第二十四節 暁闇の二人

 三日前、愚かな男が死んだ。

 男は逞しかった。男は正しかった。男は常に、神と共に在った。神は男と共に在り、男によらずに救われた者はいなかった。

 彼の愛を、社会は認めず、死罪を言い渡した。

 パチパチと音がする。ゲヘナの炎だろうか。否、ゲヘナの炎が弾ける音がこんなに小さい筈がない。重たい瞼を開くと、焚火の炎の向こうに、中年の男が座っていた。何故か全裸で。腕の中に、白い鳩が、火に怯える訳でもなく、心地よさそうに眠っている。

「ああ、気が付いたんだね。気分はどう?」

「ここは…。」

「ヨルダン川の下流だよ。君が溺れているのを見つけてね、勝手だけど引き揚げさせてもらったよ。」

「まさか…。死んだはずじゃ…。」

「息を吹き返したから、今君が私と話しているんだろう?」

 深い後悔と罪悪感と、怒りがこみ上げた。

「何故余計な事を!」

「余計な事かどうかは、貴方の主人が知っている。上着を着て、この鳩の飛ぶ方へ行きなさい。」

「アンタ、預言者?」

「まあ、似たようなものだね。私は神の言葉を為す者だから。」

 中年男は微笑んでいた。腹に傷がある。元兵隊だろうか。よく見ると、全身に打撲や切り傷がある。通信兵だったのだろうか、まるで拷問の跡の様だった。

「アンタ、服はどうしたんだ。」

「ああ、ここに来る途中で剥ぎ取られてしまってね。」

「そう。私は下着があればいいから、訳ありで汚れてるけど、上着はアンタにやるよ。いくら男でも全裸は駄目だ。乞食じゃあるまいし。」

 そう言って、イシュは下着を取り身に付けた。火にあたっていたからか、衣は温かい。中年男はイシュから血塗れの上着を受け取ると、腕の中の鳩を放ち、他に行く場所があるからと言ってその場を去った。鳩は、中年男とは正反対の方向へ飛んでいく。

 別に中年男の言う事に従わなくても良かったのだが、鳩はイシュがついてこないと気づくと、傍の枝にとまってこちらを見る。まるで、本当に道案内でもするかのように。どうせ大罪により直ぐに殺される命だ。それまでの余興とでも思って、付き合ってやろう。そう思って、イシュは鳩を追いかけた。

 それにしてもこの鳩は、実に美しい鳩だ。まるで自身が輝いているかのように白く、くすみがない。市場で売られている傷のない山鳩だって、こんなに美しくはないし、もしかしたら、およそこの美しい白さを表現しうるものは、この地上にないかも知れない。それくらいに美しい鳩だった。真に美しいものは、唯『美しい』としか言えないのだと思った。どう美しいのか説明しろ、と言われれば、『見ろ』としか言えない。

 あの中年男は本当に預言者なのかもしれない。だから神から遣わされたかのように白い鳩を、その腕に抱いていたのだろう。鳩はイシュが走ればそれだけ早く、疲れて歩けばそれだけ遅く飛んで行った。歩くのも疲れて座り込んだときは、まるで女が男にするように寄り添って来て、すぐ隣で羽を休めた。

「お前、綺麗だな。」

 言葉が通じない筈なのに、イシュがそう語りかけると、鳩はこちらを見上げた。そしてイシュの脚の上に乗り、無防備にも首を身体の中に埋めて休む。何だか可愛らしくなって、鳩を抱いて頭を撫でてやると、鳩は心地よさそうに震えた。鳥の高い体温が、ヨルダン川で冷たく凍えたイシュの心をも温める。

「死ぬ前に、坊やと兄貴に一発ぶん殴られないとな……。」

 死んでも死にきれないや、と言外に言うと、鳩はこちらを見上げて、ちょんちょんと胸を突いた。

「何だお前、ぼくの言葉がわかるのか?」

 肯定か否定か分からないが、鳩は再び、ちょんちょんと胸を突いた。可愛いともくすぐったいとも思わない。ただ、これから待ち受けるであろう惨憺たる処刑の前に、神すらも見放したこの罪の前に、余りにも憐れに思った奇特な一人の天使が、姿を変えて現れたのかもしれない。

