第三十四節 下弦の二人

 王弟は黙ったまま、離宮の裏の川へイシャを連れると、火傷した脚を川に浸させた。殺す気はないようだし、怒っているような気もしない。ただ、イシャが知る限り最も深刻そうな顔をしていた。何か大きな決意をしているような―――いや、何か躊躇っているのか…。

「脚は痛むか。」

「いえ、大丈夫でございます。…それより殿下、妃殿下の所へは…。」

「今あれの話をするな。」

 ぴしゃりと言われた。機嫌が悪い、というよりも、具合が悪い、と言った方が近いかも知れない。何か話題を選んでいるらしい。ちょろちょろとか細いせせらぎを聞きながら、王弟の言葉を待つ。

われが姪をめとったのは、四十ヶ月ほど前でな。国王陛下は、二人目を―――跡を継がせる男子を望まなんだ。それで同じ魂を分けたわれが、国王陛下の世継ぎを、国王陛下の娘に産ませる為にめとった。」

「………。」

「四十ヶ月も子を授かりたいと祈っているが、一向にその兆しがない。あれもあれで焦っているのだ。そこへお前が来た。本心は興味があっても、素直に慣れぬ年頃よ。」

「私にも同じような時期がございました。」

「そうであろう。………。」

 王弟は何か言いかけたが、不意に顔を背けた。やはり何か大きな悩みがあるのだろう。王弟はその視線のまま、川面の月を眺めた。月は細く、イシャの脚に遮られて折れる。

「そういえば…。われはお前の事を何も知らぬな。」

「と、いいますと?」

「お前の素顔を―――われは何も知らぬ。」

 初めに国王の前で述べた以上の事を求められている。だが何故それを求めるのだ。一介の家臣ですらない、遠い国から来た外国人の平民に何故興味を持つのだ。

「殿下は何をお知りになりたいのですか?」

「………。われはあまり、家族に良い思い出がない。お前の家族はどうだ。心地よい関係か。」

「………………。」

 嘘を吐く必要はなかった。だがかといって、本当の事を言いたくもなかった。

 己の今の幸福は、平安は、全て坊やの涙の上に立っていることを、忘れたことなど無いのだから。

「郷土に母と、兄や姉がございますし、伴侶も居りますが、あまり交流を楽しんだりする関係ではございません。」

「仲が悪いのか。」

「仲が悪い…。というより、私に興味がないのでございます。」

「興味がない。」

「私は跡継ぎでもなければ、外へ出す子供でもなく、父から生業を受け継いだわけでもなかったので…。それに―――わたしにはイシュがいましたから。」

 王弟は不思議そうな顔をした。

「イシュだけがわたしに興味を持ってくれるのです。だからわたしも、イシュにだけ興味を持っていればよかったのです。」

「…何を言っているのだ。」

「そのままの意味です。本当ならイシュのことですから、こうして二人きり、殿方と過ごすことも許さないでしょう。」

「ではなぜ今お前はここにいる。」

「イシュが眠っているからです、殿下。イシュが眠っている時だけ、わたしはわたし一人に戻るのです。」

 細い月明かりには浮かばないくらいの微かな笑みを浮かべ、イシャは笑った。その頬を反射させるだけの光を、下弦の月は持っていなかった。イシャがもう少し、掌半分程の勇気を出すには、その闇は余りにも静かすぎる。消え入りそうな王弟の輪郭を捉えることだけが、その時のイシャの精一杯だった。

 しかし、王弟はその巨大な弓の弦を引き絞る大きな掌一つ分、イシャに近づくと肩に手を置き、夜の静寂に隠す様に静かに囁いた。

「イシャ、われの近習になる気はないか。」

「…は?」

「二年後帰省した国王陛下の、お住まいになる宮殿を竣工するつもりなどないのだろう。」

 イシャはクスリと笑った。

「バレていましたか。しかしながら殿下、確実に、天にて宮殿は建立されていますので、ご安心なされませ。そこには皆様の崇拝する火より、遥かに優れ美しい火の天使がおります。」

われは天の宮殿ではなく―――この地上の宮殿で、お前を傍に置いておきたいのだ。」

「………。」

 イシャは少し考えた。ここで頷けば、恐らく妃は不幸になる。

 坊やの心をズタズタにして今の安寧を受けているイシャが、更に誰かを虐げて幸福を得るなど許される訳がない。ユダヤの基準で言えば、近親婚をしている王弟とその妃は裁かれるべきであり、健全な関係として離れるべきだ。だがそれが罪でないという基準の中に生まれ、育ち、そのように定められた二人を何故責めることが出来るだろうか。この国が悪徳の国であるわけではない。ただ、ユダヤから見ればこの国の基準は合わない、それだけのことだ。イシャに、妃の幸福を壊す資格はない。大体、メシアが望んでいる告解は、そんなチンケなものではないと、何より分かっている。

