凍えるほどにあなたをください――Jan.

氷姫メルティーナの失せ物

「あ……」


 庭に面した通路を歩いている途中、スルリ、と髪から簪が抜けた。綺麗に結い上げられた銀髪が広がり落ちる。振り返った頃にはもう、すでに侍女が膝を折って、石造りの廊下に落ちた簪を拾い上げてくれていた。それを見て、メルティーナはほんの少しだけ形の良い眉を顰める。


「すぐに御髪をお直しいたします。あちらでよろしいでしょうか」


 立ち上がった侍女が指し示した先に、庭を眺めるためのベンチがあった。メルティーナは承諾する。

 簡素なベンチに腰掛けると、侍女は代わりの髪飾りをいくつか見せてくれた。ため息を押し隠しつつその中から適当に一つ選ぶ。

 日の差し込んだライラックの庭を眺めている間に仕上がった髪型は、完璧だった。鏡なしでそこまでする侍女には感心するが、メルティーナの胸のうちはすっかり沈みきってしまった。

 お気に入りの簪だったのだ。水晶でできた大きな雪の結晶と、銀の鎖に括りつけられた小指の爪ほどの鈴が揺れるようになっている。これを着けて歩くとしゃらしゃらと小気味良い音がして、楽しかったのだけれど。


 ――しかし、もう二度と、メルティーナが着けることはないのだろう。


 メルティーナの手を離れてしまった物が戻ってきたことは、ただの一度もないのだから。




 カーレル国の王女メルティーナの不幸は、まさにその魔的な美貌を持ったことにあった。

 艷やかな銀髪は、如何なる光を受けても青く神秘的な輝きを宿す。ほんの少し切れ長の青い瞳は冬の湖面のよう。肌は抜けるように白く滑らかで、肢体は過不足なく豊満。声はヴァイオリンに例えられ、所作は凛として、鋭い顔立ちは冷たい印象を与えはするものの、女神も羨むほどの美しさ。

 故に彼女は〝氷姫〟と称され、周囲から崇め奉られていた。

 傾倒する者も、また多い。身の回りの世話をする侍女たちや、警護の騎士たちは言わずもがな。既に妻や幾人もの愛人を持った齢を重ねた大臣たち、国事で謁見した国民たち、社交の場で彼女に挨拶した貴族子息ばかりか、令嬢たちの中にもまた、メルティーナに憧憬を抱く者が多く居た。


 広く慕われるだけであれば、どれほど良かったであろう。もしくは、伝説の美姫たちのように〝傾国の〟と冠されるようであれば、彼女はまだ小さな幸せを抱くことが叶ったはずだ。

 しかし、彼女の美しさによって生み出された国民たちの行き過ぎた信仰心が、彼らにある〝欲〟を抱かせた。


 所有欲――メルティーナを手に入れたいという欲。


 それはなにも、彼女本人に限った話ではない。

 メルティーナが身に着けていた装飾品、衣服に切れ端、使用した櫛や化粧品、果ては抜け毛にまで至る。

 そうして彼らは、メルティーナの一部を自らの傍に置きたがるのだ。


 もはや執念や執着とも言えるそれに、メルティーナは常に晒され続けていた。施しを請われたり、落とし物をくすねられたりするのはまだ良いほう。最近は、事故に見せかけてわざとものを落とされ回収させられるようにもなってきた。

 そうして、国費からあらゆる物が与えられる彼女は、同時にあらゆる物を失い続けているのだった。




 昼間簪を拾った侍女は、壊れたので処分した、と言って髪飾りを返してはくれなかった。こういった事態に慣れてしまったメルティーナは、そう、とだけ応えて追及しなかった。返せ、と言い募ったところで、あれこれ言い訳されて躱されてしまうからだ。思い入れを語っても無駄。壊れていてもいい、と言っても無駄。煙に巻かれて、彼女たちの懐にしまわれてしまう。

 自室での着替えの間、同性に向けるものとは思えない侍女たちの熱視線に嫌気が差した。裸体すらしげしげと観察されるのだ。着替えも入浴も全てを任せるのが当然の環境で育ったとはいえ、職分を越えて向けられる眼差しに慣れることはない。かといって自分一人で着替えることもできないので、されるがままでいる。


