第十五節 入城の二人
ラビが疲れたと言うので、エルサレムが見えてきた辺りで一行が休んでいると、ふと、隣に坊やがやって来た。思わずドキリとして身じろぎ、腰掛けていた岩の半分を空ける。
「なあ、俺って気色悪いか?」
「へ?」
だが、円らな瞳が、あんまりにもこちらを睨んでこない気持ち悪さに、思わず腰を元に戻す。
「生き返ってからこっち、十二弟子は勿論、他の弟子たちも、俺を避けてる気がするんだ。医者なんて恐々としてるのが目に見えてる。」
「気の所為でしょ。」
「そう言うお前だって、目を合わせてもくれない。」
「そんなことないよ。」
そう言って、意識して坊やの瞳を見つめる。けれども坊やは、わざとらしいそれに逆に不快感を示したようだった。
「嫉妬とか、そういうの面倒くさいんだよなぁ…。嫁さん貰ってねえから、女がどういうもんかわからねえし。兄貴も会計士もラビも、最近何だか思いつめてるみたいで相談するのも気が引けるし…。」
兄を差し置いて自分を選んでくれたのは嬉しいが、何故会計士が天秤に掛けられているのだろうか。
「何で会計士に相談しようと思ったの?」
「だってあいつんち、商家だろ? 俺達網元よか儲かってるし、人を動かす事も在るんだったら、人間の内側にも詳しいかなって。」
「確かに大勢を動かすのに、多少人の心を読むことは必要だろうけれど…。」
でも、でも出来るなら。
「これからは、相談に乗るよ。」
「マジで?」
「勿論。可愛い坊やの為だからね。」
やったぁ、と無邪気に抱きついてくる坊やの頭を撫でながら、自分を塩の柱に変じさせんばかりの激しい情念を押え込む。坊やの頭を優しく、とんとん、と押さえつければ、それだけ、その神の怒りにも似た炎が、零れだしそうな容れ物の蓋を押え込めるような、そんな気がしたのだ。
「ああ、此処にいたんですか。ラビがお呼びですよ。」
「俺?」
「貴方ではないほうです。」
「じゃ、ぼくか。」
漁をした引き網のようにずるずると立ち上がって、会計士の後をついて行く。会計士は後ろから見ても分かるくらいに、機嫌が悪かった。仲間たちが、ラビを囲んでいる。そしてなぜか、ラビに禿岩が潰されている。
「兄さん、無理ですよやっぱり。」
「そうだよ、無理しなくていいんだよ。」
「ぐぬぬ…ら、ラビが花のおみ足をくじかれたと言うのなら…! ふぬぬ…ひぶうっ!」
「あーもう! 意地張らないでください! 所詮兄さんなんだから!」
「ああ、会計士、イシュ、やっと来たね。ちょっとお使いをしてほしいんだ。」
ラビは禿岩の上から退いて、ひょい、と着物の裾をめくった。左右の足首の太さが違う気がする。
「御覧の通り、さっきどうやらくじいてしまって、ほっといたらこの有様なんだよ。二人でちょいと先にエルサレムまで行って、子ロバを牽いてきてくれないか。」
「はぁ…。それはまぁ、別にいいですけど、ラビ、ご自身でお治しになって立たれてはどうですか?」
「アンタ馬鹿ねえ、ラビはお疲れなのよ。少しくらい労ってあげなさいよ。」
「ぼくはね、恐らく同じことを考えてイラついている会計士と一緒にいたくないだけなんだ。」
そう言われてみれば、会計士は如何にも自分も疲れていると言わんばかりに目頭を押さえていた。というより、禿岩の今の行動に呆れ返っているとでも言いたそうだ。しかしラビは頭を振った。
「今がその時だから、明日でも、昨日でもダメなんだ。エルサレムの入口に、誰も乗せたことのない子ロバが繋いであるから、その子を牽いてきておくれ。」
「もし、誰かがその子ロバをぼく達が盗もうとしているのだと棒を持ってきたら、蹴っ飛ばしていいですか?」
「いいや、そんな必要はない。もしそんな必要があったら、私の名前を出して、『ラビが御入用なのです』と答えなさい。」
「今やラビはガリラヤどころかこのイスラエル中の時の人だものね! ラビにハジメテを奉げた子ロバなんて高く値が付くわよ。」
慌ててイシュはイシャの頭を鷲掴みにし、掻き
「あいたたた! 何よ! 普通に事実を述べただけじゃないの!」
「その淫らな言い回しは舌の根抜いても治りそうにないな。」
「何をしているんですか、イシュ。早く行きますよ。」
「はいはい、今行きますよっと。」
手を後ろに組んで、とことことついて行く。心なしか、会計士の足は速い気がする。大股で歩いても徐々に距離が開く。沈黙が痛すぎるので、今し方仕入れたばかりのネタを振ってみることにした。
「なあ会計士。」
「…………。」
「返事してくれなくても聞くけどさあ。」
「…………。」
「お前、坊やのことどう思う?」
…………。
ものすごく鬱陶しい、という感情がひしひしと伝わってくる眼で見られた。足を止め、此方が何か言うまで何も言うまいと口を堅く結んで、豚使いでも見るかのような眼で此方を見てくる。やらかしたかな、と思っていると、意外や会計士はすぐに口を開いた。
「何度も言いますが、私は人間関係よりも香油や銀貨を量っている方が好きなんです。私から見たら、雷兄弟なんて魚油臭い皮の袋と変わらない。」
「うっわ、結構言うねえ。」
「貴方もそうですよ。」
「へ? ぼく?」
「私からしたら、貴方からはラビが御心に留められたのが不思議なくらいに、好色な匂いがします。」
「当たってるじゃない。」
「黙れイシャ。」
なるべく平常心でいようとイシュは頬をぴくぴくさせながら言い返した。
「会計士も、ぼく位の年ごろの頃はそう言う匂いがしたんじゃないの?」
「残念ですが、私は商売に忙しかったので、女性も婚約者も考えた事もありません。」
「今も?」
「勿論。」
「ひょっとして男が好きとか?」
ザリッ!
その言葉に言葉が返されることはなく、会計士は大きく臍を曲げ、足元の塵をイシュに蹴り上げて、先に進んで行ってしまった。引っ叩かれなかっただけマシだろうか。
その後、一応謝罪はしたのだが、会計士は結局、子ロバを見つけたときも、それを牽いてくる時も、それをラビの所に連れて行った時も、一言も話すこともなければ、目を合わそうとさえしなかった。軽蔑している、というより、存在そのものを否定しているような感じがする。
「いくらなんでもあの質問はなかったんじゃないの?」
「ぼくはね、イシャ。自分だけは両親の子作りを経ないで生まれましたっていう考え方が一等大嫌いなんだよ。須く人間は、男女の愛の営みによって生まれるべきなんだし、そうであるからには、
「アンタって変な所でリアリストよね。」
「どっかの淫売のおかげでね、男女の話にはそれなりに詳しい自覚はあるよ、この雌豚が!」
ごちん、とイシュはイシャの頭を壁に叩きつけた。音に気付いたラビがゆっくりと体を起こす。ラビの身体の上には、相変わらず寝相の悪い禿岩の毛深い足が乗っかっていた。それを苦笑しながら退かし、どうしたのかと尋ねてくるので、イシュはイシャを隠し、躓いただけだと笑った。
翌日、ラビは子ロバに乗ってエルサレムに入城した。人々は
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