第六十五話 最後の二人
三人が我に返ったのは、
それから六日の間、三人は屋敷どころか、部屋からすら出なかった。侍従長は生きた屍のようになってしまい、
七日目になって、漸く侍従長は正気を取り戻した。
「ディディモは、いないのだな。」
「いえ、侍従長殿、確かにここに埋葬しました。」
「いいや、あれはいない。在るべきところに還っている。
「行くって、どこへ?」
「刃の、
その場にいた大工たちも、顔を見合わせたが、二人はついて行く他に無かった。
侍従長がやって来たのは、会堂だった。サータヴァーハナ王家の祖先が住んでいて、今も彼等の縁者が住む場所だと言う。
そこで、侍従長は最初で最後の説教をした。だがそれが、メシアの説教だったのかは、恐らく侍従長にすら分からないのだろう。
「偉大なる神に仕える者たちよ、神の義の因りて裁判を行う者たちよ、良く聞くがよい。お前達は目が曇っている。身の程を弁えず、理想を追求するあまりに正義を忘れ、情を忘れ、自分に理解できない者の存在を否定する為ならば、手段を択ばない。その大きな理由付けになっているのが、お前達がバラモンと呼ぶ聖職者たちが決めた、身分制度である。身分が卑しければ卑しいほど、卑劣な行いを加える事を正当化しようとするその心は浅ましい。そして何よりお前たちは、蛇の教えに心酔し、人間が存在し、生きとし生ける者の義務を怠っている。愛を育てよ。愛欲を純化せよ。妻と夫は、正しく結ばれよ。お互いを尊重し、お互いを想い、そして子を作れ。子を作る行いを軽んじるな。卑しむな。その行いは愛である。例えその夫婦や恋人たちの行いの結果、毎回子が授からなくても、まぐわう事は罪ではない。愛し合う事は罪ではない。愛し合う事を罪と定める事は傲慢である。自分の望む社会の為に、愛の秩序を乱してはならぬ。人間が人間を愛することを否定してはならぬ。神の前には男も女も、子供も年寄も皆平等に愛されるべき人間である。人間が人間を愛することは神の喜びである。しかしお前たちは愛を裁く。身分の違いを利用して、不義の密通を正当化する。腕力の違いや性別を理由にして、妻や夫の心を愛さず肉体を愛する。自分達の親と、自分がしなかった愛を否定するばかりか、お前たちはそれを魔物だと言って裁き、浄化と言って焼き殺す。目を開け! 己の貧しさを知れ! 己の乏しさを知れ! 浅薄なるバラモンよ、愛を錯覚してはならぬ! 愚かなるクシャトリヤよ、真の王たる者を錯覚してはならぬ! 軽薄なるヴァイシャよ、人の心を売ってはならぬ! 悲哀なるスードラよ、己の価値を間違ってはならぬ! 迷走なるダリットよ、仕えるべき主を見つけよ! それはヴァイシャではない、クシャトリヤではない、バラモンではない、神ですらない! 愛に仕えよ! 男女の愛に仕えよ、親子の愛に仕えよ、友の愛に仕えよ。」
「肉欲と野心を
悲壮な演説だった。だがそれは、ディディモという偉大な師を失った以上、最早唯の遠吠えだった。バラモン達は怒り狂い、クシャトリヤ達は象を
彼等は東側でも迫害を受けたが、それを護ってくれたのは意外な事に、シタ・ナーギニーだった。彼女はまだ、
岩の隙間から覗くと、
「兄さま! 助けに―――!」
「おねえさまを二度と渡すものかァァ!!!」
シタ・ナーギニーが蛇に姿を変え、岩の隙間から飛び出そうとして来る。素早く
「兄さま! ロープを降ろして! 登るわ!」
「………。」
しかし、
「何してるの!? わたしがまだいるのに! 助けて!! 助けて兄さま!!」
そう叫ぶ
聞けるわけがない。蛇に純潔を奪われたのかどうかなど。だが、今聞かず、いつ聞くと言うのだ。震える声で、
「妹よ。シタ・ナーギニーはお前の純潔を奪ったか?」
「何を言ってるの! 女同士で出来るわけないでしょ! 苦しいわ、早く助けて!」
「だがこれから先、お前は誰かに嫁ぐだろう?」
「今はそれどころじゃないでしょ! 早く早く!」
「妹よ。もし、師父がパルティアに来なければ、お前はぼくと結婚するはずだったんだよ。」
「そんな話いま必要―――。」
大きく
「でも、師父という聖者がやってきて、ぼく達はその教えに従う道を選んだね。後悔はしていないとも。ああ、後悔はない。でも、お前とぼくは、永久に結婚できない事になってしまった。だから、お前はここで焼け死ね。ぼくと結婚しないお前なんていらない。」
自分でも残酷な言い方をしたと思う。最期に聞く言葉なのに、何故愛していることを伝えられなかったのかと言えば、それは師父と師兄を見ていたからだ、と、
あの二人のような愛を、育めない。いつか自分は、女に執着され、一晩同じ空間で過ごしたことを汚らわしいと感じ、暴力を振るうかもしれない。もしそれが妻だったのだなら、何度でも懺悔が出来るだろう。だが、その未来は、師父が来て、その教えに従ったからには在り得ないのだ。
炎の中で、
「不出来なぼくを許してくれ! 妻にしたかった女の操を何れ誰かに踏みにじられるくらいなら、亡骸にしてでもぼくがお前を自分のものにしたかったんだ!」
太陽に向かって叫ぶ
これを、愛の一つの帰結の形として尊ぶべきものなのかどうか、判断する者は誰もいなかった。
二人は、更に東へ進んだ。
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