 今宵、晩餐のために用意されたドレスは、水色のマーメイドラインのものだった。胸元から裾に掛けて色が淡くなり、白に変わっていくものだ。まさに、〝氷姫〟に相応しいドレス。メルティーナの周りの信者じじょたちは、彼女を演出することを惜しまない。


「素敵なドレスね」


 晩餐の席で娘を見た王妃は、メルティーナの装いを褒めてくれた。両親はメルティーナの美貌に惑わされない数少ない人間であったので、メルティーナも安心してその言葉を受け取れる。


「でも、その衣装だったなら、先日一緒に選んだ雪の簪が良かったのではないかしら」


 まさに今、諦めざるを得なかった物のことを話題に出されて、メルティーナは表情を曇らせた。


「申し訳ございません。あれは、昼間壊してしまいました」

「……あら、そうなの。残念ね」


 侍女の言い分をそのまま口にすれば、王妃はははそれきり口を噤んだ。ちちもまた、なにも言うことはなかった。二人とも事情を察しているのだ。

 その上で、なにも言わない。



 数年前、失せ物が多くなりはじめた頃。他の人と同じように、少なからず物への執着心を持っていたメルティーナは、侍女が持ち物をくすねたことを周囲に訴えたことがあった。その侍女がなにを言っても返してくれなかったので、周囲を頼らざるを得なかったのである。

 メルティーナは、ただ物が返ってきて、同じようなことが二度と起こらなければそれで良かった。

 しかし、メルティーナの訴えを聴いた周囲は、彼女の意に反して必要以上に騒ぎ立て、事を大きくした。盗みを働いた侍女は罪に問われ、極刑となったのだ。いくら王族の物を盗んだとはいえ、あまりに過ぎた罰だった。

 しかも、その件は見せしめにもならず、二度、三度と同じことが繰り返された。

 積み重なっていく死体に、メルティーナは恐怖を覚えた。そして、口を閉ざし、物に執着することを諦めた。諦めざるを得なかった。メルティーナはなにも、臣民を殺めたいわけではなかったのだから。




 メルティーナには、兄弟がいない。だから、婿を娶り、その人に王位を継がせることが決まっていた。婚約者は、王が選定に選定を重ね、隣の大国メルスの王子に決定した。

 本来なら、他国の人間を迎え入れるのは、国政の外部干渉を許す恐れがあるために避ける。自国より影響力のある国ならなおさらだ。しかし、この国はあまりにもメルティーナの信者が多く、先の失せ物の例もあってどのような突飛な事態が起こるか分からない。そのため王は、メルティーナの評判を噂でしか知らない他国の者に可能性を懸けることにした。


 その判断は正しくはあった。メルティーナには辛辣なほどに。


「お近づきの証に、こちらを贈らせていただきます」


 婚約が決まり、初めての顔合わせしたときのこと。歓待の場で差し出された品に、メルティーナはつい表情を曇らせてしまった。大粒の青いダイヤモンドを使った見事なイヤリングだった。石一つの金銭価値も相当なものだが、それ以上に驚かされるのが、その加工技術。緻密に計算されたカットは、ダイヤが持つ本来の輝きを増幅し、日陰でも目が眩むほどだった。

 気に入るかそうでないか、で言えば間違いなく前者だった。あまりの素晴らしさに気後れさえしてしまう。だからこそ、執着した物すら片端から失くなってしまうメルティーナが、それを受け取ることに躊躇いを覚えてしまったのだが。

 その一瞬の戸惑いは、悪いほうへと受け止められてしまったらしい。


「我が国の宝石加工の技術を駆使した品なのですが……どうやら氷姫のお気には召さなかったようだ」

「そんなことはございません」


 慌てて否定するが、冷たいと評される顔立ちも相まって、不遜な若き婚約者にはそれこそ嘘と受け取られてしまったようで、気遣いは不要だ、と冷たく切り捨てられてしまった。


 婚約者であるメルス国の第二王子は、名をガイウスと言った。現王の側室の子で、母親がカーレルと縁ある一族の出であった。その繋がりだけで小国のカーレルに婿入りすることになったのが、彼には不満であったらしい。

 まして、メルティーナの逸話は隣国では歪められて伝わっており、〝氷姫〟の二つ名も〝どんな高価なものも飽いたら捨ててしまい、その癖自分の物を粗末に扱う臣下は処刑してしまう冷血の我儘王女〟と悪いほうに受け取られていた。メルティーナの反応から噂通りの我儘王女と誤解した彼が、婚約に失望してしまうのも無理からぬことだろう。


