第三十五節 姦計の二人

 翌朝、食事が運ばれてこないので不思議に思い、使用人室に行くと、総勢悪霊でも見たかのように驚かれ、まともに相手をしてくれなかった。恐らく確実に殺せると踏んだ妃が先回りして、イシャの食事を作らせなかったのだろう。仕方がないので、朝食を食べ終わった頃を見計らって、王弟の部屋に向かった。念のため、昨日暗殺されそうになった証拠の毒矢も、布に包んで持って行く。

「何者ぞ。」

 王弟の声だ。

「ご機嫌麗しゅうございます、王弟殿下、妃殿下。イシャにございます。本日朝食を賜ることが出来ず、困っております。残飯で結構ですので、恵んでいただけないでしょうか。」

 中から妃の悲鳴が聞こえた。直ぐに扉が開けられる。王弟は驚いた表情をしていた。

「お前…。その額の十字の傷はどうしたのだ。」

 妃を見ると、まるで悪霊でも見たかのように怯えている。妃の姦計かんけいをここで王弟に暴露するのは簡単だが、無駄に夫婦の愛に波風を立てる必要もあるまい。最も、昨日の刺客が王弟とイシャの会話を盗み聞き、妃に伝えていたとしたら話は別だが、妃の様子を見る限り、そこまで出来た刺客ではなかったようだ。

「これでございますか? これはメシアより頂戴いたしました印にございます。」

「しるしとな。われには傷跡に見えるが。」

「王弟殿下、イスラエルの羊は大変頭の悪い家畜にございます。自分の帰るべき群が分からなくなった時、羊飼いはその羊の額の焼印の形を見て、どの群に属するのか判断するのです。同じように、これは私が帰るべき群を忘れないようにと、私の羊飼い、即ちメシアが下さった印にございます。」

「真か。」

「真に、真に、そうでございます。」

「…そうか。ならば良い。われらの残飯など、国賓が食すわけには行かぬ。…近衛兵、厨房に連れて行くがよい。われ自らの命ぞ、この者に朝食を与えよ。」

 近衛兵は困惑しながらも承諾し、イシャを厨房に案内しようとした。イシャが部屋から出ようとしたその時、妃が叫んだ。

「お待ちください、殿下!」

「何ぞ。」

「その者は本当に、国王陛下の国賓にございますか?」

「…何だと。」

 妃に向いている筈の、王弟の顔が歪むのを感じた。妃は立ち上がり、徐にイシャに近づくと、突然張り倒した。甲高い音がして、イシャはふらりと体勢を崩す。驚く王弟を横目に、ツンと妃は言ってのけた。

「失礼、悪霊の類かと思いましたの。どうやら身体のある人間の様ですわ。御免あそばせ。」

「妻よ、何故そのようなことをする。」

「今朝、わたくしの小間使いがおかしなことを申しましたの。昨夜、殿下を夢魔の類が誘惑していたと。その夢魔は、殺したはずなのに死ななかったと。…そしてその夢魔の姿は、そこの大工とそっくりであったと。」

 持ってきておいて良かった、と、イシャは隠さず、夕べ自分の額に突き刺さった毒矢を見せた。妃の顔が蒼白になる。

「妃殿下が仰っている夢魔が誰の事なのかは分かりかねますが、此処に人の頭の血を吸った毒矢がございます。しかしこの毒矢は、毒によっても、刃によっても、メシアの御意志により、その人を傷つけることは出来ませんでした。」

「その人物とはお前の事か。」

「申し訳ございません、王弟殿下。私は昨夜、脚の熱の所為で酷く疲れてしまい、あまり覚えていないのです。」

「………。」

 王弟は何か言いたそうにしていたが、最終的には何も言わず、厨房に行くように促した。近衛兵も、イシャと王弟と妃の間の居辛い雰囲気は察していたようで、道中何も言わず、厨房が見えるや否や、あそこが厨房だと無言のまま指差すと、さっさと持ち場に戻ってしまった。昼間、王弟がこっそりイシャと行動を共にし、貧しい民と一緒に汗を流している間、妃の鬱憤の矛先は近衛兵に向かっているのだろう。近衛兵達は皆が皆、イシャに対して良い印象を持っていないようだった。厨房に入ると、ここにも妃が根回しをしていたらしく、大層驚かれ、国賓に差し上げられるような食べ物は無くなってしまった、と、使用人頭が震えながら進言してきたので、使用人たちと同じ物を食べるというと、これまた驚かれた。

 流石に厨房で食べる訳にはいかなかったので、瓶担ぎの部屋で、瓶担ぎを始めとする他の使用人たちと一緒に食事をすることになった。出された粥をすすりながら、イシュはがしゃがしゃと頭を引っ掻いた。

