第六十五話 最後の二人

 三人が我に返ったのは、数寄すけがやって来たからだ。どれくらい時間が経ってからなのかは分からない。ただ数寄すけが来るまで、侍従長はずっとディディモを呼んで泣き続けていた。誰一人として、メシアに祈らなかった。祈るという発想すらなかった。あんなにも安らかな顔をしているのに、何をメシアに願うのか分からなかったのだ。数寄すけが発狂したように泣き続ける侍従長を昏倒させ、馬に三人と一体を乗せて一度家に帰った。数寄すけは、母と、祖母と、召使達と一緒に、海の良く見える所にある自分の土地に、墓を構え、それを隠すように、教会を作ることを提案した。その時、正常な判断が出来たのは、意外な事に背子せこだった。結局、背子せこはディディモの死体を見なかったのだ。彼が気が付いた時、既に数寄すけとその親族は、三人を家に匿ってディディモを埋葬に行った後で、且つ侍従長や妹子いもこよりも早く目覚めたので、頭がしっかり働いていたのである。


 それから六日の間、三人は屋敷どころか、部屋からすら出なかった。侍従長は生きた屍のようになってしまい、妹子いもこは恐怖で直ぐに泣きだす。背子せこが侍従長に粥を飲ませ、数寄すけの側近たちが妹子いもこを宥め―――。それが、本当に一生続いていたかのようだった。

 七日目になって、漸く侍従長は正気を取り戻した。数寄すけに礼を言って、三人は一度だけ、ディディモの墓に行った。そこは既に大工たちが集まっていて、石を測っていた。

「ディディモは、いないのだな。」

「いえ、侍従長殿、確かにここに埋葬しました。」

「いいや、あれはいない。在るべきところに還っている。数寄すけ殿、世話になった。礼を言う。…刃の、弓の、行くぞ。」

「行くって、どこへ?」

「刃の、われ等は残されたのだぞ。師父の教えを伝える為に、行かねばならぬ。これより更に東に向かう。―――だがその前に、あの白蛇に魅入られた娘が、この地で生きられるように、一つやる事がある。ついてこい。」

 その場にいた大工たちも、顔を見合わせたが、二人はついて行く他に無かった。


 侍従長がやって来たのは、会堂だった。サータヴァーハナ王家の祖先が住んでいて、今も彼等の縁者が住む場所だと言う。背子せこ妹子いもこは、侍従長に言われて、大勢の司法関係者や豪族、祭司たちを呼び寄せた。妹子いもこは嫌がったが、荒野に背子せこと行くと、あっさりとシタ・ナーギニーが出てきた。そこからは、全力で会堂へ走った。勿論、彼女は追いかけてきた。

 そこで、侍従長は最初で最後の説教をした。だがそれが、メシアの説教だったのかは、恐らく侍従長にすら分からないのだろう。


「偉大なる神に仕える者たちよ、神の義の因りて裁判を行う者たちよ、良く聞くがよい。お前達は目が曇っている。身の程を弁えず、理想を追求するあまりに正義を忘れ、情を忘れ、自分に理解できない者の存在を否定する為ならば、手段を択ばない。その大きな理由付けになっているのが、お前達がバラモンと呼ぶ聖職者たちが決めた、身分制度である。身分が卑しければ卑しいほど、卑劣な行いを加える事を正当化しようとするその心は浅ましい。そして何よりお前たちは、蛇の教えに心酔し、人間が存在し、生きとし生ける者の義務を怠っている。愛を育てよ。愛欲を純化せよ。妻と夫は、正しく結ばれよ。お互いを尊重し、お互いを想い、そして子を作れ。子を作る行いを軽んじるな。卑しむな。その行いは愛である。例えその夫婦や恋人たちの行いの結果、毎回子が授からなくても、まぐわう事は罪ではない。愛し合う事は罪ではない。愛し合う事を罪と定める事は傲慢である。自分の望む社会の為に、愛の秩序を乱してはならぬ。人間が人間を愛することを否定してはならぬ。神の前には男も女も、子供も年寄も皆平等に愛されるべき人間である。人間が人間を愛することは神の喜びである。しかしお前たちは愛を裁く。身分の違いを利用して、不義の密通を正当化する。腕力の違いや性別を理由にして、妻や夫の心を愛さず肉体を愛する。自分達の親と、自分がしなかった愛を否定するばかりか、お前たちはそれを魔物だと言って裁き、浄化と言って焼き殺す。目を開け! 己の貧しさを知れ! 己の乏しさを知れ! 浅薄なるバラモンよ、愛を錯覚してはならぬ! 愚かなるクシャトリヤよ、真の王たる者を錯覚してはならぬ! 軽薄なるヴァイシャよ、人の心を売ってはならぬ! 悲哀なるスードラよ、己の価値を間違ってはならぬ! 迷走なるダリットよ、仕えるべき主を見つけよ! それはヴァイシャではない、クシャトリヤではない、バラモンではない、神ですらない! 愛に仕えよ! 男女の愛に仕えよ、親子の愛に仕えよ、友の愛に仕えよ。」

「肉欲と野心を純化じゅんかせよ! 女は子を産み、男は子を育てよ! 産めない女達、育てられない男達は、友を育てよ! 何人たりとも人なるものの愛の営みを阻害する事ままならぬ!」


 悲壮な演説だった。だがそれは、ディディモという偉大な師を失った以上、最早唯の遠吠えだった。バラモン達は怒り狂い、クシャトリヤ達は象をけしかけた。それでも侍従長は、演説を止めなかった。数寄すけがマラバール地方にいる間は護ってくれていたので、街を移動するごとに、同じ演説をした。しかし、それも東の海岸のほうへ行くと手が回らなくなった。数寄すけは残り、ディディモの蒔いた信仰の種を育て、ディディモの墓の上に建てた教会を管理する事になった。