「行こうか。」

 そう言うと、鳩は星のように羽ばたき、明るくなり始めた東の方へイシュを歩かせた。


 日が登り切った頃、イシュは遠くに一つの小屋を見つけた。乞食が住むには立派で、ユダヤ人が住むには質素、というよりみすぼらしい建物。そのくせ、この暑いのに窓という窓を閉め切っている。きっと今あの小屋には、穢れに犯された女がいるのだろう、と思った。

 ところが鳩は、その建物の方へと飛んでいくばかりか、そこで、雲間から射す光の中へ消えて行ってしまった。どうしようと考えていると、突然扉が開き、男が走って来た。今誰か人に会うのは嫌だった。かといって、隠れる木陰すらない。そうこうしている内に、男は、顔が見えるくらいにまで近づいてきた。

「あ…。」

「イシュ!! よかった、無事だったんだな。俺様が戻った時、弟しかいなくて、お前だけ殺されちまったんじゃないかって…!!」

 兄は泣いていた。弟を凌辱されたからではない。イシュが生きていたからだ。イシュが生きて、帰って来たから。

 てっきり打ち殺されると思っていた。それだけに驚いて、何も言えなかった。

 さあ行こう、良い知らせがある、お前は運が悪かった、皆無事だよ、勿論女たちもだ、ここにはいないけどな、会計士以外の高弟十人皆が皆無事さ。

 兄が何か言っている。だがそんな言葉の羅列に一体どんな意味があるというのだ。もうこの身体は罪を犯して殺されるというのに。兄がこんなにも嬉しそうなのは、恐らく坊やが何も話していないからだ。坊やは自分が行ったら、きっと怯えるだろう。叫ぶだろう。震えるだろう。そうすればだれでも怪しむ。一体何を怯えるのか、そう言うだろう。誰かが言うだろう。その時坊やは何と答える? イシャの罪を十一人の前で暴くのだ! そうしたらどうなる? この小屋は血の幕屋と化す!

「行けない…。」

「あ?」

「行けないよ…。ぼく、この小屋には入れない。」

「何言ってんだ。そんなことよりすっげぇ報せが―――。」

「クソ兄貴何してんだよ!」

 その時、一番合わす顔が無かった坊やが、扉を蹴り開けてずかずかと歩いてきた。目は勿論、身体を見る事すら出来ない。イシュが身体を反らすと、坊やは回り込んできて、無理矢理視線を合わせた。

 そして、にこっと笑って見せたのだ。

「お帰り! イシュ! 皆待ってるぜ! 早く来いよ!」

「坊や…。」

「ビックリしたんだぜ? 起きたらいなくなってんだもんよ! ローマ兵に連れてかれたんじゃないかって、この三日間気が気でなかったさ。」

 覚えて―――いない?

 この子は、自分が凌辱されたことを覚えていない? まさか、そんな筈はない。あんなにも怯え、震え、嫌がっていたのだ。まして坊やにとって、イシャに辱められたなんてことは、秘匿したい屈辱などではない筈だ。例え不正な裁判で自分をも殺されることになったとしても、イシャには厳罰を望むはずだし、その主人であるイシュにも同様の裁きを望むだろう。

 否、覚えている。坊やの目線が、初めの一回しかない。それなのに背中は見せない。明らかに警戒されている。しかし小屋の中に入った途端、残りの八人の弟子たちが飛びついて喜んだ。イシュの犯した大罪には目もくれず、滅茶苦茶に喋り出す。余程何か言いたいことがあるらしい。イシュの心に小石ほどの不安を沈めて、裁きが下る僅かな時間、仲間と語り合うことになった。

