スウィングに勇気を乗せて
「ええと……それで、どうしようか」
きちんと反省した様子の裕幸に、彰は落ち着いたらしく、ふう、と一息吐いて佐保のほうを見て、困惑顔を浮かべた。佐保の扱いについてのことだろう、と見当をつけた。彰にして見れば、無理やり来させられた人間だ。嫌だったら帰らせてあげたいといったところだろう。しかし、「終わったから帰って良いよ」というのもあまりに冷淡な台詞で、言えずにいるのだ。
かといって、佐保も「それではお邪魔しました」と帰るのも難しい。なにをしに来たのかと思ってしまうし――本当のことをいうと、興味があるのだ、この四人のジャズバンドに。せめて聴いて帰りたいな、と思うのは、厚かましいのだろうか。
因みに、歌うことについては考えていなかった。ここに来るまでが精一杯で、すっかり頭から抜け落ちていたのだ。
だから、絢斗の発言には、至極驚かされた。
「俺、せっかくだから聴いてみたいなー」
うーん、と頭を悩ませる彰の横で、椅子の背に両腕を預けながら、細い瞳でじっと佐保のことを見る。笑みに反してその眼差しは強く、佐保は蛇に睨まれた蛙のように、たちまち身動き取れなくなってしまった。
「素人ながらに、ヒロが聴いて良いなと思ったんだろ? しかも惚れ込んじゃったわけだ。興味ある」
〝惚れ込んじゃった〟のところで、佐保は頬を赤らめた。そういう意味で〝惚れた〟わけではないだろうが、なんだか恥ずかしくなってくる。
そんな佐保の反応を見て、絢斗はますますにやついた。どうやら敢えてその言葉を選んだらしい。ますます頬が紅潮した。
「そうだよ、もうここに来ちまったんだからさ、一回くらい歌ってくれよ! 無理に仲間に入れとかは言わないから」
「こらっ!」
便乗して催促する裕幸を、またも彰が短く叱る。最後の一人、優は懲りないねぇ、と二人を笑って、穏やかな顔でこちらを見た。
「どうするの?」
優しい問いかけに、言葉に詰まる。
正直に言えば、注目されて歌うなんて恥ずかしい。絶対にできる気がしない。
でも、もしここで歌ったなら、もしかすると自分も裕幸と同じようになれるかもしれないな、と思ったら、嫌だという言葉も出てこなかった。
夏休み明け。急に輝きだした、裕幸の表情。太陽のようなその笑顔に、佐保はとても心惹かれた。乱暴なところはあるけれど、素敵な人なんだな、と思い、憧憬を抱いて――
――同時に、嫉妬した。
自分が欲しかったものを、いつの間にか手に入れていたから。
シンパシーを感じていたはずなのに、気付いたら一人置いていかれてしまったから。
身勝手な感情だということは判っている。それでも、置き去りにされた印象が拭えなくて、あまりに悲しく、悔しくなってしまったのだ。
ジャズを口実に裕幸に近づこうと思わなかったのは、臆病の所為だけではない。冷たく暗い場所に残された悲しさと、身勝手に相手を妬む自らの卑屈さから目を逸らしたかったから、彼を見守るだけで充分だ、と自らを納得させたのだ。
でも、今、自分から手放した
もし、これに手を伸ばして、佐保も裕幸と同じものを手に入れられるなら。
裕幸と同じ場所に立てるのなら。
「………………歌います」
今ここで、差し伸ばされた手を跳ね退けたなら、自分はきっと一生このままだ。明るいところに立てなくなる。
両手を握りしめ、俯き加減のまま。けれど心を必死に奮い立たせて、必死に声を張り上げた。
「恥ずかしくて、緊張して、はじめは小さくなってしまうかもしれませんけど! きちんと歌いますから、少し辛抱してくださるのであれば……っ!」
「決まりだな」
ぱしん、と絢斗が掌を叩く。よっしゃあ、と裕幸が両手を上げた。
ふ、と佐保の気が緩む。言ってやった。謎の達成感。
だけど、当然ここで終わりではなかった。
「そんじゃ彰、伴奏よろしく。なに歌ってたんだっけ?」
「えーっと……なんだっけ? 横文字の長いやつ」
忘れてしまったと頭を掻く裕幸に、小声でぼそりと助けを出すと、裕幸以外が「ああ、あれね」と頷いた。