 彼等は東側でも迫害を受けたが、それを護ってくれたのは意外な事に、シタ・ナーギニーだった。彼女はまだ、妹子いもこを「おねえさま」と呼んで執着している。つまり、彼女は妹子いもこの身の安全のために迫害者達に蛇をけしかけたのであり、決して教えを守る為ではなかった。ただ良かったことがあるとすれば、「おねえさま」を見つけたシタ・ナーギニーは最早、独自の禁欲論を説かなかった。夢に憑りつかれたような表情で、恍惚の表情で、彼女は妹子いもこを追いかけ回し、そして遂に妹子いもこは、ミラプールで巨大なインドコブラに、岩の隙間へ引き込まれた。

 背子せこはどうしても一人で助けに行くと言って、聞かなかった。侍従長は、嘗て程二人を愛していなかったのかもしれない。背子せこが今日一日だけ、説教を止めて欲しいというと、素直に従った。背子せこは侍従長に執成して貰い、宿から一つの油の甕を貰い受けた。

 岩の隙間から覗くと、妹子いもこは気を失っているようだった。身体には子供の蛇が巻きつき、周囲には割れた殻が広がっている。そして妹子いもこの胸にしゃぶりつくように、シタ・ナーギニーが縋りついて眠っていた。好都合だ、と、背子せこは無言のまま甕を放り込んだ。甕は砕け散り、油が撒かれた。

「兄さま! 助けに―――!」

「おねえさまを二度と渡すものかァァ!!!」

 シタ・ナーギニーが蛇に姿を変え、岩の隙間から飛び出そうとして来る。素早く背子せこがナイフを岩の隙間に翳すと、シタ・ナーギニーは勢いを殺せず、口から真っ二つに裂けた。恐らく、ディディモが死んだからだろう。彼女の直情的な行動に、加護を与える者は、もういなかったのだ。

「兄さま! ロープを降ろして! 登るわ!」

「………。」

 しかし、背子せこは火の付いた麻縄を放り込んだ。飛び散った油に火がつき、小さな蛇たちは瞬く間に焼け、岩の隙間から異臭を放つ。それは妹子いもこも同じだった。

「何してるの!? わたしがまだいるのに! 助けて!! 助けて兄さま!!」

 そう叫ぶ妹子いもこを見下ろしながら、背子せこは黙っていた。

 聞けるわけがない。蛇に純潔を奪われたのかどうかなど。だが、今聞かず、いつ聞くと言うのだ。震える声で、背子せこは言った。

「妹よ。シタ・ナーギニーはお前の純潔を奪ったか?」

「何を言ってるの! 女同士で出来るわけないでしょ! 苦しいわ、早く助けて!」

「だがこれから先、お前は誰かに嫁ぐだろう?」

「今はそれどころじゃないでしょ! 早く早く!」

「妹よ。もし、師父がパルティアに来なければ、お前はぼくと結婚するはずだったんだよ。」

「そんな話いま必要―――。」

 大きく妹子いもこが咳き込んだ。それからの声は細く、背子せこまで届かない。

「でも、師父という聖者がやってきて、ぼく達はその教えに従う道を選んだね。後悔はしていないとも。ああ、後悔はない。でも、お前とぼくは、永久に結婚できない事になってしまった。だから、お前はここで焼け死ね。ぼくと結婚しないお前なんていらない。」

 自分でも残酷な言い方をしたと思う。最期に聞く言葉なのに、何故愛していることを伝えられなかったのかと言えば、それは師父と師兄を見ていたからだ、と、背子せこは答えるだろう。

 あの二人のような愛を、育めない。いつか自分は、女に執着され、一晩同じ空間で過ごしたことを汚らわしいと感じ、暴力を振るうかもしれない。もしそれが妻だったのだなら、何度でも懺悔が出来るだろう。だが、その未来は、師父が来て、その教えに従ったからには在り得ないのだ。

 炎の中で、妹子いもこが倒れる。背子せこは火が消えるまで、ずっと中の様子を見ていた。岩に囲まれ、岩の熱で身体がボロボロと焼けて焦げて崩れていくのを見ていた。火は、丸一日燃えていた。火が消えた後、背子せこはカラカラに乾いた岩を下り、たった一人分の人間の骨を遺さず拾った。骨はまだ熱が少し残っていて、拾い上げるとまるで生きていた頃の温もりのようだった。

 背子せこ妹子いもこの奥歯を拾うと、それを飲みこんだ。喉が焼けつくが、苦しいほどではない。ちょっと熱いパンを飲みこんだような感覚だ。涙を流しながら、骨を皮袋に詰め、背子せこは岩の外へ出た。皮袋は、それなりに重い。

「不出来なぼくを許してくれ! 妻にしたかった女の操を何れ誰かに踏みにじられるくらいなら、亡骸にしてでもぼくがお前を自分のものにしたかったんだ!」

 太陽に向かって叫ぶ背子せこを、慰める者は誰もいなかった。

 これを、愛の一つの帰結の形として尊ぶべきものなのかどうか、判断する者は誰もいなかった。背子せこは屋敷に帰ると、妹子いもこは愛の故に死んだ、とだけ報告した。侍従長は何を思ったか、この地で殉教者が出た、と言って、教会を建てるように、聴衆に命じた。それは他でもない、妹子いもこの為の教会だった。


 二人は、更に東へ進んだ。

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