第三十六節 書簡の二人

 もう間もなく雨季が来るという頃にもなると、初めの十二人の乞食の家は全て建てられた。十二人の乞食たちはもう、物乞いをしない。他の乞食たちの家を建てることで働いて給金を得て、市場で堂々と買い物をし、服を新調している。それでもまだまだ予算は残っている。

 そしてもう一つ。イシャには仕事が増えた。

 それは使用人たちに説教をすることだ。食事を運び終わり、王弟と妃が食事をしている僅かな時間、使用人たちは早々に仕事を切り上げて、瓶担ぎの部屋に集まり、イシャの説教を聞く。正直言って、信仰心が芽生えたとは言えない。まだ、異国の御伽草子を聞いているという感覚だろう。しかしそれでもいいと思っている。どんな形であれ、興味を持たないことには始まらないのだから。

 そしてイシャの話す内容も、大体決まっていた。メシアの行った数多の奇跡と説教を全て逐一覚えていない、というのもあるが、肝心な所を何度も何度も繰り返し説けば、自ずとその話の真意を汲み取ってくれると思っていたからだ。こと、山上の垂訓は、彼等にとって分かりやすいらしく、やれ復活だ奇跡だと話すよりも食いつきが良い。そうやって朝の務めが終わると、何人かの使用人と服を取り替えた、王弟と共に街へ出る。晩餐は、妃が新しい嫌味を思いついた時だけ、参加を許された。それ以外は一人自室で食べるが、時々王弟が妃の激しい情欲に耐え兼ねて逃げ込んでくることがあった。そんな日はこっそり厨房に行って酒を失敬し、晩酌に付き合い、妃が暴れ疲れて眠った頃合を見計らって、王弟も部屋に戻る。

 何も疾しいことなどない、平和な生活だった。それでも心に空いた大きな穴から、王弟の寵愛が零れ、滴り、消え失せていく。

 そんなある日の事だった。奴隷買いが血相を変えて、夜のイシャの部屋を訪れた。

「閣下、閣下! 手紙でございます。イスラエルと、それから国王陛下から!」

「ホント!? どうぞ入って頂戴。」

 イスラエルからの書簡は誰から送られた物だろうか。あの粗暴な兄が、御母堂を抱えて苦労しているとか、そんな話が書いてあるのだろうか。期待に胸が弾む。しかし一方で、遠征中の国王から手紙とは一体何だろうか。さっと書簡を広げてみたが、イシャには文字が読めなかった。そこで、出て行こうとする奴隷買いを呼び止めて、朗読を頼んだ。

「国王陛下からのお手紙の内容が見当もつかないから、そちらから読んで。」

「はい。えーっと…。」

 奴隷買いはさっと目を通して、若干目をひそめたが、イシャが期待して見ている事に気づき、渋々というより、恐る恐る読み上げた。


 イシャよ、けんであるか。余はたった今、パルティアは北、カブール川の畔にあるギリシア人の国を征服し、勝利の宴の余韻に浸っておる。この大陸の国全てを支配した暁には、そなたの建てたこの世で最も嬋娟にして尊い宮殿とやらでその風貌を睥睨すること所望して止まぬ。よくぞ遥か西の果てから来てくれた。余の士気が上がれば、兵士たちの士気も上がる。余らの勝利はそなたの尽力に寄るものである。帰国した暁には、そなたにも相応の褒美を取らせよう。

 しかし先だって、余の下に、そなたに託した硬貨が送られてきた。余の信頼している臣下の名前で送られてきた書簡には、『国賓は国王陛下に従われし、国民を固む故の宝をせんみんどもに打ち遣り、あまつさえ仕事しどけなく宮殿にて邪淫の相手を探ること忙し』とそなたを侮辱する旨の手紙が送られてきた。

 同時に、余の弟から、『国賓なるイシャは賢し大工にして、才人であり、既に嬋娟せんけんにして神さぶし宮殿の佇まいの見え始めるものなり。二年後の凱旋の折には確かに、この世で最も嬋娟せんけんにして神さぶし宮殿が完成することらし。国王陛下の益々のご健勝とパルティアの弥栄をお祈り申し上げる』との手紙も来た。

