第六十三話 予知の二人

 ディディモによって追い出された侍従長は、数寄すけの部屋に入り、勝手に数寄すけの部屋の茣蓙に寝転んで眠り始めてしまった。驚いた数寄すけは起きていた方の妹子いもこを呼んで、侍従長を自分の寝台に運び、どうにか自分が茣蓙に寝る。そのような妹の行動を知る筈もなく、侍従長と背子せこは夢をみていた。


 侍従長は、どこか分からない場所で、ディディモを抱いて風に当たっていた。静かな静寂の中で、大きな岩に座り、どちらからともなく話をする。それはディディモの幼い頃の話だったり、侍従長の幼い頃の話だったりした。穏やかな時間だったが、どこか悲壮な表情だったのが印象的で、侍従長は何がそんなに悲しいのか、と、尋ねた。ディディモは何も言わず、侍従長の心臓に耳を当てる。くちづけをすのでもなく、ただただ静かだった。

「あなた。」

 愛おしげに自分を呼ぶその声が、酷く心地いい。何だと答えても、くちづけをしようとしても、ディディモはそれを戯れるように躱し、唯、あなた、あなた、と遊ぶように呼ぶ。なんだ、言葉遊びがしたいのか、と、侍従長は抱いた肩を擽り、なんだ、なんだ、と笑った。ディディモも笑った。そこには不粋な妃も居らず、二人を護る者もいなかった。静かな空間で、男二人の少年のようなじゃれ合いを、横槍する者はいなかった。

「ねえ、あなた。私はあなたを愛していますけれども、あなたもそうです?」

 クスクス笑いながら、ディディモは言った。

「なんだ、愛い奴め。そんな当たり前のことを聞いてどうするのだ。」

 その時、漸く触れたディディモの額は、酷く冷たかった。あれ、と思う間もなく、ディディモが続けて尋ねる。

「例えば、天の宮殿へ行くのが少し遅れたりしても、私を忘れないでいてくれますか。」

「いつでも、お前の傍に居る。決してお前を、独りになどさせぬ。」

 先にディディモを護って死ねるのならば、本望だ。迷いなど無い。

「ああ、でもそれなら―――洗礼を受けねばならぬか?」

「いいえ。洗礼は、いつでも受けることが出来ます。あなたの心にメシアが現れた時で良いのです。決して私の面影を追いかけて、浅はかな受洗はしないでください。」

 ん? と、侍従長は違和感を覚えた。

「いいですね? あなたの心に真にメシアがいらっしゃるまで、自棄を起こさないでくださいね?」

 やはりそうだ。ディディモは、自分が先に死ぬことを前提に話している。侍従長は両肩を掴んで向き直った。

「何を言う。われの洗礼はお前がするのであろう? われがお前を護ると、その為にパルティアを捨てたのだ。何故お前が先に行く?」

「ね?」

 ディディモは答える気はないようだった。不満はあったが、そうだと言わない事には話が進みそうにない。

「あい分かった。自棄は起こさぬ、お前の事を想い、それにメシアが応えたと確信した時、われは洗礼を受けよう。」

 すると、足元にさらさらと冷たい感触がした。水だ。何時の間にか川が足元に流れている。今の今まで、どこか分からない寂しいところに二人で座っていたと言うのに、今ここは、侍従長がディディモに近習の提案をした、あの川べりになっていた。ディディモは何も構わず川に入り、手まねきをする。応じて入って行くと、ディディモは座るように促した。

「あなたの心は本物です。洗礼を授けます。」

 今までずっと、洗礼には躊躇いがあった。侍従長はディディモの生きる道を護りたいとは言ったが、それはディディモだからであって、メシアのともがらだからではない。

 しかしその川は不思議で、侍従長が座りやすいように、水嵩が変化した。侍従長は自分が透明になって行くことを感じながら、目を閉じ、胸の前で手を組んで、片膝をつく。旋毛にディディモが両手を置き、言った。

「貴方はメシア《救い主》を信じますか。」

「信じます。」

「父と子と、聖霊の御名みなによって、あなたに洗礼を授けます。」

 不思議な儀式だった。目を閉じているのに、侍従長にはディディモが形容しがたい光の衣をまとっているのが視えたのだ。その衣は、侍従長が一度だけ、入口に立ったあの宮殿で、あの高貴な人が来ていた衣に似ている。それを見たならば、善神としてのメシアではなく、ディディモの言うメシアが在るということを否定する理由はない。その言葉は侍従長の本心だった。今ここにはディディモと自分しかいない。しかし、同時にあの光の衣を、ディディモに着せる存在も確かにいたのだ。

「あなた、あなた。忘れないでください。あなたが何をしても、何を思い悩んでも、何を憎んでも、私は永久とわにあなたの妻、あなたの師、あなたのものです。二人で新しい主人に仕える事になっても、あなたを愛していることは変わらない。そして私の天の主が、私の地の主であるあなたを尊ばないこともない。天の国に行っても、私はあなたを愛しています。神と一つになり、真理と一つになり、神秘の前に全てが融合しても、その事実は変わらないのです。」

「師父、すまないがあなたの弟子は頭がそんなによくないのだ。分かるように言ってくれないか。」

「ああ、なんてことでしょう。言っているのに聞けないなど。ええでも、それは私もまた通った道。あなたの気持ちは分かります。だから今は文言だけを覚えていてください。いつかこの言葉の意味を、あなたの耳が捉えるまで。」

 そう言ったディディモの顔は、本当に安心した綺麗な笑顔だった。どういう意味か、と、更に問い詰める前に、その夢は醒めた。


 その頃背子せこも又、夢を見ていた。だが背子せこの夢は、悲惨な夢だった。

 雲もないのに空は暗く、大雨が降って、屍を激しく鞭打っていた。血は注ぎだされ、命の拍動は止まっているのに、どくん、どくん、と、血が噴き出す。

「おまえ…。」

 屍の一つを抱き上げる。それは少女の姿をしていた。ただ、その姿の異常な事は、衣服が破かれ、足が折れ手首が折れていて、明らかに何者かに性的な暴行をされた後、刺殺されたと分かる程血塗れだったことだ。

「嘘だろう…。お前は、ずっと師父を護って行くんじゃなかったのか…。どうして死んで…。これは夢か、夢だろう、そうだろ? 妹よ、何だってこんな夢を見せるんだ? 何か言いたいことがあるなら言ってご覧…。」

 妹子いもこは死んだ筈が無い、死んでない、死んでない、と、背子せこは繰り返しながら、それでもどうしてもこれが夢だという確信が持てなかった。だってそれくらいに妹子いもこの身体はぐにゃりと曲がり、もう筋肉も骨も機能していなかったのだ。

「それはね、兄さま。兄さまが私を、裏切ったからよ。」

 胸に顔を埋めて泣いていると、後頭部をぐしゃりと掴まれ、胸に押し付けられた。そして妹子いもこが、しゃがれた声で、そう囁いて―――背子せこは、目を覚ました。


 侍従長も背子せこも、夢の内容を話さなかった。話す前に、ディディモを国王の使いが捕えて、裁判にかけると言って連れて行ってしまったのだ。そしてその裁判に証人として名乗り出る事も、傍聴する事さえ出来なかった。

 誰一人、彼の為になる事は出来なかった。ただ数寄すけは、将軍と言う立場を利用し、ディディモの裁判の様子を偵察しに行ってくれたが、それすら三人はまともに聞いていることが出来なかった。

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