隠された月は真名を知る
連れてこられたのは、街が誇る大聖堂だった。五百年も前に作られた、人の背丈の三倍ほどもある薔薇窓が特徴的な石造りの建築物。王族とされているシスティーナも、行事のために何度も訪れたことのある歴史ある場所だ。新鮮味がない、と口を尖らせたら、黙ってついてこい、とにべもなく返された。
彼女が足を向けた先は聖堂内ではなく、外壁修復のための工事現場。頼りない木の梯と鉄パイプと木の板で組まれた覚束ない足場を、ひょいひょいと登っていく。隠れて護身術や剣の訓練をし、木登りも容易にこなすお転婆姫も、さすがに軋む足場には肝を冷やした。それでも涼しい顔をして登っていくモルに対抗心を燃やしているうちに、恐怖心は和らいでいき、それどころか白みを増してきた空に胸をときめかせるまでになっている。
大聖堂の屋根が近くなると、モルは壁に立て掛けてあった板をそっと動かした。壁に穴が開いている。そこから大聖堂の中に入れるらしい。
金色の雲の上にある天界を描いた天井に程近い通路を抜けて、その先の矩形の螺旋階段を上る。疲れてきた頃に見えてきたのは、金色の光を弾いた大きな鐘だ。つまり大聖堂の鐘塔を上ってきたのだ。
「ここならどうよ」
モルは鐘の下を通り抜け、手すりまで行くと、腰に手を当ててシスティーナを振り返る。得意気な表情の向こうに、太陽の色に染まり出した地平線が僅かに見えた。
「……いいわね」
手すりまで寄ったシスティーナは満足そうにぽつりと呟く。見下ろせば、まるでおもちゃのように小さくなった街並みがそこにあった。建物は全て掌の大きさ。少し高いところへ行っただけだと思ったが、それでもずいぶんな絶景だ。
「小さいわ。小さい。全部小さい。私たちはこんな小さな世界で、毎日下らないことに煩わされて生きているんだわ」
馬鹿みたい、とその口元が皮肉げに歪む。
「でも、実際はこんなかから脱け出すことも難しいんだよな……」
システィーナに同調したモルは、窓の手すりの上で組んだ腕に顎を乗せて朝靄の中の街をじっと見つめていた。薄霧の中に沈んでいるのは、小舟一隻分が通れるほどの運河。その向こう側には、労働者階級の仮住まいとなる長屋。さらに向こうの素っ気ない赤レンガの建物は倉庫だろうか。
システィーナが通ってきた未明の商店街とは違った、埃っぽい街並みだ。
「俺の住んでいるところを知りたいと言ったよな。俺たちはあそこで、ドブネズミみたいに暮らしてるんだ」
モルは街の一角を指差した。長屋が集まる一角のその向こう。規則正しかった道路が迷路のようにうねりにうねったところ。その、闇の深くなっている場所を。
「じめじめして薄暗いところで、人のもん掻っ払って、残飯を漁って、警察に捕まらないようにこそこそと隠れて。ときに喧嘩して、奪ったり奪われたり。そんなことの繰り返しさ」
モルの言葉を聞くにつれ、表情が曇っていったシスティーナは、馬鹿げたことだと自覚しつつ、口を開いた。
「……つらい?」
「どうだろう。生きてくのに必死だから。でも、街で普通に暮らしている人を見ていると、やっぱり惨めだと思うことはあるよ」
思い詰めた表情でしばらく黙していたシスティーナは、ぎゅっと目を瞑って首を横に振った。開いた蒼い瞳は翳ったまま眼下の街を見下ろす。
城からは見えない、大聖堂の裏に隠された、システィーナには縁のなかった街並みだ。
「私はつらいわ。箱庭の中でお人形になって、外を眺めているばかりなんて嫌。……恵まれているのに、どうしてかしらね?」
モルは、朝焼けに染まり行く景色を眺めるだけで何も言わなかった。システィーナも答えは求めていない。ただ、否定されるのは嫌だったので、何も言わずにいてくれるのはありがたかった。
夜が明ける。日が昇る。静寂に沈みきった街が少しずつ起き出していく。
そろそろ聖堂の僧が鐘を鳴らしに上ってくるかもしれない。
「……下りましょう。気が済んだわ」
勝手だな、と笑って、モルも身を起こす。
鐘塔を離れ、危なげなく工事現場の足場を降り、地上に帰ったところで、システィーナを呼ぶ声が聞こえた。ふとあげた視線の先――大聖堂の入口の前に、騎士の集団がいる。こちらに気づいているようで、一人が集団を抜け出して駆け寄ってきた。
反射的に及び腰になったモルの一方、システィーナはなんでもないことのように、あらやだ、と呟いた。
「グレッグ卿だわ。もう家出がばれたのね」
うんざりだとでも言いたげなシスティーナだったが、その反面、心なしか浮かれているようにも見えた。
