2-4 タラシネ皇子の理由2

「一国の皇子が出奔とは……。にわかには信じられないな」

「マルドミ帝国の第五皇子の噂は聞こえてきます。見聞を広めるため諸外国を遊学しているその裏で、帝国の他国の侵略に一役買っている、と」


 ブロードが肩をすくめれば、ジャルジュが冷静に指摘した。


「別に、うちの国は一夫多妻制で父である皇帝には十人以上子供がいるし、僕一人いなくてもどうということはないからね。それに、下手にいる方が兄上からの風当たりが面倒だ」

 タラシネ皇子は裏襟に施された精密な刺繍を指先でつまむと裏返した。

「それを信じるとでも?」

「だめかい?」

「ダメも何も胡散臭すぎるだろ。自分だって分かっているだろうに。あんた自分がなんと呼ばれているか知らないわけじゃないだろう」

「いやだなあ……勢力を拡げているのは兄たちの功績だよ。皇子ということだけで色々混ざっているみたいだね。噂が」

「では、ご正妃が御産みになった皇太子と、タラシネ皇子と同じ妾腹の第二皇子お二人の手柄になさっているということなのでしょうか。皇帝は現在後継者をまだ決めていらっしゃらないとか。タラシネ皇子はどちらの兄君につかれるのでしょうね。それとも、ご自身が皇帝になられるのですか? それでしたら今のうちに仲良くさせていただきたいものですが」


 ギミナジウスでは聞くことのない他国の情報に、ブロードはぎょっとした顔でジャルジュを振り返った。

 タラシネ皇子は虚をつかれたように目を丸くし、困ったように笑った。


「本当、これだけ距離が離れると、情報も正しく伝わらないものなのだね」

「そうですか。それは失礼をいたしました」

 ジャルジュは慇懃に頭を下げた。

「そうだよね。信じてもらうには手の内を見せなくてはね」


 タラシネ皇子は頷くと、おもむろに上着に手をかけ脱ぎだした。上着だけではない。中のシャツも手際よく脱いでいく。


「ちょ、ちょ何しだすんだ!」

「私のハルに何を見せるのですか!」

 ブロードが席を立てば、ワリュランスは即座にハルの目を覆った。ハルはワリュランスの指の隙間をこじ開けた。

 

「これが理由かな、下も脱ぐかい?」


 あっという間に上半身裸になったタラシネ皇子はにこやかに笑った。

 誰もが目を見張った。

 指の隙間をこじあけその姿を見たハルは、ワリュランスの腕を振り払った。床に落ちたタラシネ皇子の服を拾い、触ったことのない滑らかな手触りのシャツに唇を噛むと、黙ってタラシネ皇子に押しつけた。


「なんだ、これ、ダメ、ごめんなさい。逃げる大丈夫。嫌なことしないがよい、です。私も散歩、する、あります」


 タラシネ皇子の体には明らかに折檻の跡と分かる傷があった。引きつれて黒ずんだものがほとんどだったが、その中のいくつかはまだ赤いかさぶただった。白い肌の上、それは醜く、皇子の整った顔と笑顔がよけいに痛ましくみせた。


「ごめんよ。泣かせるつもりはなかったのだよ。怖いものを見せてごめんね。昔のことだからそんなに痛くはないのだよ」


 タラシネ皇子は散歩の単語に目を丸くし、自分の肩にシャツを押し当てる小さな手からシャツを受け取り、ぼろぼろと涙をこぼすハルの頭を撫でた。

 ハルの涙はさらに激しくなった。母国語で何かを喚いた。

 ワリュランスがハルにかけより、タラシネ皇子から引き離すようにして抱きしめた。

 ブロードは幼いころ虐待された者に同じような傷を見たことがあった。タラシネ皇子の傷跡は蚯蚓腫れにも近く、それは背中にも腹にも広がっていた。逆に腕は不自然なほど傷一つなかった。だからこそその傷が、体面を重んじる誰かによって、人の目に映らない部分につけられた傷だと分かった。ブロードをその中に新しい傷を見つけ、吐き捨てた。