「あー、むっかつくあのアマ! イシャ! 何であそこで、あの女に殺されかかったって言わなかったんだよ!」

「そりゃわたしだってあの女の差し金だって言ってやりたかったけど、そんな事言ったら王弟殿下がつまづくでしょうよ? わたし達、まずは王弟殿下に福音を伝える予定じゃん?」

「じゃん? じゃないよ! 女の嫉妬で殺されたくないって言ったのお前だろ!」

「うるさいわねえ、ご飯くらい静かに食べさせてよね。…御馳走様。」

 使用人頭がさっと器を持って行った。腹が減った、移動も億劫だと駄々を捏ねたとはいえ、国賓がよりにもよって使用人室で使用人と共に食事をしたなどと王弟に知られたら、彼等は打ち首に間違いない。早々に立ち去って欲しいというのが本音なのだろう。

 ところが、瓶担ぎだけは、じっとイシャの顔を見上げた。

「美味しかったよ。どうしたのそんな顔して。」

「閣下、閣下はいつもどのような事を訓示しておられるのですか?」

 瓶担ぎは恐る恐る尋ねた。

「訓示? 説教のことかしら。特に王弟殿下や妃殿下とはそんな話はしていないよ。」

「閣下、閣下のような御身分の方ですから、私共使用人と口を聞くのはお名前に泥を塗る事かと存じます。しかし今ここに、私と閣下の二人だけの間だけで結構ですので、私にも訓示をして頂きたく存じます。」

「ふうん…?」

 イシャは思わず顔が綻んだ。この瓶担ぎの少年の中には、確かに今聖霊が降りて、奇跡の足掛かりとなろうとしていると確信したからだ。

「構わないけれど、貴方だけでいいのかな?」

「私はお頭さまに沢山の仕事を命ぜられますので、記憶力には自信がございます。閣下のお手を煩わせることなく、他の使用人たちにお話を伝えることが出来ます。」

「ということは、私の話を聞きたい人間が他にも居るという事だね。」

 すると瓶担ぎはさっと青褪めうつむいた。イシャはくすくす笑って、その頬を挟み、上を向かせた。

「求める者に等しく与えるのが私の務め。でもこれから私は出かけなくてはならないから、明日の朝、王弟殿下と妃殿下に朝食を運んだ後、話を聞きたい者をこの部屋に集めなさい。」

「そ、それでは私共にも訓示をして頂けるのですか?」

 瓶担ぎが好奇心に瞳を輝かせる。その無邪気で探究心に富んだ笑顔は、何故か心に刺さった。イシャが頷くと、お願いします、と礼をして、瓶担ぎは仕事に戻った。


 今朝は妃の機嫌が悪かったので、王弟は今日の仕事には来られないだろうと思っていた。ところが一体どんな絡繰からくりを使ったのか、イシャよりも早く、乞食の身なりをした王弟が乞食たちと汗を流していた。しかも、周りの乞食たちよりも呑み込みが早い。一人で二人分くらいの働きはしている。この分だと、今働いている乞食たちの家は今日中に造れるだろう。

 日暮れ時になり、いつもの様に給金を貰う為に乞食たちが整列した。一人一人に、お疲れ様、と声をかけていたが、一人、作業中には見なかった青年がいた。

 働かざる者食うべからずとは言うが、この青年は、もしかしたら仕事をしている時間に間に合わなかったのかもしれない。何れにしろメシアがここに導いたのであれば、少しも働いていないからと給金を払わないのは良くないだろう。そう考えて、イシャは給金を払い、なるべく角が立たないように言った。

「明日の活躍を楽しみにしてるよ。」

「………。」

 青年は黙って賃金を受け取ると、イスラエルでのヘレニストを思い出すようなダッシュでその場から去り、暗渠へ消えて行った。

「親方ぁ、あいつ、昼間いませんでしたよね?」

 すぐ後ろに並んでいた乞食が不思議そうに尋ねてきた。

「そうだったかしら。でも彼も彼なりに働いていたのかもしれないし、仕事の出来不出来で給金を決めてはいないからね。はい、貴方の分。」

「ならいいんですが…。親方、誰かに恨みを買われたりしないでくだせえよ。」

 一瞬妃の歪んだ醜い顔が過ぎったが、はいはい、とイシャは笑って、次の乞食に賃金を与えた。

 妃には何れ筋を通して話をしなければならないだろうが、今彼女の中では嫉妬の炎が逆巻いている。かつてのエジプト王が、神の計らいの内に心を頑なにされたのと同じように、妃にはもう少し時が必要だ。妃に福音を伝えるべき時、それは妃が自分から、イシャに問いかけて来る時だ。それまでは、行動で示す以外に伝道手段はない。このパルティアという特殊な異教の地で、彼等の信仰心を踏みにじらず、真の愛の炎に燃える方を伝道するには、それが一番良い方法なのだ。

