第4話 言葉なんか覚えなければよかった

4 言葉なんか、覚えなければよかった


 遥かかなたの言葉。ぼくのものとなっていない、言葉を所有して、自由に使いこなしてシナリオか小説を書く生活からは、隔絶されてしまった現在のこの日常を呪詛する。いつになったら、いつになったらこの苦役から解放されるのだろう。世界の終焉までこの北関東のさいはての地での労役は終わらないのだろうか?

 ああ早く小説を書きたい。小説を書くことさえできれば、この苦しみからぬけだせるはずだ。


 糸の重圧に耐えられず上半身が不安定にゆがみ、きしむ。あまり長いこと歩き過ぎた。膝が、ふくらはぎがしびれた。

 膝関節炎が再発しなければいいのだが。激しく痛む。硬直したように膝の関節がつっぱる。痛む。曲げると激痛が走る。それでも、歩きつづけなければならない。痛みに耐え、疲れた体で歩き、ただひたすら前に進む。一回でもおおく糸を引く作業をつづけなければ、製品を作り上げなければ月末の病院への支払がとどこおることになる。そうなれば、即刻父の治療はうちきられてしまう。

 これでは、また、夜になってからも、両足はありもしない大地を踏みしめ……前に進もうとしてつっぱるだろう。現実化しない生活を夢見て涙をながす。起きてからも、ながした涙は枕をぬらしたまま乾くことはない。


 ぼくはだれにも泣きごとをいうわけにはいかない。沈黙。……そしてただひたすら、単調な労働に励む。世界の無関心さに耐えること。忍ぶこと。

 耐え忍び、一日も早くこの日常からぬけだしたい。いまはこの環境を甘んじて受けいれることだ。この家から動くことは出来ない――。

 例え膝の軟骨がすり減って、歩けなくなる日があるとわかっていても、いまは歩きつづけなければならないのだ。倒れて死んでしまうと告げられても、今日の糧をあがなうためにも、歩けるうちは歩きつづけなければならない。父の医療費は平均的なサラリーマンの収入の四倍にもなっていた。なんとしても、稼ぎつづけなければいけないのだ。

 ともすれば、後ろに引きもどされそうになる。33本の撚糸の張力と重量に逆らいながら、一歩二歩三歩、13メートルの距離を往復する。背後に引きもどそうとする力とぼくは争って、反り身になる。

 上半身を左右によじるようにしながら、いつもの動作、おなじ糸引きの作業をくりかえす。暗い意識に黒い光が一瞬なだれる。

〈どうしてこんなことになってしまったのだろうか〉ぼくら家族が望んだわけではない。ふいにおそいかかってきた。それでいて、拒むことも、それから逃げだすこともゆるされない。ぼくの父をおそった病魔は陰険に腰を据え、ぼくらを蝕む。父の直腸は青い炎をあげて燃えあがっていた。病名は直腸がん。手の施しようがなく、脇腹に人工肛門を穿つ(ウガツ)手術をしただけだった。長姉が言うので、父には病名も手術の経緯もしらせなかった。

〈どうして、こんな、ことに……〉疲労のはてにやってくるこの疑問……だれに訴えればいいのかわからないこの空言にたいする回答はどこにも用意されていない。

 板塀はびっしょりと濡れてふくらんだ糸の重圧にたえきれず、ゆがみ……傾き、大谷石の底石との接合部がきしみ、がさつな音をたてている。

 

 この板塀は父の全盛期に建てたものだった。いまは白アリに浸蝕されている……。それも外部からみると、まだ、堅牢にみえるだけに一層不気味だ。

はた目には健在な家族なのに内側から崩れかけているわが家の危うさとどこか似ている。


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