1-4 ハル・ヨッカーの真実
「ほれ」
「大したものですね」
ブロードは青年の感嘆に肩をすくめ、リドゥナをジャルジュに押し付けると、噴水の縁に腰かけた。熱を持った右手を噴水の水にひたし、大掲示板に目をやった。
セドの終わった大掲示板の下では、利益にならないと判断され打ち捨てられた屑リドゥナに、一枚もリドゥナが取れなかった者たちが群がっていた。目当てのリドゥナが取れなかった者たちが屑リドゥナに群がるのはセドではお決まりの光景だ。
ブロードはその中に見知った顔をみつけ、ジャルジュを振り仰いだ。
「おい」
ジャルジュは青年と何やら話し込んでいて、ブロードに気づかなかった。まあいい。ブロードは必死に屑リドゥナを追う黄色い制服に視線を戻した。
※
大掲示板の下、ハル・ヨッカーは地面に落ちたリドゥナに手を伸ばした。さっと横から手が伸びてきて、あっという間にリドゥナを奪われる。これで十回は同じことを繰り返している。いつもなら、敗残者の連帯感とでもいおうか、一枚程度譲るのが暗黙の了解だ。だが今日に限って、そんなおこぼれが一枚も取れないでいた。そろそろ落ちているリドゥナも少なくなっている。ハルは空気の読めない男たちを睨みつけた。黄色い制服を着た男たちはそんなハルを鼻で笑い、落ちているリドゥナに手を伸ばす。睨んでいる間には落ちているリドゥナは減っていく。ハルは気を取り直すと、負けじと小柄な体を生かし、男たちの隙間を縫って手を伸ばした。だが多勢に無勢。右から左から手が伸びてきてリドゥナを取っていく。
最後の一枚を取り逃したハルは、大掲示板の前に一人、立ち尽くした。広場の入り口では今回のセドで取ったリドゥナの受付が始まっている。
ハルは大掲示板を見上げた。隅から隅まで何もない。ただの木の板だった。
「何度見たってリドゥナはないさ」
リドゥナを持って受付の列に並ぶ男たちがハルを揶揄った。ハルが顔を背ければ、男たちの笑い声はさらに大きくなった。ハルは空の両手にため息をつき、自分の足より少し大きい借り物の靴を見た。穴の開いた自分の靴の代わりにと、同居人が貸してくれた靴だった。
「しかたない」
呟いたハルの目の前をひらりと何かが上から下へ、通りすぎた。
「え?」
ハルは下を見て、二度、瞬きをした。靴の上にリドゥナがあった。ハルはすぐさまそれを拾い、上を見た。大掲示板のさらに上、塀の上の通路にも人影はない。ハルは大きく首を傾げ、周りを見た。噴水に座っているブロードと目が合った。
ハルは笑顔になると、大きく手を振った。
「ブ、ター」
ハルはブロードの元へ走った。
不幸にもその言葉を耳にしてしまった者たちは固まった。
ハルはブロードの前でぴたりと止まり、ぺこりと頭を下げた。そして元気いっぱい言った。
「ブタ、だまーれ」
空耳ではなかった。周囲の空気が一気に凍り付いた。
ブロード・タヒュウズは部下百人余を抱えるブラッデンサ商会の会頭である。怖いもの知らずにもほどがあった。しかもハルは笑顔。破壊力は抜群だった。
ブロードは怒鳴らなかった。呆れと苦笑の交じった顔でハルを見上げた。
「おいおい、ブタはないだろうブタは」
「ブタをブタという、何が悪い?」
ハルは心底不思議そうに首を傾げた。暴言を悪びれる様子は一切ない。
ブロードはおもむろに立ち上がった。にこにこと自分を見るハルの頭をがしっと掴み、頭二つ分は小さい相手と半ば強引に視線を合わせた。
「ハル、いいか。俺の名前は、ブロード・タヒュウズ。それに挨拶はタマーレだ」
ハルはブロードの言い分をなにやらもぞもぞと口にし、頷いた。
「わかりました。……
ハルはどうだ、と胸を張った。微妙な空気が流れた。
