サンダルでダッシュ!――Jul.

プールサイドとレモネード

 じりじりと焼けそうな日差しの中、遠くでカラスが鳴いている。何処か木陰にでもいるのだろうか、この暑さの下で憎々しいほどに元気がいい。


「レモネードってさぁ……」


 がら、と鈍くも涼しさを感じる音が隣からする。汗掻いた透明プラスチックのコップを片手にストローを咥える彼女は、地面に足が十分届く高さに座っているのにも関わらず、子どものように脚をぶらぶらさせていた。


「砂糖とか蜂蜜とかがメジャーだけどさ、夏はやっぱ砂糖が良いよね」


 蜂蜜ってなんかベタベタしない、と造花を刺した麦わら帽子の鍔と青空の境目を睨み付けながら続けるが、零時には心底どうでもいい。隣の自由人と違って、こちらは帽子無し、飲み物無しの身の上だ。おまけに服装は上下とも黒。この上なく暑い。もし貰えるのであれば、ホットドリンク以外の何であっても構わない。……まあ、欲を言うならば、苦いお茶やコーヒーの類いよりさっぱりとした甘さのスポーツドリンクかサイダーが良いけれども。


「で、砂糖多めがいいよね。どうせ氷が溶けて薄くなるんだし、冷たいと甘みは感じにくくなるっていうし」

「そっスか」

「この店のは合格点。……飲んでみる?」


 大きなアーモンド型の目に見つめられて差し出されたカップに、ゴクリ、と喉が鳴る。熱中症待った無しの青空の下で、意識をまだ保てている今、飲み物にこの上なく飢えている――というか、渇いている。くれるというなら遠慮なく飛びつきたい。それこそ全部飲み干してしまいたい。

 けれど。


「いいッス」


 気力を振り絞ってカップを押し返して固辞した。

 飲めば、取り返しのつかないことになるのは間違いない。


「そんなに嫌? 間接キッス」

「嫌ッスね!」


 そんな風に言われれば尚更に。

 悪い予感は正しかったのだ、と安堵する。

 ふむ、と唸ってストローを咥える。音を鳴らして残りを吸い上げながら、不満そうに不思議そうに首を傾げる彼女が、零時は不思議でならない。


 長い髪。白いワンピース。同じく白いハイヒールドサンダル。持ち物は、ハイビスカスの刺さった麦わら帽子と二つ折財布しか入らなそうな丸いポシェット一つ。格好が簡素すぎて今時こんな女の子いないよね的な十八歳の女子高生、汐原志映浬しえりに突如呼び出され、零時がやってきたのはプールサイド。残念ながら、リゾート施設どころかレジャー施設のものでもない、夏休みで休校中、誰もいない我が校のプールである。

 公立高校、金がないのか、プールに屋根が掛けられることはなく常に太陽と風に晒されて、プールサイドのタイルは色褪せするし、プラ製のベンチは劣化するしで、見るからにやる気と通う気をなくさせる施設である。熱中症の危険があるから、とあろうことか水泳部すらわざわざ外部の施設を借りる始末。いっそ潰せよと思うわけだが、それも金が掛かるのでできず、その癖何故か夏になるとご丁寧に水を張るらしい。おかげで藻が生え、暑さから逃れようとした虫が水没するばかりである。ボウフラだって湧くだろう。まさに百害あって一理なし。何のためにあるのかよく分からない場所である。


 そんな面白くもなく、不快にすら思える水面を、志映浬と零時はかれこれ十分ほど眺めている。零時が帽子を被っていないのは、まさか陽炎の立ち上る日中にこんなことをするとは思ってもいなかったからだ。住宅街で「ちょっとそこまで付き合って」と言われたら、普通駅とか店だと思うだろう。それか図書館。一年の零時はともかく、志映浬はもう三年なのだし。

 しかし、実際はこんなところでなにもしないままぼうっとするだけ。なら、公園の木陰でも良くないか。


 まだカラスがカァカァと鳴き喚いている。


「暑くて辛そうだから、と思ったんだけどな……」


 ぼそりと隣から聴こえた声。一応、気にかけてくれてはいるようである。でも、なら俺の分も買っとけよ、と思わないでもない。奢って貰いたいのではなく、気を遣うべきところを考えろ、ということ。

 いや、そもそも――


「……何でこんなところに?」


 その辺の後輩を捕まえて、わざわざ暑い思いまでして来るような場所ではない。


「わたし、水のあるとこ好きなんだ」


 答えにならない答え。零時は眉根を寄せるが、それ以上は尋ねなかった。自由奔放、豪放磊落ごうほうらいらく。彼女の代名詞である。理解しようとして突っ込めば、さらに理解不能な解を得る。それがいつものお決まりパターン。努力するだけ無駄だ。


「他にいいとこあるでしょうに」

「だって、ここなら誰もいないし」

「一人になりたきゃ、俺はいらんでしょう」


 つまりは呼ぶなということなのだが。


「えー」


 何故か不貞腐れてストローを噛む志映浬。ブラブラとまたサンダルの脚が揺れる。白い裾から覗く小麦色のふくらはぎが少し眩しい。


「デートなのにぃ」

「もう少し情緒あるところで言ってくださいね。そもそも付き合ってませんけど」


 ぷくり、と頬が膨らむ。

 果たして自分たちは恋人関係だったのか、と零時は首を傾げ、いいややはり違うだろう、と頭を振る。というか、拒否る。なんとなく気に入られ、それからすれ違うたびに絡まれているだけだ。呼び出されたのは、単に連絡先を知っていたからというだけ。お友達はきっと勉強で忙しいことだろうから。


 ――だからって、俺にお鉢が回ってきてもな……。


 誰か勉強しろとこの人を図書館に引っ張ってくれ、と入道雲の浮かぶ夏空を見上げると、眩しい日差しに、くらり、と来た。


「こらっお前たち!」


 暗くなった視界が、野太い声に呼び戻される。


「そんなところで何してるんだ!」


 元のプールサイドの景色の隅に、一人男が立っていた。スーツのスラックスに半袖シャツの装いは、もしかすると教師せんせいか。何処か建物の中から零時たちの姿を見咎めたのか、それとも見回りの途中に見つかったのか。

 いずれにしてもヤバい。部活も補講もないらしく校門は閉ざされており、零時たちは紛れもなく不法侵入であるからして。


「あ、ヤバっ」


 案の定、隣でわたわたと慌て出した志映浬先輩は。

 そそくさとベンチから立ち上がると、背後のフェンスに飛び付いて、膝丈まであるスカートとサンダル姿でするとは思えぬ動きで背丈ほどあるフェンスを飛び越えた。

 教師と二人、呆気に取られている間に、敷地外のアスファルトに着地。


「零時くん、早く早く」


 なんて言葉を置き去りにして、ヒールのある靴を履いているとは思えない速度で駆け出した。

 フェンスの端、そして視界から消えていく二コ上の先輩。


「あー……」


 突然見せられた先輩のウルトラCに圧倒され、身動き一つ取れなくなった零時は、


「ちょっと来てもらうぞ」


 一足早く我に返った教師に首根っこを掴まれた。


 ――そして。

 一人残された零時は、教師から軽く説教をかまされ、五分後に校門から送り出されたのだった。

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