「イシャよ、話がある。後で街外れまで連れていけ。」

 最後に王弟に賃金を払おうとすると、王弟が耳元で囁いた。思わず顔が赤くなる。するとそれを見ていた子供が、大声を上げた。

「おっさんずりぃぞ! ボクだって親方にぎゅーってしたい!」

「こらこら、そんなことを言うもんじゃないよ。好きなだけ甘えて良いのだから。」

「わーい!」

 子供は泥だらけの服のまま飛びつき、頬を摺り寄せて嬉しそうに笑った。イシャも子供の頭を撫でて、額に接吻をしてやると、子供は額を押さえ、くるくる踊った。

 もし自分に子供がいたら、こんなことが出来るのだろうか。

 子供の無邪気さは、イシャに複雑なとげを突き刺す。いつもそうだ。石女のままで良いからイシャには子供が与えられない、そう解釈している。それでもメシア御自らの言葉ではない分、不安と淋しさと嫉妬が舞い上がるのだ。

 子供に明日の分の抱擁と接吻を約束して見送った後、イシャは王弟に言われた通り、離宮とは正反対の方向の、全く知らない荒野に赴いた。足の赴くままに歩いていただけだが、この荒野は祈りに最適な場所だ。離宮と違って、静寂で何もない。覚えておこう、と頭の隅に置いておいて、イシャは向き直った。

「殿下、如何なされましたか?」

「今日、給金を支払ったとき、一人多くなかったか。」

「はい。確かに一人おりましたが、メシアの導きにより給金を貰いに来たと思いましたので、給金を与えた次第です。」

「あの者を、われは宮殿で見たことがある。」

 言っている意味が分からない。あの乞食も、誰か貴族の成りすました姿だというのだろうか。

「スーレーン氏族に仕えるイヌぞ。」

「犬?」

「有態に言えば密偵だ。」

「密偵? 何故そのような御方が給金をお求めに? 豊富な給金を与えているのでは?」

 すると王弟は苦虫を噛み潰したような顔になり、溜息を吐いた。

「恐らく………。妻が放った者だ。」

「妃殿下が?」

「イシャ、気を引き締め、われの傍を離れるでない。あの者が本当に妻の密偵であれば、妻は―――。」

「殿下。」

 そこから先を言わせる訳には行かなかった。イシャはぴとりと王弟の唇に人差し指を当てた。

「義に生きる者は迫害されるもの。妃殿下を責めてはなりません。あの方は私を迫害することで、私が炎にくべられた金のように精錬されるよう、メシアがお示しになられ―――。」

 すると、いきなり王弟が頬を張った。驚いて言葉が出なくなる。王弟は眉をひそめながらも、優しくイシャを胸に抱きしめた。

「そのようなやけっぱちな態度を取るな。何故吾われの、お前が平穏に勤めを果たせるようにという願いを退ける。そうまでしてわれの意思を否定することが、お前の神の本意なのか。」

「で、殿下! 違います、とにかくお放し下さい、それこそ密偵にでも見られたりしたら…。」

 とんとんと胸を叩いて、違う違うと否定の意思を示すと、王弟は少し落ち着いたのか、拘束にも近かった抱擁を解いた。王弟の瞳は曇り、心がすすり泣いているのがよく分かる。

「殿下、私が申し上げたいのは、殿下が妃殿下を責めてはならないという事にございます。憎しみも無関心も、メシアはお嫌いになります。そのような感情を抱いている間は、神と繋がっていることは出来ないのです。」

「………お前が苦しみ、悲しみ、嘆く姿を黙って見ていよと申すか。」

「殿下、それは違います。」

 イシャはそう言って、自分の頬を摘まみ、ぐいっと左右に開いた。口が間抜けに広がり、ぱっと手を離せば頬が弾み、抓った場所が赤くなる。

「この通り、私は痛みも苦しみも悲しみも経験します。しかしメシアは、それこそが神の前に正しいことであると仰っているのです。私は確かに痛い思いも苦しい思いも、出来ればしたくありませんが、メシアはそれを神への供物として喜びとするように仰ったのです。」

「………。性格の悪い神よな。」

 イシャはその皮肉っぽい言い回しに笑まずにはいられなかった。

「ふふっ、どこの神にも勝って、完全なる人であり、神であります故に。」

「よく分からぬ神だな。続きは離宮で聞く事にしよう。帰るぞ。」

「はい、殿下。」

 夕日が地平線に沈みきった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る