「うん、だからな。ブ・ロ・ー・ド」
ブロードはもう一度、今度はゆっくりと繰り返した。
ハルはブロードをじっと見返し、考え込んだ。しばらくして頷くと、大真面目に言った。
「ブタ」
「ブロード・タヒュウズ」
「
「……はあ、まったく。一年たつっていうのに、相変わらず壊滅的な発音だな」
ブロードは肩をすくめた。そこに怒りはない。むしろ気安ささえ感じられるやり取りに、ジャルジュは青年との会話を中断し、信じられないものを見るような目でブロードとハルを見比べた。
「ブロード。あなた、ハル・ヨッカーと知り合いなのですか?」
「うん? まあな、こいつのセドの後見は俺だからな」
「後見、ですって?」
ジャルジュは目を見張った。
外国人がセドをする場合、この国での後見人が必要になる。もしも何か不始末をしでかした場合、責任をとるだけでなく、不慣れな国で独り立ちできるようにという制度だ。後見人になるのにはギミナジウスの国籍と五年以上のセド業者としての実績がいる。一般的には外国人の後見人になるのは特に縁のある相手の場合だけだ。なにせ不始末をしでかせば、連帯責任になる上に、自分の信用にも関わるのだ。好き好んで後見人になる人間などそうそういない。
「一年ほど前か……、外国から来て一人で大変そうだったんで、ちょっとお手伝いをな。ちょうど言葉を教えてくれる同居人もいたようだが、この分じゃそう進歩してないみたいだな。あー……言ってなかったか?」
このところ自分の頭を悩ませていた元凶の一因がブロードだった。その事実に、ジャルジュはなんとも形容しがたい顔で首を振る。
「言ってないですよ。だいたいあなた、分かっているのですか。今日ここになんのために来たのか」
「何ってハル・ヨッカーに会いたかったんだろう?」
「……ええ、ええ、そうですとも。あなたにブラッデンサ商会の会頭の自覚など求めた私が馬鹿でした。ここ数か月、ことごとく私たちの邪魔をしてくれる噂のハル・ヨッカーにご挨拶に行くなんていう用件に、普段私に全てを押しつけるあなたが文句も言わずついてくるからおかしいと思ったのですよ。そのわりには本当の目的も理解していない能天気振りですし」
ジャルジュは形のよい唇を引きつらせ小刻みに頷き、ブロードを睨んだ。
「……違ったのか? 毎月セドの翌日、執務室で恋人の名前を呼ぶようにハル・ヨッカーの名を呟いていただろうに」
ブロードはあっけらかんと口にした。
ジャルジュの感情はもはや崩壊寸前だったが、それでもブロードに成り代わりブラッデンサ商会を取り仕切る男だ。強力な意思の力で自らの感情を押し殺すと、頬一つ動かすことなく、ハル・ヨッカーを見下ろした。
セドは事前の情報こそが成果を分ける。その、情報戦において、ハル・ヨッカーはその名前以外の何もジャルジュに掴ませなかった。この国のセドの裏も表も知り尽くしたジャルジュが本気になってなお、出身も経歴も、何一つ出てこなかった。業腹だったが、同時に新人の実力あるセド業者は少ない。ブラッデンサ商会の戦力となる人材の発掘に余念がないジャルジュには、ハル・ヨッカーは目の上のたんこぶであると同時に魅力的な人材だと思えた。
だからこそ、直々に顔を拝もうと思って乗りだしてきたのだ。もしも、共同戦線をはれるならどれだけ心強いだろう。敵を敵とするか、味方とするのか。ジャルジュはその匙加減を間違えたことはなかった。自分から情報を隠せるだけの能力の持ち主ならば、もしかしたら――と。
