第五十六話 夢魔の二人
一部始終を見ていた宿主と旅一座の座長は、なんとかディディモ達を不問にしてくれた。というよりも、想い人に罵られた青年が余りにも泣いて、しかもさっさとディディモ達は屋敷に戻ってしまったので、そちらにかかりきりになってしまったのだ。屋敷に戻り晩餐を済ませ、ディディモと双子は休んだ。その日の夜も、将軍が奇跡を起こしてくれとしつこいので、侍従長が一晩、酒の相手をした。
翌朝になって、漸くディディモは将軍の話を聞く余裕が出来た。将軍のお付の召使たちは、いつのまにか人数が減っているような気がする。聞けば、心労でまた一人、休暇を与える羽目になったのだとか。遠まわしに恨み言を言うので、ディディモは頭が痛くなった。優先度に身分の隔てを考慮しないと、大抵の権力者はこうなるのだ。
「師父、少しは怒っても良いと思います。彼等は師父が自分達を愛してくれると勘違いしているのです。だからあんな風に粗忽に振る舞うのです。」
「
あまりにもディディモが優しく笑うので、
「わたしは、兄さまとは違います! オトコが自尊心を傷つけられた時にどんな愚行を犯すのか、わたしと兄さまは末の娘と息子だったので、兄どもを良く見て参りました。わたしはそれが偏に心配なのです! それは師父が偉大な業をなされば払拭されます。わたしには師父が居ればよいです。」
ディディモが彼等位の頃には、既に「イシャ」と「イシュ」は居て、恋の折り合いの為に、無理矢理会話をしていたように思う。
「師父、何を考えている。何か気になる事でもあるのか。」
「いえ、
す、というディディモの言葉が、二種類の金切り声でかき消された。喧嘩する声が止み、それよりも遥かに姦しい女の声が迫る。雄叫びに一等驚いたのは
瓶が転がるような音がし、扉が破れた。開いたのではなく、破れたのだ。二人の丸々と太った老婆と中年女が、股の陰毛を鵐に濡らし、きっきっと眼球が動く音をさせながら、
「ぎゃあああああ! な、なんだなんだ、どけどけどけぇぇ!」
「あひゃははやひゃひゃひゃひゃはひゃひゃひゃ!!! おどこだぁぁぁぁおどごぁぁぁぁぁ、挿れてぇぇぇぇさわってぇぇぇぇなめでぇぇぇぇ!!」
「この年増! 退け退け! 師兄から離れろ!」
「なんでたってないのよォはだがなのにぃぃぃぃ!!! ああああああがまんできないできないよこせよこせよこせ、男なら誰でもおったつでしょ!!!」
「し、師父! 意味がない沈黙はするでない!」
将軍の妻と娘だろう女は、涎を垂らし、背けられた頬をべろべろと舐め、逃げている腰に自分のずぶ濡れの股を擦り付ける。ディディモは経験上、愛液の匂いというものが分からないが、恐らくこの臭いは尿だろう、と、どこか遠い理性で考えた。
そこに、服を引き千切られた召使たちが漸くやってきて、その後に将軍と一人の侍女が続く。召使たちはなんとか二人を引き剥がし、縛って床に座らせた。と言っても、勝手に脚を崩して腰を振りだしてしまい、そのまま悦に浸ってしまうので、最終的には転がされるようになってしまう。召使たちが、
「申し訳ありません、聖者様。このような気の違った者を、治して頂きたく…。」
辛うじて将軍の声が聞こえるくらいの騒々しさの中で、ディディモは不信感を持った。
確かに、彼女たちは悪魔憑きと言っても過言ではない程だ。尋常ではない。だがディディモは、彼女たちの身体に不自然に縄目が多いことや、青あざが多いことが気になるのだ。この男はもしや、二人が悪魔憑きであることを良い事に、彼女たちが何を言っても誰も信用しないことを良い事に、横柄な、というより傍若無人な態度を取っているのではないか、と考えたのだ。それに、他の召使となれば、ディディモが今出来る事と言えば、一つしかない。
「侍従長、
すると侍女は、あからさまに嫌そうな顔をしたが、ディディモが何も言わずに見つめると、将軍は召使たちに命じて下がらせた。その間にも女達は叫び続けている。
「将軍殿、侍女殿。単刀直入に言います。これは悪魔憑きではありません。」
「まさか! こんなに気が狂ったことをしているのに!」
「私から言わせれば、仮にも自分を愛している者たちを裏切り、その口封じに毒を盛る事の方が、余程気が狂っています。」
すると侍女が金切り声をあげた。
「無礼者! この御方を誰と心得まする! サータヴァーハナ一の猛将でございます! ど、毒だなんて、そんな卑劣な手段で勝ちを得ようとなど…!」
