第五十五話 地獄の二人

 聖者様、私はまず、素晴らしい場所を見せてもらいました。そこは皆が清らかで、貞淑で、愛に満ちて、謙虚で、神を讃えて諍いが無く、誰もが正直で、誠実なのです。私はそこにいる人々の暮らしを見せてもらったのです。

 そこの人々は神の読み物を大変勤勉に学び、全て読み物を諳んじることが出来るのです。彼等は魂が健康であるために、神の読み物を読んで、研究しているのです。そこではバラモンも、クシャトリヤも、スードラ《奴隷》も、ダリット《非人》も文字が読めるので、研究が出来るのです。誰でも自分の好きな事を研究し、スポーツをするように、メシアについて調べるのです。

 それは、人々が皆神の追随者だからです。彼等は等しく神を歓ばせる為の希望を持っていて、未来に確証があります。神を歓ばせる事こそが、確かな希望だからです。

 そして彼等は、本当の意味でのダリットとは交流しないので、安心です。本当の意味でのダリットとは、偶像を拝み、人を奉り、占いで未来を決め、淫蕩で醜穢しゅうえな魂と行いと心を持つ者たちです。そのような人々は、何度も繰り返された清らかな人々のお恵みを蔑にし、侮辱したので、最早炎で焼き尽くされてどこにもいないのです。だから、この場所には神との関係を家族よりも大切にする者たちだけが暮らしています。彼等は多くを学び、学ぶことで益々神を愛して、だからここは愛に溢れているのです。愛を確信していて、信仰を確信していて、自分達が神によって素晴らしい魂を持っていることを確信しているから、妬みもないし、僻みもありません。

 でも本当の意味でのダリットは、少し生き残っていて、彼等は自分たちの仲間にしようと、多くの敬虔な人々を誘惑するのです。中には、親しい人に化けたりもします。でも人々は硬く神に繋がれているので、そのような誘惑は屁でもないのです。それに、何よりも神が、自分を知ろうと努力する人々を見捨てないのです。

 本当の意味でのダリットは、それをしないから、貴方たちなど知らないと、神に言われるのです。人々は楽器を奏でる様に、彼等に語りかけたのに、彼等はそれをからかって疎ましいと言ったから、だからそのような事になっているのです。良くない結果を避けて生きる努力を放棄したのです。そのようになって当然です。

 そして、次に私は、ダリット達の住む所を見せてもらいました。そこはとても恐ろしい所でした。

 まず、ダリット達は享楽に耽り、淫蕩で自然の摂理に反した悍ましい日常を送っているので、何があっても悲しむことはありません。だって葬式に出る暇があったら、お金を使って遊んだり、ギャンブルやセックスの神と博打をやったりしている方が楽しいし、彼等にとっては有意義なのです。彼等は神でもないものを拝み倒し、自分の思い通りにならないことがあるとその像を蹴り飛ばして燃やしてしまうのに、自分の思い通りになると、寧ろ同じ像を増やすのです。神はたった一人だということを知っているのに、もっともっと思い通りになって欲しいから、と、像を増やすのです。

 ダリット達は、自分達こそが神の真の後継者だと言って憚らないのに、神が歓ぶことをしようとしませんし、知ろうともしないのです。そして神が予言されていた「不法の人」であるのは、清らかな人々の方だと言いながら、何人もの女をヤり捨て、肉欲に溺れ、それなのに秩序があると宣うのです。そしてそれらのちっぽけな土地を治めている王様気取りたちは、神の力の強さを認めず、自分達が一番となるために、徒党を組むのですが、その時に自分の気に入らない王がいると、その王と隷を殺すためにまた別の争いを始めて、神がお情けで貸している土地をぐちゃぐちゃにして、それでもまだ満足しないのです。なので、メシアは地を破滅させるそれらのダリット達を破滅させようとしています。