それが、この少女。いや、少女というにはそれなりに年はいっているようだ。ジャルジュはハルをまじまじと見た。だがいい年をした女ならば、こんなところにはいない。どんなに身分の低い者でも二十歳を越せば行き遅れだ。それなりに家族のいる者なら家長の元、嫁ぎ先にいるはずだ。こんなところをふらふらしているわけがない。そもそもセドに何度も顔を参加している時点でおかしい。そう考えると十代にも二十代にも見えるハル・ヨッカーは、怪しい以外の何者でもなかった。ジャルジュの眉間に皺が寄る。
どうにもしっかりした報告が上がってこないからよほどの手練れなのかと思っていたが、どうせ「女に負けました」と報告したくなかったとかいうのが理由だろう。
期待した自分が馬鹿だった。気を張っていた分、ジャルジュは妙な気だるさに襲われた。
そんなジャルジュなどおかまいなしに、ハルはジャルジュの丸い眼鏡の奥を覗き込んだ。
「ブタ、この人だれですか」
つぶらな瞳でブロードを振り返った。
ブタと呼ばれるか、女呼ばわりされるか。ブロードはこれまでにも何度も悩んだ究極の選択の結果、
「……ジャルジュだ。ブラッデンサ商会をまとめているからセドをしていれば会うこともあるだろう」
今回もブタに甘んじることを選んだ。
ハルは大きく頷く。
大きな声で、はっきりと。伝わるように。あなたは言葉が得意ではないのですから、はっきり言いなさい。いつも優しい同居人から言われていることに従った。
「ジジイさん、だまーれ。よろしくタノモー」
偶然通りかかった男たちが、ブロードが、素早く彼らから距離をとった。
間違っても、ブラッデンサ商会を統括する、才気あふれるまだ二十代の男への呼び方ではなかった。
ハルはただ一人、満足そうに笑っていた。
冷静に人のあげ足をとる男は、静かにキレた。
「ちょっとどいてください。私がそこの馬鹿の頭にたたきこんでやります。ええたたきこんでやりますとも」
ちょっとそこまで買い物に行ってきます、くらいの自然な口調で周りの心臓をさらに縮めると、ジャルジュは遠慮なく腰の刀を鞘ごと抜いた。
「まて! 早まるな。相手は女だ、言葉が分からんのだ」
ブロードは慌てて二人の間に入った。
「そんなのが言い訳になりますか!」
ジャルジュは鞘の尻でブロードのみぞおちを撃った。優男ぶりからは想像できない速さだった。だが、ブロードとて負けていない。肉体労働ならブロードの領分だ。すぐにジャルジュの背後に回ると、羽交い絞めにした。セドに性別は関係ないとはいえ、女がのされる姿など見たいものではない。
そんな騒ぎを横目に、ハル・ヨッカーは……飽きていた。この国へ来てから一年あまり。日常会話はなんとか分かるが、早く喋られるとハルには理解できない。最初のころは必死に分かろうとしていたが、今では分からないならそれでいい、とハルは適度に諦めを覚えていた。
結果、自分が原因の騒動に慌てることなく、ハルは目下の疑問の解決を優先することにした。
呆気にとられて事の成り行きを見守る青年に近づき、今日の唯一の収穫物であるリドゥナを差し出した。
「これ、ナニ書いてある、ます?」
災難なのは青年だった。今にも飛びかからんとするジャルジュとそれを抑えるブロード。そしてそんなものをなかったことにしてしまっているハル・ヨッカー。困惑したように後ろはいいのか、と口を開こうとした青年は、ハルが差し出したリドゥナに目を見張った。
二四七番。
青年が手に入れたものと同じだった。
《クニウリマス オウソウダン ヨウメンダン》
青年は驚愕の目で、混乱の元凶であるハル・ヨッカーを見下ろした。
「これ、何のセド?」
ハル・ヨッカーは無邪気に笑った。
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