたから、さ」
タラシネ皇子はからりと言った。
「失礼しました。タラシネ様。よろしくお願いします」
「うん、様もいらないよ」
「……そのうちに」
ジャルジュは頭を下げると、タラシネ皇子に背を向け、ハルの元から立ち去ろうとしている老人にかけよった。
「私、ブラッデンサ商会統括、ジャルジュ・ヨシナニと申します。今噂の、国売りのセドについて興味はございませんか?こちらは参加者の一人、ハル・ヨッカーです」
「です!」ハルは元気よく手を上げた。
老人は訝し気な顔をした。
「彼女は外国の出ですので言葉がまだうまくないのです。ブラッデンサ商会会頭でハル・ヨッカーの後見であるブロード・タヒュウズに代わり、私が説明させていただきます」
「です!」
国売りのセドとブラッデンサ商会統括の名前に、ワリュランスに集っていた人々が振り向いた。
「与太話ってわけじゃなさそうだな」
「もちろんです。よろしければ皆さまもどうぞ。気になっているでしょう?」
ジャルジュはよく通る声で誰にともなく言い、噴水の縁に上った。
広場にはあっという間に人があふれた。国売りのセドなどどうせ誰かが止めるだろう、そうは思っていても気になるというのが人情だ。買い物客に露天商、観光客。大人から子供まで、ジャルジュを取り囲んだ。
「皆もすでに知っての通り、王は国をセドに出されました。このセドにはラオスキー侯爵、ニリュシード・ラオロン殿、マルドミ帝国のタラシネ皇子。そしてこのハル・ヨッカーが参加することとなりました」
人の多さにジャルジュは声を張り上げた。
「本当なのか?」
商売の手を止めてやってきた露天商が声を上げた。
「ええ。王はセドの参加者を前にして言いました。『この国を買う対価を示せ』と。ただし、同時に尊すぎて値段などつけられないというなら命はないとも」
「本当だったとは」
「どうすればいいんだ?」
不安が人々の間を伝播する。
ジャルジュは人々をぐるりと見渡した。不安げな視線を掬い上げるように、集まった人々と目を合わせる。そしてゆっくりとハルを見る。ジャルジュの視線を追って、皆の視線がハルに集まった。
「ハル・ヨッカーには、当然ですがラオスキー侯爵のような領地も権力も身分もありません。ニリュシード殿のような金も人脈も実績もない。タラシネ皇子のように国の後ろ盾もない。ですから当初、我々はハル・ヨッカーにセドを下りるよういいました。当然です。ですが、ここにいるハル・ヨッカーは王に国を買うと宣言しました。理由は人を、友達を守りたい、それだけです。たったそれだけ。そのためにハル・ヨッカーは自分の命をかけると言いました。」
「まさか」
「本当か」
「私、守ります。私、一人、来る。友達、皆大事」
ハルは力強く肯いた。言葉が拙いからこそ、ハルの言葉には力があった。
「そ、そうか」
間近にいた男が呑まれたように頷けば、周囲の人々も少し明るい顔になった。
「だったらなんだい。そんなバカそうなのに何ができるって言うんだい。きっとラオスキー侯爵様やニリュシード様が止めてくださるさ」
少し離れた場所で誰かが言った。
「そうだそうだ」
その声を呼び水に、そこここから一気に同意の声が上がった。ハルに頷いた男も後ろを振り向いた。
「本当に? 本当にそうでしょうか」
ジャルジュは最初に声を上げた男がトルレタリアン商会の人間だと確認すると、あえてその男に話かけた。
「そうだよ、そうに決まっている」
話しかけられるとは思っていなかった男はたじろぎながらも、さらに大げさに身振り手振りを加え否定した。
「では、どうしてあなたは私の話を聞くのですか?それはこれからどうなるのか、不安だからではないのですか?」
「……だからなんだってんだ。商会なんてきれいに取り繕ったところで、セドをやる奴らなんて一攫千金を狙う与太者の集まりだ。どうせその小娘だって、お前らだって、いざとなったら逃げだすんだろう!ニリュシード様もラオスキー様もいざってときはいつだって俺らを助けてくれただろう」