「聖者様と私を呼ぶのに、貴方方の眼は盲目です。メシアに与えられた知恵が、このような狡猾で卑劣な行いを、正当化すると思いますか? 貴方方の愛は本物かもしれませんが、それによって最も護るべき人々を虐げ、害するのであれば、それは独り善がりな我儘です。オナニーよりも非生産的です。」
「何を仰っているのか、とんとわかりませんが、将軍を侮辱することは許せません。御謝り下さい!」
「私が謝るより先に、侍女殿、貴方はこの二人に謝るべきです。そうすれば、夢魔は去り、一晩で二人は解放されるでしょう。」
侍女は怒りにぶるぶると涙を溜めている。将軍は将軍で、ばつが悪そうにそっぽを向いている。その煮え切らない態度が、ディディモの心をかっと熱くさせた。ダンッ! と大きく右足で床を踏みつける。侍女は怯まなかったが、将軍はびくりと身体を震わせた。
「聖者が皆寛大だと思わない事です。私は殊更、貴方方のように、きちんとしたけじめを付けずに自分達にとって都合のいい恋愛をしている連中は、殊更許しがたい。奥方殿も、ご息女も、貴方と侍女殿との密通に気付き、剰え自分の傍へ置いて、本来妻がするような世話まで全てさせていることを知っていたから、夢魔に付け込まれたのです。私の―――メシアの力では、二人は治せません。将軍殿の心づもり一つで、二人は治ります。」
「そんな、馬鹿な事が…。だって、二人は突然狂ったのです。」
「ええ、確かに、将軍殿から見ればそうでしょう。ですが、何れ二人が居なくなる事は分かっていたのでは? …侍女殿に、毒を買ってきて渡したのは貴方なのですから。」
無礼者、無礼者、と、侍女は悔しそうに睨みつけてくる。一を反論すれば、十の正論が返ってくると分かっているので、言い返せないのだ。それでも将軍は食い下がる。
「聖者様、仰る通りです、お恥ずかしい。ですが聖者様、妻ももう老いて、娘も一度は嫁に行きながら出戻った一族の恥、連れ帰った子供に、家の為に働くという道徳すら教えず、娘の息子はどこかへ出奔する始末。
「………なに?」
ぐぐぐ、と、ディディモの眉が吊り上って行く。もう我慢ならなかった。メシアがいたら止めろと言っただろうし、イシュがいてもそうだろう。知った事か、もう我慢ならん!
パァンッ!
「旦那様! ―――この、つけ上がるな! 不敬者がッ!」
侍女がディディモの髪を掴み、自分の胸の辺りまで引きおろし、たった今ディディモがそうしたように、思い切り左の頬を叩いた。一度で満足せず、二度、三度、と、頬を殴る。初めこそ平手だったが、爪が立ち、拳になり、それでも止まらなかった。
「謝れ謝れ! この不埒者!」
「黙れ…ェ…! この、肉便器がァ!!!」
その叫びはまるで鳴動だった。一度噴き出した怒りは、パルティアでの不満すら思い出し、ディディモは怒りとも形容できない真白で純粋な激しい力に支配された。本能が叫ぶ。生きるための力全てが、侍女を床に押さえつけ、化粧を弾き飛ばさんばかりに顔を殴る。
「お前が壺担いで男持ち上げてイチモツをしゃぶってる間なぁ…! こっちはドでかい岩を切って積んで家を造って来たんだ!! お前よか私のしたはよぅく使い込まれてるぞ、神の使いだって人間だ、人間らしくいて何が悪い!! 人間なら人間の分を弁えた生活をしろと、唯それだけがなんだって気に食わねえと抜かすか! 義を通せ、納得のいく言い訳をしろ! こいつでぶち抜いてやろうか!!」
嫋やかな口調から一遍、その口調はなにかが憑りついたかのようだった。正しく何かが乗り移っていた。侍女は恐怖よりも痛みに泣き叫び、将軍は硬直して助けようとしない。鼻血を出し、口の端が切れた侍女の上から退き、その首を絞めない程度に掴んだまま持ち上げ、
「何か言えこの豚がァァァッ!!」
将軍は侍女の身体で胸を強打し、壁に押し付けられる。侍女が泣き叫ぶ中、将軍は小便を漏らすほどにディディモに怯えていた。ディディモはそれを見下ろし、ハッと鼻で笑うと、爪先を股間に食い込ませた。将軍の呼吸が、悲鳴と共に腹に引き戻される。
「このまま踏みつぶしてやろうか、お前のモツは、愛を凌辱する。愛を軽んじる。そんな者の為に、善良な恋人たちを―――あの娘の恋人が殺されるのを貴様は許可したのだ! あの娘の恋人を魔女に仕立て上げ、自分へ向けられる非難を隠したのだ! 分かっているぞ、私には全て分かっている!!