「あの人、私の本当の父なの。私のこと、本当に心配してくれるのは、あの人とその奥さんだけ」
だから帰らなきゃ、と言って、システィーナは乗馬服の下から出した巾着袋をモルの手の中に押し付けた。
柔らかな白い布には、赤い牡丹の刺繍がされていた。
「約束通り、あげるわ。ありがとう。短い間だったけど、とても楽しかった」
逃げないと悟ったのか、それとも会話中のところを気を遣ったのか、接近していた騎士が歩調を緩める。ようやく顔が見えるようになった中年の騎士。黒い髪、黒い瞳。日に焼けた褐色の肌。〝実父〟というわりには、ぱっと見た限りシスティーナとの共通点を見出だせなかった。
「その巾着ね、小さい頃にグレッグ夫人……私の母からもらったものなの。私の好きな花を刺繍してくれたのよ」
私の宝物なの。そう付け加えれば、モルは気まずそうに拒否を示した。
「そんなもんいらないよ。中身だけあれば、充分だ」
「もらって」
しかしシスティーナは、何故か頑なにモルの手を押し返す。
「何かあったら、あの人に見せるといいわ。そしたらきっと、貴女の運命が変わるから。……ね、〝システィーナ〟」
虚を突かれたような顔のモルを見て、システィーナは可笑しそうに声をあげて笑う。
「はじめて貴女を見た瞬間から確信したわ。貴女、陛下にとてもそっくりだから」
まだ言葉を飲み込めていないようで、首を傾げるモル。その眉間の皺がみるみるうちに深くなった。
システィーナはまた小さく笑う。無理もない。到底信じられない出来事だ。自分も我が目を疑った。
「また、会えると信じてる。……そのときがきっと、この国を変えるときなんだわ」
言うだけ言って、それじゃあ元気でね、とモルに背を向けた。意味深な言葉だけ置いてさっさと帰るシスティーナを、モルは慌てて呼び止めようとする。
「あ……おいっ!」
だが、システィーナは素知らぬ顔で彼女から遠ざかった。追及を許さず、その秘密について彼女が自分で考えられるように。自分で自らの道を選択できるように。
そして、運命がどう転ぶかを楽しむために。
迎えの騎士に合流し、なにも言わぬままに広場に出る。朝の光を浴びた薔薇窓をちらりと見上げた。赤、青、緑、黄色、白。色とりどりの硝子が描いた神様は、この国をどうするのだろうか。
「思ったよりも早かったわね」
大聖堂の前の広場。若い騎士の一人が差し出した葦毛の馬に乗り上がったシスティーナは、隣を歩く騎士に言った。今ようやく日が昇ったところだ。通常のシスティーナの起床時間はまだずいぶん先である。だから部屋を抜け出したことはばれていないだろうと思っていたのだが……ものの一時間で、この騎士はシスティーナを見つけ出した。
「仕掛けが作動する音が聴こえた、という報告がありましたので」
答えにシスティーナは呆れる。動いていることがばれる隠し通路なんて、役に立たないったらありはしない。
かつかつ、と蹄鉄が石畳を鳴らす。朝日に照らされた灰色の通りは、建物に反射する音が聴けるほど辺りは静かだが、家の中では早くも住民が起きはじめているのか、人の動く騒がしさのようなものが感じられる。
「……もっと、遠くに行かれたかと思いました」
「ちょっとした冒険よ。たまには刺激と自由が欲しいもの」
我が儘でお転婆を装って、システィーナは舌を出す。本当は家出はするつもりだったが、途中で止めた。図らずも〝本物〟を見つけてしまったから。
ああそうだ、とシスティーナは馬上でグレッグ卿を振り返る。
「おばさまにいただいた巾着、人にあげちゃったの。また作ってもらえるよう頼めないかしら」
「構いませんが……」
グレッグ卿は訝しげな表情でシスティーナを見る。その顔を見つめ返して、ぼんやりとシスティーナは思う。
システィーナは、王の妹である実母に似た。
しげしげと観察してみたが、残念ながら一つも見つけられなかったが。
「……何を企んでおいでです?」
こうしてシスティーナがいたずらしたことに気付く辺りは、やはり父親ということだろうか。
「さあ。なんのこと?」
顔を逸らし、にんまりと笑う。後に起こすことを考えれば、あの城に戻ることもそう悪いことではない。
――一年後。本物の王女を名乗る娘が、国に剣を向け、民衆を中心とした反乱が起きるのだが。
それはまた、別の話。
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