間話 と或る文官の災難

 誰もいない総史庁に一人、総史庁第三席ユビナウス・ハーレンはいた。ユビナウスはここ十日ほど季節外れの流行り病にかかり、一番忙しいリドゥナの確認作業時期をずっと休んでいた。今日はその穴埋めの出勤だった。だがセド当日の総史庁は暇以外の何物でもない。次のセドの準備をしようにも次回のセドのリドゥナの受付は明日からだ。ユビナウスはぼんやりと宙を見つめていた。

 どたどたと音がした。


「大変だ! すぐに広場へ行ってセドを止めろ」

 腹を揺らしながらグラージ総史庁副長官が駆け込んできた。

「なぜです?」

 始まったセドを止めるなど前例がない。ユビナウスの疑問は当然のものだった。

「王が国をセドに出した。このままでは国がセドにかけられてしまう」


 グラージ副長官は早口でまくし立てた。その焦りはユビナウスには伝わらなかった。ユビナウスは怪訝そうに顔をしかめた。


「それはセドに出せばそうなりますね。それにしても国売りのセドなんてよく通しましたね。誰が許可印を押したのですか?」


 縁故採用で副長官の座にあるグラージに代わり、実質的に総史庁の実務を取り仕切っているユビナウスは、自分が休んでいる間に何があったのだ、とグラージ副長官を見た。


「私ではない! 押されていたのはお前の許可印だ!」

 グラージ副長官はユビナウスを指さした。腹がたぷりと波打った。

「……馬鹿な。私はずっと休んでいて――」


 ユビナウスは絶句した。すぐに言葉を見つけられず、なんとかそれだけ絞り出した。

 グラージ副長官は嫌そうに眉を寄せた。


「わかっている。仮に時間外にお前が登城したとしても許可印を使うことはできない。今ヴァレリアン長官が止めようとして下さってはいるが、王はきかないだろう。だから――」


 そこまで言われればユビナウスに説明は必要なかった。すぐさま立ち上がった。椅子に掛けてあった制服を羽織り、総史庁の腕章をつけると部屋を飛び出した。


 ※


 がたがたと石畳の上を荷馬車は走る。

 一体誰が。

 自分の「許可印」が使われた。その意味をユビナウスは考えていた。

 リドゥナに押される総史庁の許可印は総史庁の文官の数だけ存在する。山のように出されるリドゥナを迅速に処理するためだ。そして外部の人間は知らないが、まったく同じに見える許可印は実はそれぞれ微妙に違う作りになっている。誰が何のリドゥナに許可を出したか後から確認するためだ。許可印の管理はそれぞれ厳重になされ、同じ総史庁の文官といえど他人の許可印を使うことはできない。ユビナウス自身許可印を入れている場所の鍵はこの十日間の休みでも肌身離さず持っていたし、合鍵も古すぎて作れないという代物なのだ。

 ユビナウスは服の上から小さな鍵を握りしめた。


「ユビナウス様」


 声をかけられ、ユビナウスは我に返った。荷馬車には今年総史庁に入ったばかりの新人マハティ・タールと近衛兵が同乗していた。


「ユビナウス様、止めるといっても、どうやって止めるのですか。王は本気みたいですし」


 初めてのセドの現場でとんでもない案件を見つけてしまったマハティの顔色は悪く、王に報告してきた緊張からか、今も声が震えていた。

 ユビナウスは一旦考えるのを止め、不安そうなマハティに笑ってみせた。


「別に大げさに考えることはないでしょう。間違えたからセドを取り下げる、それでよくはないですか?」

「……それは、御璽も許可印も押されたリドゥナを間違いだったことにするのですか?そんな無茶な!」


 一度押された許可印は訂正できない。だからこそ判断は慎重に行うべし。マハティは総史庁に入って許可印を預けられたとき、そう教わった。ユビナウスが言うことは規律違反だった。


「だったことにするのではありません。間違いに気付いたので訂正するのです。それに――」


 私は押していない。マハティにだけ聞こえる声でユビナウスは言った。

 マハティの顔が驚愕にひきつった。両手で口を押え、必死で悲鳴を飲み込むと、御者台にいる近衛兵を気にするように声を落とした。


「ユビナウス様の、ですか? ありえない。じゃあ誰が」

「だからこそ、止めるのです」


 ユビナウスははっきりと言った。マハティも頷いた。


「もしかしたら犯人が来るかもしれませんしね」

 果たしてそうだろうか。ユビナウスはセドの始まる鐘の音に唇を噛んだ。


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