 そうと知ってガイウスの態度に理解を示しつつも、この婚約に早速前途多難さを感じ取ったメルティーナは、憂鬱な気分でガイウス歓迎の舞踏会に参加した。

 二つの巨大なシャンデリアが照らす大広間にガイウスを伴って入場したメルティーナは、深い青色の生地に銀糸で刺繍がされたバッスルドレスを纏っていた。青銀の髪は右頬にかかる一房を除いて結い上げられ、耳にはガイウスから贈られた青いダイヤの耳飾りがある。


「一応、私に義理立てしてくださったようですね」


 ダンスの最中、ガイウスはそう皮肉げにメルティーナの耳元で囁いた。悪評が功を奏しているのだろうか、辛辣な言葉は、国民たちと違ってメルティーナの美貌に惑わされていない証ではあるが。


「そのダイヤも捨てられぬことを祈りますよ」


 メルティーナの弁解も許さず投げかけられた冷たい言葉に、傷付くことには変わりない。

 ファーストダンスを終えて、義務は果たしたとばかりにそそくさと立ち去るガイウスの背を見送ったメルティーナは、すっかり意気消沈してしまった。しかし、そんな王女の憂い顔などいざ知らず、この国の男たちは次々にメルティーナのもとへ殺到する。

 政治勢力を鑑みるととても断ることのできないメルティーナは、仕方なしに請われるまま貴族の男たちとのダンスに応じた。

 一人、また一人。男たちは寒気のするような瞳でメルティーナの美しさを讃え、愛の囁きとも思える言葉を吐きながら、メルティーナの手を握る。〝氷姫〟の二つ名のお陰で、無理に愛想笑いしなくても良いことだけが救いだった。


 足がもつれるほど踊った頃。ふと、片耳が軽くなったことに気がついた。触れてみれば、あの青いダイヤの耳飾りがない。もしやと思い、今しがた踊っていた相手を振り返れば、その手に青い輝きがあるのが目に入った。

 慌てて、その男の後を追う。


 追い付いたのは、バルコニーに出た後だった。違う。彼がそこでメルティーナを待ち構えていたのだ。


「返していただけませんか」


 イヤリングを取り戻すことに必死だったメルティーナは、自分と同年代の青年の熱に浮かされた異常な眼差しに気付かなかった。


「何故、婚約などされたのですか」


 暗がりの中、青年はねっとりとした声で問いかける。ダンスの間にも、色んな男たちに同じようなことを尋ねられた。その度に、メルティーナは父が用意してくれていた答えを返した。


「陛下のご意向です」


 そんなことよりも耳飾りを、と言い募るメルティーナだったが、青年は全く意に介さない。


「どうして。私はこれほどあなたをお慕いしているというのに。何故異国の男を迎え入れるというのですか。どうしてあなたは私のものになってくださらないのですか」


 メルティーナは思わず身を引いた。目の前の青年を貴族令息の一人として見知ってはいたが、これまで会話したことすらなかったのだ。それなのに、さも自分が裏切られた恋人であるかのように言うものだから、気味が悪くて仕方がない。


「お願いです。イヤリングを返してください」


 あのイヤリングは、ガイウスとの婚約の証であると同時に、国と国の結びつきを証明するものでもあった。失せ物ばかりするメルティーナとて、不用意に失くすわけにはいかない。立ち去ってしまいたいのを必死で堪えて青年に迫る。


「いいえ。これは私にいただきたく思います」


 またか、とメルティーナは顔を顰めた。何故こう人々は、メルティーナのものを欲しがるのだろうか。


「数年前の件はご存知でしょう」


 暗に処刑されるぞ、と脅してみたが、青年は、もちろんだ、と答えた。


「でも、あなたの一部でも手に入るなら、例えこの首が刎ねられても構わない」


 よろり、と身体を揺らしながら青年が迫る。正気を失っているとしか思えない、異様な光を宿す青年の瞳に、メルティーナはとうとう後退した。

 背が、城の壁にぶつかる。メルティーナの顔の横に、青年の手が突き立てられた。


「美しい方。どうか私にあなたの一部を分け与えてくださいませんか。もしあなたが私のものになるのなら、この首でも、心臓だって差し上げます」


 まさに狂信とも言えるほどの青年の自分への執着心に、メルティーナは背筋が凍り付かんほどに戦慄した。

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