なるほど、新興のブラッデンサ商会の方がトルレタリアン商会より歴史は浅い。ニリュシードもラオスキー侯爵も戦いや旱魃、災害があればいつだって私財を投じて民を救ってきた。だが、ニリュシードは戦の最中には絶対に商会の人間を派遣しないし、王位争いの兆しを見せ始めたとき、真っ先に王都を去ったのはラオスキー侯爵だ。彼らはいつだって自分の身を守ることに長けている。だからこそ、いざというときに他人に施せるのだ。だがそんなことを知るのは日ごろから情報に触れているジャルジュだからだ。
ジャルジュはひと呼吸つく。市の端で元気に呼び込みを続ける市の世話役の乾物屋の女店主の横顔と、群衆に交じる老舗の宿屋の老主人に目をやり、乾いた唇を舐める。
「ハル・ヨッカーは謁見の間で王に窓から落とされそうになりました。王の怒りを買ってなお、自分を曲げない。ここにいる幾人にそれができますか?少なくとも私はできる自信がない。馬鹿な王が国を売ったせいで、どうなるか分からない。不安でしょう。私もそうです。ですがこれはいい機会なのです。王が国をいらぬというのなら、王から私たち自身の手で国を取り戻す。貴族でもない。金持の商人でもない。私たち民も生きているのだと、声をあげるのだと。私たちに今必要なのは、覚悟なのです」
ほんの微かに声が震えた。それでもジャルジュはできるだけ淡々と言葉を紡いだ。人々の奥底にある小さな種火に薪をくべるべく、空気を送った。人々はジャルジュの顔に見入る。
「この紙―そうめんういろう―にはハル・ヨッカーが国を手に入れた場合どうするかが書いてあります。それがこのセドにおけるハル・ヨッカーの対価です。ハル・ヨッカーには金もありません。言葉も拙い。それでも、ハル・ヨッカーは人を守るために命をかける、と王の前で言える人間なのです。賛同される方は、この紙に自分の名前を書いてください」
言い切ったジャルジュは唾を飲んだ。肩で二度息を吸う。頬は紅潮していた。
静かながら熱い演説。熱に浮かされたように近くの男が一歩前へ進み出た。タラシネ皇子の手からペンを受け取った。そうめんういろうに最初の一文字を書いたときだった。
ぱちぱちぱち。
大きな乾いた拍手が鳴った。人々が振り返る。
広場の入り口、馬に乗った男は皆の視線に手を止めた。年のころは四十から五十、短髪で年の割には引き締まった体つきの男だった。
「ご高説、大変心にしみるよ」
随分と芝居かかった口ぶりだった。男が小さく馬腹を蹴り、人々は慌てて道を開けた。男は馬に乗ったまま、ハルの持つそうめんういろうを覗き込んだ。
「へえ、これがそうめんういろうか。君の国ではそうやって血判状をとるのかい?まだ若いのになかなかの策士だね」
「けっぱんじょー?」
「血判状だと?! これは血判状なのか?」
人々がどよめき、名前を書きかけていた男が血相を変えた。
ハルは首を傾げ、ジャルジュを見た。
「けっぱんじょー?」
血判状とは命をかけて物事をなす。その覚悟と連帯をしたためる書状だ。血判状のもつ、血生臭さと共に進むという覚悟をハルに分かるように説明するには人目が多すぎた。下手なことは言えなかった。
舌打ちをこらえ馬上の男に笑顔を向けたジャルジュにかわり、口を開いたのはタラシネ皇子だった。
「自分たちの要求を上のものに通そうとするときに作る書面のことだよ」
非常に簡素な説明だった。その説明はまずい。ハルの理解力を多少なりとも把握していたジャルジュは焦ったが遅かった。ハルはふむ、と考え込み頷いた。
「はい、そうめんういろうは、けっぱんじょー」
大きな声ではっきりと。断言した。
人々のどよめきが動揺に変わった。
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