弾ける? 弾けますよ。そんなやり取りが佐保の目の前で交わされて。いざそのときが来ると頭の中がぐちゃぐちゃになってしまい、本当に歌うのか、とわたわたしているうちに、彰の弾くシンセサイザーの隣に立たされて。
始まった伴奏。あっさり終わった前奏に、慌てて口を開く。
はじめは電子のピアノ音に押し負けていた声も、進むにつれて調子が出てきて、自然と大きくなっていって。
だんだん気持ち良くなって、声だけでなく身体も解れていって。
ぽっかりと穴が空いていたはずの胸に、風が吹き込んだ。草木を枯らす冷たい冬の風でなく、命が芽吹く暖かい春の風。風は通りすぎていくはずなのに、胸の中はなにかに満たされていくような感覚がする。
私に春が来るのはまだもう少し先なのよ、と歌いながらも、声は新芽のように伸びていき。
いつの間にか、佐保の口元が綻んだ。見られている緊張も消え去って、今では何処か心地良くもあって。
ああ、なんか良いかもな、とその訳も解らず思いながら高らかに歌い上げる。
ぱちぱちぱち、と四人からの拍手の音で、目が覚めた。大胆なことをしていなかっただろうか、と今になって恥ずかしくなって、縮こまった。
「いいね。すっごい素直な歌い方」
感心した、という風に絢斗が頷いて、優もそれに同調した。
「うん。でも、そこが良いよね。声も綺麗だったし、音取りも完璧。裕幸の耳も確かだったね」
「でしょう! やっぱさあ、俺らン仲間に入ってもらって――」
「もう! だから無理を押し付けないって言ったでしょう!?」
佐保の恥ずかしさも他所に、じゃれ合う四人。時折彰の叱責が混じるが、全員楽しそうに話していて、とても微笑ましかった。見ている側もなんだか楽しくなって、口元を綻ばせながら眺めていると、議論尽くしたのか、絢斗がとうとうこちらを見た。
「どうかな。もし良かったらだけど、俺たちも是非入って欲しい」
他の三人の眼も向けられて、気後れした佐保は気持ち一歩後退した。
「ええと……」
歌っていたときの解放感は既になくなり、再び内向的な佐保に戻っていた。緊張で、身体と声が強張ってしまう。
「あの、私、本当に齧っただけで……。それに、人と話すことにも慣れていないし、たぶん色々と上手にできないんですけど……」
くどくどと弱気なことを並べ立て、自分でもなにを言っているのだろう、と思ってきた。それでも良いか、と確認したいだけなのだが、これではまるで遠慮したがっているようではないか。
佐保は高いところから飛び降りるくらいの勇気を自分の中からかき集め、顔をあげて、絢斗を見つめた。
「お世話になって、良いですか?」
にっこりと、親切な表情で絢斗が笑った。
「歓迎するよ」
ぱあぁ、とたちまち表情を輝かせたのは、実は佐保でなく、裕幸のほうだった。
「よっし、決まりだな! 歌姫ゲットですね、先輩!」
「そうだねー。実は、オリジナルで歌詞も書いていてさ。是非それも歌って欲しいんだよねー」
「オリジナル!? 作曲だけじゃなくって、歌詞も!? うおおぉ、スゲー」
「裕幸、君はしゃぎすぎ。ちょっとうるさい」
やいのやいの、と盛り上がる裕幸と、先輩二人。本当に楽しそうな裕幸の姿に、喜んでもらえて良かった、と佐保も笑った。
そして、自分がそこに仲間入りするのだと思うと、ますます嬉しかった。それに、今度は彼を傍で見られるようになるなんて。なんだか胸がふわふわしている。
まだ一人輪の外から見ている佐保に、彰は声を掛けてくれた。
「ありがとう、入ってくれて。無理させちゃいけないなとは思っていたんだけど、ボーカル捜してたのは、本当だったから嬉しいよ」
それから、手を差しのべて一言。
「これからよろしくね。牧野さん」
彰に続いて、よろしくー、と三人の声。
返事は、今までで一番声が出ていたと思う。
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