ひくひくと痙攣している将軍の左目に親指をかけ、頭を強引に持ち上げる。親指が食い込み、瞼がめくれ上がる。息を吐き出し、親石を運ぶ大工の腹に力が籠る。
「おやめください、聖者様ッ!!!」
ゴンッ!
ディディモの拳は、将軍の顔ではなく、そのすぐ横の壁を砕いた。中指の根元が、壁に食い込んでいる。引き抜くと、欠片がからんと落ちた。
叫んだのは、老婆―――妻の方だった。
「聖者様、もう十分でございます。私共を苛んでいた悪魔は居なくなりました。退治されて、もう悪魔は私共の魂を苦しめません。聖者様、もう大丈夫でございます。御慈悲深い聖者様、どうぞその悪魔が、あるべき場所へ帰ることをお許し下さい。二度とその悪魔が近づかなければ、私達は十分でございます。」
「聖者様、私からもお願いします。醜態を晒したことをお詫び申します。ですが、聖者様に退治された悪魔は惨めです。お情けを、聖者様の慈愛をおかけください。」
娘の方が、手を合わせ、深く深く頭を下げながら頼み込む。
ディディモは何も考えられなかった。
悪魔? 退治? 一体何を言っているのだ? 私はただ激怒しただけだ。私はこの二人が、病に苦しむ家族を嘲笑い、楽な所で愛と嘯いて乳繰りあっていることが
だが今私は何をした? 目の前の女は何故血に汚れている? 何故泣いている? 目の前の将軍の、左目は何故腫れている? 何故私はこんなにも自分を律することが出来なかったのだ。
嫉妬したからか? 何故? 何故私はあんなにも、こんなにも、酷い仕打ちを―――。
「お前達! 何も怖くないから、入って頂戴。聖者様のお手当てをして!」
「きゃあ奥様! あ、お嬢様まで!」
どこか遠くに聞こえる声。喜んでいるのか、驚いているのか分からない。頭が、動かない。力が抜ける。いや、抜いてはならぬ。贖罪をせねば、祈りの告解を、メシアに助けを求めなくては。イスラエルにいた時と違い、十一人以上もいた仲間はいない。パルティアの時と違い、理性の声であるイシュもいない。嗚呼何という事だ。私は神の遣わした者として、聖者として振る舞わなければならなかったのに。パルティアを出て、弟子の誰もが来た事のない果てまで来て、愛し合う喜びを知って―――。
わたし は だらく した のか。
「ディディモ! しっかりしろ、ディディモ!」
絶望感に押しつぶされるように倒れ込んだディディモを、侍従長の腕が包み込む。この人はいつでも、本当の本当にこそ、もう駄目だと言う時には、必ず間に合うのだ。
ああ、でも、はらいのけなくては。このひとといると、わたしはだめになる。
侍従長の胸に顔を埋め、変わってしまった自分を嘆きたい気持ちを、侍従長の胸に押し込み、
「師父? 大丈夫ですか? どこか怪我を…。」
「
「師父…?」
「師父、それは無理だ。彼等の裁断は貴方でなければ―――。」
「もう私に、そんな資格はないんです!!」
ディディモの錯乱した心が、触れてもいない掌から伝わってくる。
「わ、かった…。悪いようにはしない。師父、弓のと少し、自分を労ってこられよ。」
「師父、妹だけでは危のうございます、ぼくも…。」
「止めよ、刃の。今は二人きりにしておけ。」
「ああ、お待ちになって、侍者さま。こちらを聖者様に。」
将軍の娘が、スパイスの香りのする小ぶりの甕と、杯を一杯手渡した。
「今、正門の方は聖者様の悪魔祓いの声を聞きつけた野次馬がいることでしょう。中庭にご案内しますので、どうかそちらに。」
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