第六十二話 審判の二人
首相の家に呼びたてられてから数日の間、どうやらディディモの教えは二つあるらしい、という噂が立ったようで、多くの人が
その日は説教を終え、何時もより疲れていた。昨日久しぶりに、夜遅くまで起きていたからだ。今日は流石に無理だ、と言って、ディディモはいつものように、侍従長の胸板に鼻を押し付けて眠り込んでいた。
「イシャ、イシャ。」
懐かしい名前を呼ぶ声に目を覚ます。侍従長は眠っていた。目を覚ます様子はない。その理由は直ぐに分かった。寝台のすぐ横、ディディモの後ろに、頭から血を流した男が立っていたからだ。
「メシア! お姿をお見せするなんて、私は一体何をしでかしてしまったのでしょうか。」
「………。」
メシアは黙って見下ろしている。その表情は詰問する様子と言うよりも、穏やかであった。沈黙は何よりも雄弁にディディモに語りかける。ディディモはその全てを汲み取り、手を持ち上げて差し出した。
「勇気と力をお与えください。私は弱い人間です。この人の愛を知って、脆くなりました。」
「それは違う、イシャ。君は今や最も人間らしくなった。恋を経て、愛を知り、愛される事を知り、母に成れぬ身でありながら母の如き心を得た。それは君の隣に眠る夫であり、お前を慕うあの三人を始めとする、少ないが多くの人々。君は愛を知った。怒りを知った。義を知った。不義を知った。イシュという「理性」を離れ、君は今、何よりも自由になった。だから私は君の傍に居よう。これから先、君がそうできるように。」
その言葉を聞き、ディディモは手を降ろした。必要ないからだ。
「はい、メシア。お言葉通りになりますように。」
「愛している、イシャ。ディディモと名前を変えてからも、私の君への愛は変わらない。そして今、君はもう一つの名前を得る事になる。」
「はい、心得ました。謹んでお受けいたします。」
「天の父と私と聖霊の力は、いつも君と共にいる。安心して行きなさい。」
「アーメン。いと高きところにホザンナ《栄光あれ》。」
「ディディモ、どうかしたのか? 喉でも乾いたのか。」
上体を起こして、じっと扉を見ていたディディモに、侍従長が気付いた。横になれ、という手を諌める。
「お出でなさい。貴女を待っていました。」
「? 誰かいるのか?」
「あなた、彼女は勇気が出ないようです。部屋にお招きください。」
「いいのか? まだ朝ではないぞ。」
「はい、もう始まりましたので。」
「…???」
不審に思いながらも、侍従長は言われた通りにした。扉の向こうに、黒いシルクで全身を覆い、目元だけが辛うじて見えている。侍従長は染み込んだ香の薫で、その女がどういう身分の女なのか直ぐに理解し、入ろうとする女を遮った。
「あなた、何をしているのです。お招きください。」
「しかしディ―――師父、この方は―――。」
「メシアの前には、あらゆる身分、性別は関係ありません。さあ女の方、お出でなさい。」
「師父!」
「侍従長、貴方は私を独りにした時、何と言いましたか? …同じことが、今から始まるのです。もう、始まっているのです。」
暗闇でも分かる程に、侍従長が顔を歪めた。奥歯を噛みしめ、戸惑っている女を強引に部屋の中へ突き飛ばし、涙声で言った。
「ああ、そうか、ならばいってしまえ!
「………?」
そう言って侍従長は走り去ってしまった。廊下を曲がった辺りで、誰かに会ったのだろうか。ぼぞぼぞと声がする。しかし構わず、ディディモは女に此方へ寄るように促した。
「申し訳ございません、聖者様。わたくしはどうしても、この時間でないと…。」
「分かっています。今から日の出までは、貴女と私だけの時間、メシアが貴女に与えた自由な時間です。お好きなようにお話しなさい。」
はい、と言って、女は座り、深々と頭を下げた。
「わたくしは外にあまり自由に出られませんが、客人はよく来るのです。それで、人々が貴方様を一様に聖者であると申しますのに、仰っている事がまるで違うのです。昨日の昼間は、それを巡って客人達がわたくしの家で喧嘩になりました。」
「どのように言っているのですか?」
「はい。ある高貴な女性は、聖者様は禁欲を掲げておられ、あらゆる快楽やこの世の楽しみを遠ざけ、魂の
「どちらの者も正しいのです。しかし、その高貴な女性は、神を信頼できていないのです。だから、神に愛される努力をしようとするのです。神はその様な些末事に悩むよりも、侍女が言うように毎日の生活を楽しみ、夫や妻と愛し合い、子供を育て、孫を育てることで、幸せになる事の方を望まれています。」
「何故、愛される努力が必要ないのですか? 神は偉大にして至尊、わたくし達のような者が前に伏せる事すら出来ぬほどの聖なる方なのに?」
「何故努力をするのです? 貴女は夫の能力と結婚したのですか? 仮に政略結婚だったとしても、夫との間に生まれた子供の努力を愛おしみこそすれ、子供の幸福を独占せんとするのですか? 自分に愛されたいと努力し、苦しむ姿こそ―――。」