 そしてダリット達は、三人の使いを送り、善良な人々の世界を壊そうとしています。その三人の使いはそれぞれ、は三頭の馬に乗っています。

 火のように赤い色の馬の騎手は、人々がより惨憺な殺し合いをし、平和で柔和で温和な人々を脅かし、悪戯に殺し、嬲り、凌辱することを使命としています。彼が出て来れば、ダリット達が平和維持組織などという茶番をしていることがバレバレなのに、彼等は平和実現のためにセミナーを開いたり募金を集めたりして、やはり金の亡者になっているのです。彼等は自己満足の為に平和を利用しているのです。

 黒い馬に乗っている騎手は、あらゆる食物の値段を狂わせ、獲れ高を極端に少なくし、人々を醜く痩せさせて、苦しめ、死なせていきます。彼らは毎年、人類の九分の一を、この残酷で悪趣味な方法で殺し、それは全ての人々が死んでいなくなるまで続くのです。

 青褪めた馬に乗っている騎手は、死そのものです。彼は三頭の馬の内最も大きな力を持っています。疫病です。この騎手はあらゆる疫病をはやらせるのです。ある病は毎年人口の三分の一がかかり、多くの人々が苦しみました。尚悪いことは、赤い馬と黒い馬は、この馬の隷なので、どこにいっても馬がいるところには、この青褪めた馬がいるのです。

 これらの馬の支配は、白い馬に乗った天使の長であり神の子でもある偉大な王メシアがやって来るまで続くのです。

 聖者様、これらの三頭の馬は、この世界にも来ているのです。地獄で私は、彼等を避けるように、と警告されました。私もこのような恐ろしい地獄は嫌です。だから聖者様、貴方の旅に従わせてください。理性と、節制と、禁欲の素晴らしさを説いて、世界を平和にしたいのです!


「師父、師父起きているか、娘が仲間に成りたがっているようだが、どうするのだ。われは師父に従うぞ。」

 ディディモはハッと我に返った。熱に浮かされるように喋りつづける娘の話が、心底どうでもいいのと、煩わしいので、空中を舞う埃を数えていたのだ。と言っても、全く聞いていなかったわけではない。双子は居心地が悪そうだったし、侍従長も眉を顰めている。仕方がないだろう。たった今、娘はメシアの名を使って、ディディモと侍従長の愛を裁き、万死に値する大罪だと、遠まわしに言ったのだ。

「娘よ、貴方の心意気はとても素晴らしい。ですので、少し落ち着きましょう。」

「こんな素晴らしい感動を戴いて、落ち着いてなどいられません! あの愚鈍な若者はセックスしか考えていない不埒者です。私は純潔を守って貞操を護る事を述べ伝えたいのです。だから聖者様、あの不届き者が私の操を奪う前に、私を連れてこの街をお発ち下さい。」

「分かりました分かりました。分かりましたから、私の簡単な質問に答えてください。難しく考える必要はありません、その夢を見た時と同じように、心に正直にお答えなさい。」

「夢ではありません! 酷いです、聖者様。あの素晴らしい統治が来ると確信なさっているのに、何故そんな意地悪を言って、言葉の揚げ足を取ろうとするのですか?」

「そうではありません。」

「ならいいじゃないですか! 早く行きましょう、是非そうしましょう!」

「いいから、黙って、話を聞きなさい!」

 埒が明かない、と、ディディモは声を荒げた。娘はまだ話したいようだったが、ぴと、と唇に指を押し当てると、流石に黙った。風に巻き上げられたらしい石が、扉を二、三度叩く。まるで物を言うかのように。全く、嫌味なサタンだ、と、心の端で思いながら、ディディモは努めて努めて優しく語りかけた。