「それは―――わたしにイシュを殺せということでしょうか。」

「…なんだと。」

「わたしが一人の人間として誰かのお傍にお付きし、その方のお心に従う事、それ即ちわたしの主人であるイシュを殺すことにございます。」

「…お前は何を言っているのだ。」

「そのままの意味にございます、殿下。…殿下、殿下はわたしに、イシュを殺せとお命じになりますか?」

 その言葉に、今まで眠っていたイシュが眼を開いた。じっと陰から此方を見据えている。

「なればそのご命令に、わたしは従います。しかしそれによって、間違いなく妃殿下のお心から平穏は取り除かれるでしょう。さすれば御岳父であらせられます国王陛下の怒りは免れますまい。」

 遠目でも、イシュが大きく頷いているのが分かった。

「…殿下、わたしは一介の大工にございます。宮殿を建て終えれば、次の土地に行って、宮殿に入る神の子等の為の、この世の住まいを建てなくてはなりません。わたしはこの国にずっと居る訳ではないのです。そのような者に、殿下への永遠の忠誠を伺おうなどと、お思い召されない事です。」

 王弟は豆鉄砲でも食らったかのような顔をして、イシャを見つめた。奇天烈な人間に見えているのだろうか。

 それならそれでもいい。自分のような下賤な罪人の人間の住む世界に、このような高貴な人を引きずり下ろす必要などない。

「………。分かった。早まったようだな、今宵はわれの負けだ。…だがわれはこのパルティアの第二位ぞ。王位以外であれば望むもの全て手に入る。…お前もまた然り、だ。…帰るぞ。」

 王弟が再び抱き上げようとしたので、イシャはその胸に手を置いて制した。

「大丈夫です、殿下。もう少し脚を冷やしてから帰ります。今宵は冷えますので、お先にお帰り下さい。」

「道は分かるか。」

「はい。」

「では先に帰る。冷やしすぎないようにな。」

「はい、お休みなさいませ、殿下。」

 王弟が身を翻し、完全に夜の帳の中に吸い込まれたのを確認して、イシャは前を向き直り、川の中に飛び込んだ。座っていた場所に、無数の矢が飛んでくる。潜水して一度息継ぎの為に浮上すると、額に一本の矢が突き刺さった。

「痛いっ!」

 突き刺さった場所から血が凍っていく。強力な毒が塗ってあるのだろう。

「おい、大丈夫か?」

 イシュが暢気に岸辺から見下ろしてくる。イシャは毒づいた。

「大丈夫な訳ないでしょ。」

「それ、多分羽根にまでも毒塗ってあるぞ。」

「大方妃殿下が嫉妬したのね。あーあ、傷がついちゃうじゃないの。」

 矢を抜くと、ぐちゅりと傷が塞がる音がした。それと同時に、情けない男の悲鳴と、草を踏み分ける音。今晩の逢瀬の事を妃に報告してもしなくても、彼等は恐らく首を刎ねられるだろう。王弟と逢引をしていたばかりか頭を毒矢で射っても死にませんでした、なんて報告を聞いた妃がどんな反応をするか、想像に難くない。

「さてと、彼等より先に、妃殿下に会いに行かなくちゃね。起きてるらしいから。」

「大丈夫か? 多分王弟殿下といるぞ。」

「正直複雑だけど、わたしの命が長らえたということは、メシアは何かお望みなのでしょ? ならそれを果たしに行かなくちゃね。わたしだって、わたしの所為で何にも知らない男が死んじゃうのは目覚めが悪いもん。」

「ならいいけど…。イシャお前、あの二人が情交セックスしてても大丈夫なんだろうな。吐いたりしない?」

「それならそれでいいわ。明日の朝一番に妃殿下にお目通り願って、額の傷を見せて彼らが嘘を吐いていない事を報告すればいいんだもの。」

 証拠になる毒矢を抱えて、イシャは離宮に戻った。イシュの考え通り、二人は夫婦の責務を行っていたので、イシャはふらつきながらも自分の部屋に戻り、明日の朝に備えた。

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