「そんな! そんな恐ろしいこと、おやめください!」
「貴女が言ったのは、それくらい恐ろしいことなのです。愛に対価があるなどと言う考えは、邪淫。真心を銀貨で量り、此方の方が良いだとか其方の方が良いだとか、何れ人々は理想から自分がかけ離れていく恐怖に耐えきれず、最も価値のつけられないものにも価値を付けだすでしょう。」
「理想を追う事は罪なのでしょうか。」
「志は立派でも、それに神を引き合いに出すのは間違っています。人の心はそんなに強くないのです。それを理解し、受け入れる度量が無ければ、如何なる志も傲慢です。人は、美しくなどないし、高潔でもないのです。メシアへの因り頼みによってのみ、自分は咲くのだと分かっている蓮の方が、真理に近い。何を美しいと言い、何を真理と言うかは、人に其々委ねられています。」
「人は、花より優れた存在ではないのですか?」
「何故優れているのでしょう? メシアは花も子供も国王も、等しく愛し、等しく祝福しておられます。」
「それは何故ですか?」
「メシアが愛そのものだからです。完成した母の愛であるが故に、メシアは等しく、公正であられるのです。」
「聖者様、公正とはどういう事でしょうか。わたくしの周囲の者たちは、聖者様は富に飢え、人々に不誠実であると口を揃えています。しかし皆、貴方様を聖者と呼ぶのです。これは矛盾していないのでしょうか。」
「矛盾している様に見えるのは、人の眼だからです。しかしメシアの前では矛盾していることは何もありません。メシアは今と過去と未来を、同時に見据えておられます。」
「それならば、矛盾を許さない方が、人々を惑わさないのではないのでしょうか?」
「言い方を変えましょう。人々は、矛盾が無ければ納得できないのです。正論は人を追い詰めます。その正論が完璧であればある程、人はその正論を潰す為に眼が曇ります。それは、望ましいことではありません。」
「望ましいことではないのに、許すのですか?」
「言い方を変えましょう。理想論を語る事と、理想を押し付ける事は全く正反対なのです。高貴な女性が言っていることは、理想を押し付ける事です。人はそれでは苦しみます。達成された自分に自惚れ、達成できない他人を見下し、傲慢になります。完璧になろうとする欲望は、人が神に成らんと言う大逆です。大逆なのは志ではなく、自分は神に成れると言う思い上がりです。」
「では聖者様、聖者様は傲慢でらっしゃいますか、それとも謙虚でらっしゃいますか。」
「謙虚であるとメシアが評価して下さる事は、光栄です。」
「謙虚で在れ、柔和で在れ、というのは、傲慢なのでしょうか。」
「それらは心がけであって、目的ではありません。謙虚で柔和な者が、等しく皆、人々を愛していると言う事にはならないからです。」
「愛とは、そんなに難しい物なのですか。」
「難しくしているのは大人の方です。子供は、貴女の両親の名を知っているのかもしれません。しかし両親―――祖父母がどの産婆に取り上げられたかすら、孫は知らない。もしかすると自分を産んだ母が取り上げられた産婆どころか、自分の産婆も知らないかもしれません。しかし、子供はそれでも両親を、祖父母を愛しているのに変わりはありません。幼い子供なら尚の事そうです。幼い子供が知っているのは、親の名前程度のものです。もしかしたら、親の名前すら知らない程幼いかも。それでも子供が両親を愛していることに変わりはない。―――つまり、愛とは理屈ではないのです。その状態、そのままの姿を心に留め、認め、受け入れる事が愛なのです。」
「聖者様、先程から、愛、愛と仰っていますが、それは男女の愛は、その愛よりも劣っていると言う事でしょうか。」
「言い方を変えましょう。愛の前で、男も女も、子供も老人も、敵も友人も関係ありません。等しく人間です。そして敵を好きになる事は出来ませんが、敵を愛することは出来ます。仇を忘れる事は出来ませんが、仇を
「他の事は考えなくて良いのですか。」
「神へ祈るのであれば、先ず感謝を伝え、賛美を捧げ、それから願いを祈るのです。感謝の祈りを忘れなければ、大凡全ての出来事をメシアの前に奉げた事になるのです。」
「では聖者様、模範的な祈りと言うのはないのでしょうか。わたくしは意志の弱い、感性の鈍い人間です。その都度その都度、感謝の種を探すことは出来ません。」
「そうです、人の身体は弱い。心がどんなに燃えていても、肉体は弱い。嘗ての私たちにお与えになられた祈りを、貴女に教えましょう。」
外が白み始める。ディディモは何度も、女に祈りの文句を繰り返した。女がやっと暗唱できる頃には、日の出と共に仕事を始める人々の働く音が、そこかしこで聞こえ始めていた。
―――そして、裁判がやってくる。
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