 余は余の信頼する弟の連れてきた、西一番の大工であるそなたを信じて大蔵大臣をそなたの下に付けたのだが、火のない所に煙は立たぬという物。一体何がどうなってこのような凶報が送られてくる次第になったのか、書に認め余を安心させよ。

 パルティア国王救世王。


「続いて、イスラエルからの手紙でございます。」


 イスラエル教会の兄弟、メシアに愛された弟子から、遥か東の果ての兄弟イシュへ。

 父と子と聖霊の愛が貴方の上に零れんばかりに注がれますように。

 私達の兄弟たちについてですが、既に喜びの内に神の下へ還られた兄弟がいます。彼等について述べることは、迫害の多い土地において、如何に彼等もまたメシアと同じように苦しみ、死を受容したかについて、健全な判断が出来ることと思います。

 まず、教会では、我々十二弟子達を宣教に専念させるべく、助祭が決められました。この助祭に初めて就いた者が、先だって石打の刑により殉教いたしました。しかし彼の弟弟子が、ダマスコでメシアの奇跡に出会い、今や彼は私達にとって欠かすことの出来ない、異邦人、特にギリシア人とローマ人への伝道者となりました。多くの手紙を記し、数多の教会を勇気づけています。パルティアに教会が出来た暁には、この伝道者がお金や信仰の手伝いをしてくれるはずです。

 次に、私の兄が殉教しました。エルサレム教会で、鍵を託された長弟子に並んで中心にいたのですが、時の王が反メシアを掲げ、教会のユダヤ人達を苦しめようと、私の兄を剣で殺しました。続いて長弟子も捉えられましたが、御使いが現れ、牢と鎖から解き放ってくださいました。

 私は兄の死を大変悲しみましたが、その日の夜、鳩の姿をした御使いが私の前に現れ、光の中で安らかに眠る、私の兄と助祭を始めとする、この道の為に死んだ者達の顔を見て、兄は確かな幸せの中で召し上げられたのだと確信し、悲しむことを止めました。

 このように私達が迫害に遭い、苦しみ、時にはメシアの意向を畏れ多くも勘繰ろうとする愚を諌めてくれるのが、私の母、即ちメシアの母君です。この方はいつも私たちの傍らに控え、御使いの言葉が私達に下るように祈りを捧げておられます。勿論、イシュ、貴方とて例外ではありません。誰よりも聖地から遠く、東の果てへ伝道に行った貴方を、どうして思わないでいられましょう。

 貴方にメシアの加護があるように、貴方を必要とする求道者に、貴方が巡り合えますように。

 そして何より、光の中に私達兄弟を見出せますように。

 メシアの恵みと平安が、貴方の上にありますように。アーメン。


「…以上でございます。」

「………………。」

「イシャ、奴隷買いを帰してやらなくちゃ。」

 イシュに言われて、イシャはハッと我に返った。

「どうもありがとう。この書簡は私が保管しておきます。もう帰っていいよ、お休み。」

「お休みなさいまし、閣下。」

 奴隷買いの足音が聞こえなくなるまで、イシャは堪えていたが、窓辺に立ち昏い新月の光を浴びると、その場に静かに崩れ落ちた。心配したイシュがその肩を強く抱きしめる。

「泣くな。二人とも幸せに逝ったんだ。」

「………。泣かないわ、坊やだって泣かなかったんだもの。それに、アイツらしい死に方よ。」

「そうだね。最後まで情熱に燃えてたんだろうさ。」

「ほんの少しの別れよ。悲しむことじゃ…ないわ。」

「そうだとも、ほんの少しの別れだ。ぼく達はすぐにまた会える。…それより早急に対処すべきは国王の方だ。」

「そうね。」

「だけど今日は疲れただろう。明日の朝、説教を終えたら、また奴隷買いに手紙を書いてもらおう。だから今日はもうお休み。」

「うん。」

 イシャは昏い部屋へと戻っていく。

 今まさに、己を食らわんと姦計かんけいを巡らす獣の口の中へ―――。

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