「貴方はその夢で、メシアについて何を知らされましたか?」

「どういう意味ですか?」

「メシアは、どのような存在だと理解しましたか?」

 娘は不思議そうに答えた。

「何故メシアの話をするのですか? 私は神について話すのです。神の代理人の話はしていません。」

「へ?」

 思わず素が出た背子せこを、侍従長が叩く。娘はきょとんとしつつも、自分をディディモが受け入れてくれるのを今か今かと待っていた。

「宜しいでしょう。貴方の理解した「神」は、どのような存在ですか?」

「はい。全能の存在であり、愛の存在であり、永久とこしえの王であり、親切で、憐み深い方です。」

「宜しいでしょう。そのような「神」が、貴方にそのような幻を見せたことは、どのような意味があると思いますか?」

「はい。神を良く知り、神の愛を受ける為に、するべきことを教えてくださいました。」

「宜しいでしょう。では、貴方の言う「愛」は、どのようなものですか?」

「はい。神と私達を繋ぐものです。神はそれの故に、愛する者たちを不条理から救ってくださいます。」

「宜しいでしょう。では、「愛する者たち」とは、どのような者たちですか?」

「はい。真理と義によって神の友となった者です。…聖者様、何故このような当たり前の事を繰り返すのですか? 何故私を試すのですか?」

 娘はだんだん苛々してきたのだろうか、ぷっくりと頬を膨らませ、またべらべらと「神」について語ろうとしたので、ディディモはきっぱりと言った。

「娘よ。目を覚まし、貴方を愛している人間の存在に気づきなさい。」

 すると娘は、今までの優しい顔が嘘のように強張り、ぐわっと牙を剥いた蛇のようになって叫んだ。

「汚らわしい! あんな山猿の事を仰るなんて! あの山猿は私を一度殺したのに!」

「あの青年は、本当に貴方を愛しているのです。それを貴方が受け入れるか受け入れないかは別に、その愛を信じる事が出来ないというのに、どうして神の愛が理解できましょう。…娘よ、貴方は勘違いしています。」

 ディディモは、背中をまっすぐ伸ばし、深呼吸をした。ディディモの脳天から伸びた、蜘蛛糸のような祈りが、ディディモを選んだメシアと繋がるのを確かめてから、答える。

「娘よ、貴方の見た光景は愛の無い地獄の風景です。貴方が心優しいと思った人々は、義の人ではありません。もしも義の人々ならば、彼等は義の人だけで集まらず、ダリット達の所へ行って、最後の一人がダリットでなくなるまで、戻ることはありません。」

「聖者様、それでは不公平です。真面目な人と不真面目な人が同じ結果だなんて。」

「では娘よ、貴方は一匹の蛇の鱗の一枚一枚の違いが見分けられますか?」

「いいえ、そんなことは無意味です。同じ一匹の蛇だからです。」

「その通り、無意味です。私達は神の前では、被造物という一匹の蛇、その一部である鱗に過ぎません。真面目だとか不真面目だとか、謙虚だとか傲慢だとか、貞淑だとか淫蕩だとか、どれも同じ鱗であることには変わりません。貴方はそれを理解していない。そして何より、貴方はメシアを感じていない。」

「いいえ、そんなことはありません。私は確かにメシアについて知っています。」

「ですが貴方は、先程こう言いました。「山猿」と。メシアの愛を理解していても、感じていないから、人を罵る事が出来るのです。人の欲を裁く事が出来るのです。娘よ、貴方も、私も、ここにいる私の弟子も、そしてあの青年も、メシアの前には等しい存在です。等しく愛され、等しくゆるされ、等しく裁かれる存在です。貴方はそれすら理解できていない。」

 娘は白蛇の瞳のように赤くなり、その肌は柘榴のように凝った色になっていく。ディディモは続けた。

「貴方が見たのは、神の反逆者のまやかしです。神の愛は、貴賤を説いません。神は愛で、神は普遍で、神はメシアだからです。メシアを知る者は神を知り、メシアを愛する者は神を愛し、メシアに倣うものは神に生きるのです。」

 娘はついに鼻を鳴らしてディディモに飛び掛かろうとした。妹子いもこがそれを抑えるが、ディディモの顔に唾棄し、大地が響くように叫んだ。

「この愚か者! 羊の皮を被った狼め、唯一神を間違えるだなんて!!」

「私を罵る事で貴方が神の愛に近づくのなら、一晩中貴方の話を聞いていても良いでしょう。ですが貴方は、誰に仕え、どう生きるか、自分で決める自由があります。…妹子いもこ、離して差し上げなさい。彼女が行きたいところに行けるように。」

 妹子いもこが渋々話すと、娘は金切り声をあげてディディモを罵りながら、宿を飛び出して行った。

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