第二十三節 常闇の二人

 羊飼いを亡くしてから、ずっと考えていたことだった。口が悪い無邪気なこの子を、胎の中に抱きしめてしまいたいと。イシュがいて、ラビがいて、世界に希望がある限り、それは叶わない事だと思っていた。妻になる女を定めている坊やに姦淫の罪を犯させるわけにはいかなかった。イシャとて、愛した人の行く末を案じない程自分勝手な人間ではない。そこまで愚かだとは自負していない。もしこの先、光ある世界が広がっていて、坊やにも明るい未来があるのであれば、イシャは今までと同じように、木陰から見つめる事すらせず、イシュの身体に包まれたまま、心の中で坊やを懸想するだけに終わっていた。けれどもラビという常世の太陽が洛星し、大地がその裂け目から悲鳴を上げ、空が泣いた今をこの世の終わりでないとしたら、一体何が終わりの徴となるだろうか。王の中の王たるラビの死は、この世の死だ。この世の主亡き今、一体どうして、自分たちの行く末が明るいものだと信じられるだろうか。

 それならば神の裁きがイシュとイシャを分かつ前に、イシャだけが裁きの炎で、ゲヘナで焼き尽くされる前に、イシャという女の心が、確かに坊やを求めたのだと言う証を遺したい。例えそれが、イシュを裏切り、神の定めた律法により、『女』という低俗な存在が『イスラエルの男』という高尚な存在の禁域を犯すことになってもだ。

 坊やを傷つけることは分かっている。心に永遠に刻まれる傷を作ることが、決して愛ではないと分かっている。

 しかしそれを理解出来るのであれば、たった一人愛する事すら許されないイシャの心とて理解してほしい。それは我儘だろうか。イシャが、一人の女が、たった一人の男を懸想することは、我儘だろうか。我儘だというのなら、恋を求め愛を彷徨うイシャに、どう生きろというのか。答えは返って来るのか。女が男を求め、その子を胎みたいと思うのは、罪なのか。男は跡継ぎを求めても良いのに?

 解答などない。誰もイシャのような人生を強いられたことはなかった。強いられた者達は、絶望から皆死んでいった。答えの用意できない者に、曲がった形であれど答えを用意した者を。非難する権利を、一体誰が与えたのか。その者は神の預言者にでもなったつもりなのだろう。己の都合のいい解釈ばかりを選択し、不都合な解釈は切って捨てる。そんな輩は五万といる。

 イシャにとって、男を愛すると言うのは、女が男に服従するのと同じように当たり前の事なのだ。ただ他の女とイシャに違いがあるとすれば、イシャはイシュの奴隷で、イシュの所有物で、イシュはイシャが男を愛することを良しとしなかったことだ。それでいながら、イシャは子供が産めなかった。イシュに子供を抱かせることは出来なかった。イシャという女が、イシュの妻との間柄を妨げていた事もあるし、何よりイシャはうまずめからだ。

「坊や…。大丈夫だから。」

「んーーー! んんーーーー!!」

 両手を握られて、後退も出来ないと言うのに、坊やは声を裏返して暴れる。それは暴れるというよりも、悲鳴に近かった。婚約者と契りを結ぶ前に、誰かの所有物になる。男としてこれ程屈辱的な事は無かった。否、それよりも、仲間だと信じてきた相手が、異教の神殿娼婦の真似をすること自体、信じたくなかったのだろう。

 坊やが泣いても、イシャは手を止めなかった。寧ろ坊やが嫌がれば嫌がるほど、焦がれつづけたたった一夜の願いが叶ったのだと、そう実感して、イシャの心は、罪悪感と嫌悪感と多幸感で満たされた。

 ああ、今、恋が実ったのだと。

 愛ではなく、恋が実ったのだと。愛すれば愛するほど、実らせてはならなかった恋が、わたし自身の、わたしの為の恋が実ったのだと。そしてその裁きは間もなく訪れるのだと。それは安堵に近かった。漸くわたしの役目も終わる。わたしは解放される。イシュというくびきから解放される。私は―――ただの女になれる。ただの罪深い売女と罵られながら、永遠に魂を殺される罰の予感は、甘露な響きを溢して、イシャの全身を震わせた。

 ああ、嬉しい、悲しい、嬉しい、悲しい。恋しい、恋しい、愛したい、愛したい、ああでも、こんな風に強姦じみた方法でしか貴方を愛せないなんて!

 坊やの今にも折れそうな、か細い芯を胎の中に抱いた時、坊やはもう諦めたのか、体力も尽きたのか、ぐったりとして、涙を流すだけになっていた。それでもイシャは、通じてないと分かっていながらも、愛を囁き続けた。その言葉が、余計坊やの心を傷つけると分かっている。でも、もうこの恋が実ってしまったら、止められないし、止まらない。

 まるで棕櫚の枝のように細い芯を締め上げて、微々たる振動を感じ取った。男だから、芯に触れられたらどうするかなんて決まっている。そう割り切っている筈なのに、それでも寂しいとイシャの心が泣き叫ぶ。

 貴方に愛されたい。愛していると言ってほしい。こんな姦通まがいの契りではなく、神に断罪されても良いと言うくらいに抱きしめて愛してほしい。そう、かつてのあの羊飼いのように。

