第六十一話 偽物の二人
―――おや、どうしたんだい、そんなべそかいて。
ふと懐かしい声が聞こえた気がして、その娘は振り向いた。朝の市場の賑わいの中で、子供の泣き叫ぶ声がする。
「おぉい誰か! この坊やのおっかさんを知らないかい!」
ああそうか、迷子か。
どこにその子供がいるかも分からない状態で、どんな女がその子供に情をかけたのかも分からない状態で、娘はあの日に出会った運命の商売女を思い起こす。祝福と言う甘言に騙され、焼き殺された、最愛の人。決して娶られない彼女を、奪う者などいない筈だったというのに。
もう少しだ。もう少し、もう少し。
人の名を棄て、蛇の女へ成り下がった―――シタ・ナーギニーは、市場で食料を買い込んだ後、そのまま隠れ家に潜り込んだ。
あれ以来、彼女は市井でディディモに成りすまして人々に禁欲を掲げ続けた。子供が出来る夫婦が、明確でない未来の裁きを勝手に想像して寝室を別ち、夫は自分の肉欲に苦しみノイローゼになり、またシタ・ナーギニーに相談に来る。その度に禁欲を説き伏せ、その肉欲が悪魔の囁きだと囁いた。。中には間違っても子供が出来ないように、性器を斬りおとした男までいた。ディディモとは全く体格は勿論、声も性別すら違うのに、白蛇の加護を受けたシタ・ナーギニーの言葉を、皆ディディモの言葉と信じた。愉快で愉快で堪らなかった。あの場で最愛の女を焼き殺し、それをいい気分だと見ていた者達が、
嗚呼奴らは分かるまい、分かるまい! 子供が欲しい、愛する人と交わりたい、恋をしたい、それらを否定し徹底した時、その家は絶えるのだ。そして修業が足りないと侮辱した人間達が、子孫を成し、そしていつしか彼等は笑うだろう。その教えが憎悪と嫉妬によって齎された、悪逆の教えであったと。遠い日々に消えた命たちは全て、自分を理想化するあまり、生まれてきた意味を見失い、愛を否定して、殺伐とした機構的な社会を作る歴史だけを残し、自分たちは無責任な自己満足に満たされて死ぬのだ。
教養のない頭でも、自然の摂理を捻じ曲げてでも自分を価値あるものにしようと努力する人々が如何に愚かであるか分かる。ディディモの神が護っているのか、それとも白蛇が護っているのか、シタ・ナーギニーはあれ以降、ディディモの行方を知ることが出来なかった。どれほど蛇たちと心を通わせ、彼等の卵を隠して騙しても、蛇たちは戻ってこないのだ。だから情報を得る術がない。市井に出回る時は、何故か人々は自分を成熟した男―――つまりディディモであると勘違いする。その故に、「ディディモはどこにいるか」等と聞く事は出来なかったのだ。同じ理由で、シタ・ナーギニーは涙を流すことが出来なかった。大声をあげる事も出来なかった。周囲の者たちが「聖者様」と有難がって、担ぐのだ。具合が悪い、今は祈りたい、と色々詭弁を並べても、何処へ行ってもそういう人間が湧いてくる。蛇たちに話を付けて、やってくる人間全てを噛み殺せと言っても、「聖者様が触れれば生き返るだろう」と、結局面倒事が増えるのだ。
仕方がないので、シタ・ナーギニーはサータヴァーハナ国お抱えの象を噛み殺させ、巨大な象牙を手に入れた。涙でその象牙を濡らし、憎悪を含めた声で気合を入れ、牙を研いだ。ディディモは勿論、一行を皆殺しにするためだ。一突きで四人は当然、十人でも貫けるような、鋭く巨大な槍だが、象牙は軽く、大声をあげて握って振りかぶれば、それらしい型にもなった。文字通り「打ち込む」ことだけが、シタ・ナーギニーが人間らしくいられる時間だった。蛇の言葉を解し、蛇を操り、蛇の穴倉で寝ていても、愛した女の事は忘れなかった。彼女を焼き殺した社会の在り様も忘れなかった。ただの商売女であれば殺されなかったと言う事実を、忘れなかった。
「聖者様、聖者様、この辺りにおられましょう、お姿をお見せください。」
またやって来たか。
この大声で何も感じないとは、余程切羽詰っていると見える。シタ・ナーギニーは研ぐ手を休め、穴の中からそっと外を除いた。女だ。盗賊などの類ではないらしい。そこそこいい暮らしをしていたらしく、着ている物は上等だが、酷くボロボロで破れている。首元には金の飾りがあるが、その装飾もボロボロだ。追剥にあったにしては、身体に傷が無い。大方、どこかの屋敷を追い出された侍女だろう。
「聖者様、聖者様。白蛇の聖者様、どうぞ私の願いを聞いてください。あの男に復讐する力をお与えください。」
女はどこに
「貴方はどこから来たのか。」
女は相手が蛇の子供と見縊らなかった。寧ろ、自分の願いを聞いてくれるかもしれない、と、
「はい、サータヴァーハナの将軍の家から追い出されて参りました。」
「復讐をしたい男とは誰か。」
「北はパルティア、西はイスラエルより来ました、足の不自由な男です。」
「何故復讐を望むのか。」