「それで、か」

「私もいい加減自由に憧れてね。それでたまたま街にお忍びで来ていた王と出会って、お互い身分を明かすこともなく話をして意気投合したって感じかな」


 早く服を着ろとハルにせっつかれたタラシネ皇子は苦笑いしながら、シャツのボタンを留めた。


「なにが、感じかな、だ。つくならもっとましな嘘をつけ。皇子であるあんたに幼いときから、そして抵抗する力を持った大人になってなおそんな仕打ちをして許される者など限られているはずだ。そんな相手から自由になろうというのならよほど計画的に動いているはずだ。たまたま、なんてありえないだろう」

「うーん、でもそれが本当だしね。真実なんて案外何気ないものだったりするだろう。それに僕にとっては王が初めての友なのだよ」


 タラシネ皇子は噛みしめるように言った。見ている方がじれったくなるような微笑みを浮かべ、腰の剣帯を外し、机の上に置いた。視線だけで確認するよう促す。


「王が、友とはな。本気か?」


 胡乱気なブロードに代わり、確かな審美眼を持つジャルジュが剣帯を手に取った。丁寧に鞣された革は使い込まれ経年の輝きを放っていた。長さの調節がしやすいようにつけられた金具も繊細な仕事だった。さぞ名のある名工の作品だろうと裏返したジャルジュは手を止めた。工房の紋が刻印される場所にあったのは、獅子の頭と盾、唐草の縁取り。ギミナジウス王族の直系ではなく臣籍に下った者がもつ紋章。現在この紋章を使うのは現王だけだった。


「どうしてこれを?」

 ジャルジュの声は震えた。信じられなかった。


「王と友情の証として交換してね。私がこの国にいる理由はさっき見てもらった通りだし、王との証を求められれば、これだからね」


 タラシネ皇子は、剣帯を自分の肩からぶら下げようとするハルの手からやんわりと取り上げると、素早く装着した。


『ケチ』


 じっとりとした視線を向けたハルを、タラシネ皇子は笑顔でいなす。

「マジもんか?」

 ブロードの問いに、ジャルジュは固い顔で頷いた。ブロードは華美なタラシネ皇子の服装の中、地味にも見えるその剣帯を見つめると息をついた。

「それで、一体俺たちに何をさせたいんだ?あのバカ王と組むなんて正気を疑うんだがな」

 言外にあんたは馬鹿なのかと言ったブロードにタラシネ皇子は姿勢を正した。

「一緒にこの国を守ってほしい」

「は?あんたマルドミの皇子だろう?一体何を言っているんだ?」

「だが、今は出奔した身だ。その身分も無意味なものだ。私は今初めて誰からの命令でもなく自分の意志で未来を選ぼうとしているのだよ」

 タラシネ皇子は誇らしげに言った。真摯なその目に嘘はないように見えた。


「つまり、なんだ?あんた、国を捨てこの国で暮らしたいが元の身分が邪魔だ。それならこの国で生きていくために、国に貢献して居心地よくしよう、とそういう腹か? それが、この国売りのセドだと?」

「たまたまそうだっただけだ。初めての友がたまたまこの国の王だった。友のために何かをしたいというのはおかしなことかい?」

 タラシネ皇子は当然のことだと頷いた。

「おかしかねえよ。おかしかねえ。だけどな、おかしいんだよ」

 ブロードは席を立つと頭をかきむしった。

「ブロード、あなた意味不明ですよ」

 ジャルジュの的確な突っ込みに、ブロードはがるると唸り、どっかと席についた。


「まあいい。色々あるが、まずはあんたの話を聞こう。タラシネ」

「タラシネ」

 タラシネ皇子は目を瞬いた。ジャルジュはあまりの不敬に身を引いた。


「皇子じゃないなら、呼び捨てでいいだろう。それとも様とつけた方がいいか?客でもない相手に様をつける習慣は庶民の俺にはないんだが」

「いえ、タラシネで」


 にかりと笑んだブロードに、タラシネ皇子は嬉しそうに頷いた。

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