「ごめんね、坊や…。でも、貴方を愛している事に、嘘はないから。」

「………………。」

「坊や、もう、大丈夫。口、もう噛まないようにする必要ないから、轡を取るよ。苦しくなくなるからね。」

 猿轡さるぐつわ代わりにしていた布を取り払っても、坊やは舌を噛み切る事すらしなかった。ぼうっとした濁った眼は、どことも分からない場所を見ている。否、実際は何も視えていないのかもしれない。坊やの苦しみの濁りがイシャの胎を満たし、イシャは漸く身を別った。終わった、もう大丈夫、怖いことは何もない、と、坊やの唇に角度を変えて口づけをし、その魂を呼び戻す。だが、坊やは目を開いたまま、死んでいるかのように動かなかった。どろり、と、咥内に溜まった唾液が零れても、坊やはピクリともしない。

「坊や…愛してる。さようなら…―――私の羊飼い。」

 イシャは坊やの着物の崩れを直し、灯の傍に寝かせてあばら屋を出た。


 あばら屋から少し歩いたところで、遠くからイシュが走ってくるのが見えた。イシャは歩みを止めて、イシュがやって来るのを待つ。イシュが自分のしたことに気が付かない筈がない。そうなった場合、どうするか、それもイシャは分かっている。だけども、イシャはイシュから逃れることは出来ないと分かっているから、そこから動かなかった。

「探したぞイシャ! お前、何をしていたんだ!」

「………。」

「もうすぐ夜が明ける。早くどこかに隠れよう。」

「………。」

「………イシャ、お前………。」

 気付いた。イシュはイシャの身体の異変に気付いた。酷く動揺して、眼の据わったイシャの肩を掴む。

「嘘だろ…。お前…破ったのか!」

「うん。」

 言うや否や、イシュはイシャの首を締め上げた。イシャの爪先が地面から浮く程に高々と身体を持ち上げて、恫喝する。

「破ったのか! ぼくとの誓いを! ぼくだけに操を立てるという誓いを!!」

「く…っ!」

 イシャは渾身の力でイシュの指を引き剥がし、噛みついた。ギリギリ歯を噛みしめて、犬歯が肌に食い込み、血が滲む。支える力を失ったイシャの身体はその場に頽れ、イシュはまるでこの世のすべての罪を背負うかのように落胆し、泣いていた。

「手を出したのか…。よりにもよって、婚約者の居る坊やに!」

「もうこの世が終わるという時に、いつまでも意地を張ってる必要はないって思っただけよ。…あの時の羊飼いのようにね。」

 イシュの顔に、あからさまに青筋が浮かんだ。しかしイシャは気にせず続けた。イシャの頬を、昏い絶望が濡らしていく。

「あの時、どうして羊飼いが自ら命を絶ったと思う? もうすぐ私が結婚する。それは羊飼いにとって、神を人から奪われるに等しい現実だったわ。それに、わたし達が愛し合う事を、このユダヤの社会はゆるさなかった。だから末期の命を、わたしへの愛の為に咲かせたのよ。…わたしも同じようにしただけよ。私は、ずっと坊やが好きだったから、夫婦がするようにしたの! 顔も知らない婚約者の手垢のつく前にね!」

「あれ程お前は、ぼくのものだと言っておいただろう! 一体どう弁償すればいいっていうんだ!? ぼく一人の命や財産じゃどうにもならない! 坊やだって死罪になるかもしれないのに!」

「そんな心配必要ないわ。だって、もうすぐこの世は終わるのだから。ラビという秩序が喪われた今、律法を遵守する必要なんてないわ!」

「終末が来るからこそ、今までの潔白な人生に汚点を残す事なんてないだろう!」

「あら! わたしだけが肉欲に溺れていたとでもいうつもり?」

 それを聞いて、イシュは口を噤み、何も言えず俯いて歯噛みした。イシャは畳み掛ける。

「アンタはいつもそうやってわたしを貶めていたけれど、自分はどうなの? コッテコテの理性で塗りたくった自分はどうだったのよ? わたしみたいに奔放でなくたって、いくらでも人は犯せるわ。心までは取繕えないものね。その証拠にアンタも、好きだったんでしょ? 彼の事が。」

 ずん、と、衝撃がイシャの身体を崩した。焼き切れたイシュの怒りが、胸から降りていき、腹を満たしていく。腹が破れたのだ、と理解した。イシャはそれでも、優しくイシュの背中に手を伸ばし―――ずるり、と手を落とした。

 ああ、ごめんなさい。貴方を最後に抱きしめてあげたかったのに。

「………イシャ、お前はぼくのものだ。」

 イシュは何も答えないイシャの瞼を下ろし、肉欲に染まっていく上着ごとイシャを抱きかかえた。

「お前だけを、逝かせはしない。ぼく達は、永劫二人で一つの存在だ。」


 ふらつきながらも、イシュは歩く。深い深い罪の沼に沈みゆくために。かつてラビが、新たなる生を受けたヨルダン川に沈みゆくために。

 安らかな顔に血と泥を付けた身とを抱いて、静かに川の中へ入って行く。徐々に重くなる身体を更に沈めて、身体に岩を巻きつけ、深い川へ沈んでいく。

「イシャ、この罪はぼくの罪。地獄のゲヘナの炎ですら、ぼく達の運命を焼き切ることは出来ない。だから、安心するんだ。ぼくも一緒に逝こう。」

 自嘲するように笑って、イシュは頭の先まで、水に浸かり、息を止めた。空気を求めて開いた口から、大量の水が入り、苦しさに浮きあがろうと身体が勝手にもがいたが、抱きしめたものがそれを許さなかった。


 でも、それでいい。

 これで、全てが終わる。

 もう二度と、神への罪に怯えることはない。罪そのものであるイシャは死に、その主人である自分も、死ぬのだから。

 イシュの口から泡が出なくなった時、イシュの目は閉じられた。 

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