「それで、良い知らせとは?」

 一度場を鎮めて、イシュが聞き直す。

「ラビが現れたんだよ!」

 禿岩が叫んだ。こいつ、とうとう頭がおかしくなったらしい。

「は?」

「兄さんの言ってることは本当です。娘を祝福された女や、彼女について行った女たちが、天使を見たんです。」

「はあ?」

「墓の中はもぬけの殻さ! 布だけが残ってたんだってよ! ローマ兵や律法学者なんかは、僕たちが岩を動かして盗んだと思って躍起になってるよ。ヒッヒヒヒン! ラビはもう服を身に着けて出歩いてるってのに!」

「そんな馬鹿な。ぼくは、あの時ゴルゴダで確かにラビがお隠れになっていたのを、確かにこの瞳で見たんだぞ。その後、服なんか着せずに、布でぐるぐる巻きにして墓に葬ってたじゃないか。大体布だけ残ってたってことは全裸じゃないか。そんな不審者、すぐに見つかるぞ。」

「でもイシュ、オレもラビに会ったんだぜ。」

「俺様もだ。俺様と弟は他の弟子とは違って、ガキん時からの付き合いだ。見間違う筈もない。」

「僕の獲った魚焼いて食べたんだぞ。」

「兄さんのだけじゃない、他の元漁師の獲って来た魚も皆と一緒にお召し上がりになりました。その時の骨も、ほら。」

「お前たちの誰かが焼いてつまみ食いしたんじゃないのか?」

「だーかーらー! 目の前で一緒に食ったんだッつの!」

 弟子たちは次々に、イシュにラビがどんなことをしていたのか、またしても無茶苦茶に語ったが、イシュはどれも聞こえなかった。否、聞き取れなかったというべきだろうか。在り得ない現象を在り得ると理解して受容することは難しいものだ。

 まして今のイシュは、ラビに顔向けできる存在ではない。出来るなら、ラビにはこのままお隠れになって戴いてほしい。そんな思いも少なからずあった。尊敬していたラビに顔を背けられるくらいなら、これから何百年と先の新しい救世主を待っていた方がいい。


 それから七日が過ぎた。しかし、未だに弟子たちは同じことをずっと吼え続けている。何故信じない、何故疑う、と非難してくるものもいれば、只管只管同じ話を堂々巡りで続けている弟子もいた。ずっと無視を決め込んで、その熱っぽい口調に関わらない坊やを観察していたが、坊やは坊やで、自分が視られていることに気付くと、それとなく身を隠していた。やはり、確実に覚えている。覚えているにも関わらず、何故か坊やはこの七日間、自分への凌辱を口にすることは勿論、他の誰かと喋る事すらしなかった。

 八日目、遂に頭に来て、机をバンと叩き、啖呵を切った。

「とにかく、だ! ぼくはそんな与太話に興味はないね! お前たちが見たっていうラビが、先ずどこでパンツと上着を仕入れたのかすら、分からないんだから! 見えたものすべて信じるなんて、愚か者のすることだ。傷がきちんとあるかどうかだって触ってりゃしない、そんな得体のしれない悪霊かもしれない奴のことなんか、信じるもんか!」

「じゃ、お前は触ったら信じるの?」

「そりゃそうだ。悪霊なら触れないし、ラビの傷の位置はちゃんと覚えてるんだから。」

「じゃ、触ってごらんよ。」

 ……………。

 驚いて振り向くと、一体いつの間に入って来たのか、ラビがいた。驚きすぎて声も出ない。暫く固まった後、はっと身体の感覚が戻ってきて、大声で悲鳴を上げて丈夫の身体の陰に隠れた。

「怖がらなくても良い、私だよ。ほら、触ってごらん。」

 す、と手が差し伸べられる。その手首から手の中心にかけて、引き裂かれた巨大な穴が開いている。痛々しいその傷は、手首に打ちつけられた傷が、体重によって、骨と肉とを引き裂いて広がって行ったことを意味している。上着は血に塗れている。腹の傷の為だろうか?