「私の愛した方を侮辱しましてございます。その方は青二才の孫に地位を奪われ、絶望の内に自刃なさいました。その方の屈辱、いた然るべき。斯様な辱めを受けて生きていられる男など居りませぬ。」
「その復讐は、一人ではできぬのか。」
「出来ません! 私とて、あの男に辱められて外へ放り出され、猥雑な侮辱を真に受けた男共に更に凌辱されたのです! 神が本当に居わしめすというのならば、何故私の操を複数の男に引き出させたのか! あの男は聖者と呼ばれていますが、悪魔に魅入られた変態以外の何ものでもありません! 男に抱きかかえられてくっついて! 傍に少年まで侍らせていた!!」
女―――侍女はあのディディモの怒り狂った様を思い出したのだろう。ガチガチなる奥歯で髪の毛を噛み、割れて欠けた爪で頭を引っ掻き回した。頭皮が削れ、血の付いたフケがとぶ。
「ぐぁぁぁあぁぁぁ!!! おいで下さい聖者様!!! この哀れな女をお憐れみ下さい!! 叶わぬと言うのなら、その牙の毒を一匙頂くだけで構いません!!」
このまま放っておくと、本当に蛇の子供の牙の根を抜きそうだったので、シタ・ナーギニーは姿を現した。錯乱して怒りに狂い叫ぶ侍女は、初めこそ気付かなかったが、足音もなく近づいてきた娘を目に止めると、荒い呼吸のままじっと見つめた。
「あたしが、白蛇の聖者。…初めてだわ、「あたし」が聖者だと見破ったのは。」
「お恵みに感謝いたします。」
「あたしの神につき従うと言う事は、人を辞め文字通りの蛇道に生きると言う事。…アンタは、人の名を捨てて「ナーギニー《蛇女》」になる覚悟はある?」
「既に女としての矜持も尊厳もない者なれば、新しい名をどうして厭いましょうか。」
シタ・ナーギニーはその言葉を聞いて笑った。
「あははははははは!!! いいわ、救ってあげる。弟子にしてあげるわ。アンタは今から、あたしの
一方その頃、
「ねえ兄さま。」
「何だ。仮にも扉の奥では師父たちが真面目な話をしているんだぞ。」
「兄さま、もしかしてこの年特有のおねしょした?」
慎め、と言おうとした言葉が、唾になって霧散し、腰を抜かした。
「お、お、お、お…。」
「あ、それとも遠まわしに言うと逆に恥ずかしい? 要するに夢精―――。」
「そーいうことを男に言うな! 男に! 間違っても師父や師兄の前で言うなよ!?」
「心配してるんじゃない。」
「すんな! 心配するようなことじゃねえから!」
「でもサ、偽物があんな風な事言ってるから、今日日商売女たちは値下げしてるらしいわよ。ここいらはパルティアよりも貿易が盛んだし、色々面白い娼婦がいるんじゃない?」
「面白い娼婦ってなんだ面白いって。」
「なんてったっけ、ボーボーの術だったか、そんなの。」
「もういい、お前に聞いたぼくがバカだった。」
どんなに安い娼婦よりもお前がいいよ、などとは当然言えない。そもそも妹は、何れ自分が誰か一族の者に嫁ぐと言う事は聞いていただろうが、具体的に誰がそうだったのかは知らない筈なのだ。
無論妹は妹なりに、本当に気遣っているのだろう。刺客の家に生まれた娘が、いくつの年ごろから「女」を武器に出来るか知らない筈が無い。逆に言うと、妹はもしかすると男である自分よりも、男の性に関して詳しいのかもしれない。ああ、頭が痛い。今日の夢見が悪かったから尚更だ。
はあ、と、項垂れていると、突然扉が開き、ごろりとそのまま後ろに転がってしまった。うっかり侍従長の脛に頭をぶつけてしまい、慌てて頭を下げる。
「どうしたのだ。朝から様子がおかしいぞ。」
「いいえ、師兄のお手を煩わせるほどの事ではありません。」
「心配事でもあるのか。」
「お二方の身の安全については心配には及びません。」
「いえ、そうではなく。」
途中からディディモが口を挟んだ。二人は顔を見合わせ、言うべきか否か、迷っているようだった。
「どうなさいましたか、どのような憂いが?」
「………前に、私の所に来た、御台殿を覚えていますか。首相のご夫人です。」
「どうも、彼女がシタ・ナーギニーに心酔しているようなのです。私に説教を撤回して、夫に従順になるように言わないと死刑に処す、と使いが来ました。」
二人揃って、びくりと肩が跳ねた。ディディモは諌めて言った。
「何れは私も死ぬことになりますから、それはそうそう驚く事ではありませんし、偽預言者や偽救世主が出現するだろうと言う事も、メシアは以前仰っていました。イスラエルでは偽預言者の類は、歴史上沢山いますから、取り立てて不穏な事でもありません。ただ、彼女は、私の振りをしたもう一人のその言葉に救われるような、何かしらの悩みがあったから心酔してるのでしょう。そこへ正論だけをぶつける事が、メシアの教えとは思えません…。」
「だが師父、要らぬ誤解のまま死ぬ必要もあるまい。」
四人は難しい顔をしたが、結論から言うとディディモは首相の家に
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