「ほら、おいで。」

「…………。」

 そっと手を伸ばす。指先が震えて、汗が滲んだ。もう少しで指先が傷口に触れるという時、腕を天使ががしりと掴んだ。

 触れるな。この方は清い方だ。穢れたお前が触れて良い方ではない。

 その声に驚いて、腕をひっこめ、丈夫の後ろで小さくなる。そこから震えて動けなくなっていると、突然丈夫がその場を退いて、自分とラビらしき男の間に遮蔽物がなくなった。それでも眼を反らしていると、向こうが近づいてきた。後ろは弟子たちが密集していて、逃れられない。

「まだ、上着のお礼を言っていなかったね。」

「?」

「上着。人に渡したでしょ?」

「え…何でそれを…。」

 確かに鳩を使いに寄越した預言者に、上着をあげた。しかし、ラビらしきこの男は、何故それを知っているのだろう?

「触ってごらん。それで全て分かるから。何も恐れることはない。私と繋がっているのだから。」

 今度は先ほどよりもずっと近い場所で、生々しい傷を見せられた。少しでも手を持ち上げれば、触ってしまいそうな位置。けれども、それでも躊躇っていると、ラビは溜息を吐いて、無理矢理自分に傷を触らせた。

「………。ラビ、その服………。」

 まるで常闇の盲人が光を与えられたような、不思議な感覚だった。二の句が告げないでいると、ラビは微笑んで、その手をひきよせ、かつて刃物を呑みこんだ穴に手を入れさせた。指先に、小さな切り傷が触れる。

「ら、び………。」

「なに?」

「ラビ…。ラビ…ラビ! ラビ!!」

 どうして気が付かなかったのだろう。

 水底に沈む人間が仮に生きていたとしても、男一人で引き上げられるのなら、岩なぞ抱く必要はなかった。

 言葉一つで岩を退かせて息吹を司る方が、臓腑ぞうふが止まり、水に満ちた胸から水が出て行くように命じたから、呼吸が出来るようになったのだ。そうでなければ、突き破った腹を満たした水も血も無くなっている筈がない。ただ一言、岩に退け、水に退け、臓腑ぞうふに動け、血に巡れと命じることの出来る方がいたからなのだ。

 そして預言者は鳩を渡した。かつて方舟の老人がそうだったように、白い鳩が陸地を見つけるように、行くべき道を示したのだ。そこにある恵みを受けるように。

 今のラビからは、何の怒りも悲しみも感じられない。懺悔する間もなく泣き崩れる背中を摩り、他の弟子たちには聞こえないように、そっと耳打ちした。

「神はイシャをそのように創られた。だからお前は、何も恥じることはない。寧ろお前という存在によって神の栄光が表される事を喜びなさい。」

 イシュは顔を上げた。とめどなく溢れる涙が、ラビの足先を濡らす。

「はい、ラビ―――いいえ、我がメシア《救い主》、我が神よ、貴方のお言葉の通りに。」

 かつて罪深い女がしたように、イシュは涙に濡れたラビの爪先を指で拭った。布を持っていなかったからだ。ラビはその頭を撫でて、十一人に向けて言った。

「これから起こることを見ずに信じる者は幸せ者です。貴方方に種々の祝福があるように。」


 それからメシアは、ガリラヤの山へ弟子達を導いた。メシアはそこで、最後の言葉を告げた。

「これらの幸福な報せ―――福音を、世界中へ行って、広めなさい。私が貴方方を愛したように、貴方方もその土地の人々を愛しなさい。私の名において行われる全ての事柄には、私と父と聖霊の祝福があります。何も恐れることはありません。その信仰の故に、貴方方は例え毒を飲まされても死ぬことはありません。」

 各々が頷き、微笑み、喜んだのを見て、ラビは言った。

「私はいつも貴方方と共にいる。努々忘れないように。」

 それが、メシアの最後の愛の言葉だった。メシアは、イシャの犯した罪を咎めなかった。

【続 第二部 双子の王】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る