第十三節 宴会の二人

 美しい織物が月明かりを含み、滑らかな黒い髪が大気を包み、星の光を一つ一つ、潰していくような足先が、絨毯を叩く。楽士の奏でる調べは喧騒の中にあって、酷く濁っているのに、乙女の踊る舞は純粋で清らかだ。成人直前の幼い少女の舞に合わせ、徐々に重みを増してきた魅力的な葡萄ぶどうの房は、けれどもしっかりと幹にしがみついている。健気なまでのその幼さと、月のものが来始めた為に、妖艶さを時折思い出したかのように見せるその脚は、酷く目の前の酔い潰れそうな老人を喜ばせた。彼女は、その老人の義理の娘であり、また実の姪でもある。煌びやかな宮殿の、豪華絢爛な食器に盛合された食事は、いくら羽根で喉を突いても食べ尽くせない位であった。

 どこからか漂う白百合の香は、娘が胸の中心に仕込んだものだろうか。そうか、これは夢なんだ。と、イシュは悟る。でなければ、こんなみすぼらしい姿をした男が、こんなにも華やかな宴に紛れ込めるわけはないし、もし紛れ込んだとしても、中央で注目を集めているのは可憐な少女の舞ではなく、貧しい男の宴会芸であっただろう。

「見事な舞であった、我が平和の君よ! 褒美は何が良い? お前になら、儂の治める国の半分でもやろう! さあ、何が良いか?」

 古今東西、興奮した人間の決まり文句だ。『国の半分でもやる』。ローマの属国に成り下がり、異教徒に頭を下げなければならない立場になど、なりたくはないとも思うが、娘は嬉しがって、実母の傍へ行って相談した。

「お母様、お義父様が認めてくださったわ。何でも褒美をくれるんですって。お母様、私は何をお願いすればよろしいの?」

 すると母は、自分の夫に聞こえないように、そっと耳打ちした。娘は、はい、とにっこり笑い、再び義父の前に戻った。

「早に決まったな。賢しい娘だ。さあ、何が良いのか言って御覧。」

「はい、わたくしの欲しい物は、『せんれいしゃのくび』にございます。」

 すると義父は、ハッと真赤だった顔を青くした。それがあんまりにも愉快だったので、娘の母は高らかに笑っている。娘は両手を差し出して、更に強請った。それが母の望みだと分かっていたからだ。

「今すぐに、銀の御盆に『せんれいしゃのくび』を乗せて、戴きとうございます。」

「………貴様、謀ったな!」

「一体何のことかしら? 国の半分でも、何でもこの子に下さると仰ったのは国王陛下、貴方様自身でございましょう。ここにいる全てのお客様が証人です。国王陛下、この子は『洗礼者の首』を欲しがっております。早に人をやり、『洗礼者の首』を銀の盆に乗せて持ってきてあげてくださいませ。それとも、ローマの属国とはいえ一国の主たる貴方が、血のつながった娘の約束を反故になさるのですか。」

「…ええい、もう良い! 牢に繋いである洗礼者の首を刎ねて、娘にやるがよい!」

「ホホホホ…。」

 不気味に微笑む老女の視線が、ふとイシュと合ったような気がした。その女の妖気に、イシュは悲鳴を上げて飛び起きた。


「あっれえ、イシュも嫌な夢みたの?」

 上体を上げて息を弾ませていると、いつもよりも間抜けな顔の禿岩がこちらを覗き込んできた。

「うわ! 目覚めの悪いもの近づけさせるな!」

「兄さん、起き抜けに人の顔を覗き込むなんて失礼だよ。」

「丈夫のキスで目覚めたら最高のシチュエーションだったのにねー。」

「いいからお前は黙っててくれ…。」

 見てみると、十人の弟子たちは皆、起きているようだった。水を飲む者、徘徊する者、ゴロゴロしながら眠気を待つ者様々いたが、皆一様にして、『嫌な夢を見て目が覚めた』という。これも、ラビが与えて下さった恩寵の一つなのだろうか。

「嫌な胸騒ぎがするな…。あの兄弟は大丈夫でしょうか? エルサレムは、こっちの方角だったと思うんですけど…。」

 丈夫が窓から満点の星空を見上げて言う。占星術なんて如何わしい物は知らん、と、イシュはもう一度寝転がったが、何だか苛々して眠れない。否、苛々とは違う。これは―――。

「あれ? イシュ、一体何がお前を泣かせたんだい! ブルンッ!」

「え? あ…。」

 頬を一筋の涙が伝っていた。どうしたのだろう。悲しい訳でもないし、胸が締め付けられるようなこともない。唯、目から涙が出ているのだ。見ると、イシャも泣いている。

「イシャ、どうした。お前も夢が怖かったのか?」

「分からない…。唯勝手に涙が出て来るの…。止まらない…止まらないよう…。」

「どうしたんだ、どいつもこいつもイカれちまってる。それも高弟ばかり十人も!」

 何かの悪い霊が働きかけているのかもしれない、と、禿岩はラビを揺さぶり起こした。起き上がったラビは、十人の内の誰よりも、悲しみを表していた。

「ラビ、どうにもおかしいのです。悪霊が来ているのかもしれません。どうか追い払ってください。」

「………。」

「ラビ、聞こえてますか?」

 イシュが禿岩を押しのけてラビの肩に触ろうとすると、ラビはその手を弾き飛ばした。

「……ッ!」

「…すまないね、イシュ。でも、今の私はお前たちに祈っていてほしいの。」

「祈る? こんなに異様な夜だからですか?」

「明日の朝、早馬を三頭乗り潰し、私の遣いがやってくる。その時まで、君たち十人は眠れないだろう。だから今夜は祈っていなさい。何れ、起きていなければいけない時に起きていられるように、今夜は祈りなさい。」

「何について祈るのですか?」

 ラビは何も言ってくれなかった。失望されたのかもしれない。とりあえず、イシュは寝不足にならないように祈ることにした。


 ラビの言葉通り、結局祈っている間も、頭は何かに溺れているかのように冴えわたり、戸を叩くような喧しい音がしていた。他の弟子たちも落ち着かない。無理矢理寝ようとする者もいたが、妙な所で実直な禿岩に蹴り起こされて、しぶしぶ両掌を上に向けた。ぼんやりと膝の上に手を置いて、空気の中を舞う塵を一つ二つと数えていたが、十より多い数を数えられない事を知り、また一つ二つと数えて、十まで数えたら一つに戻る。それを、十以上は確実に超えたころ、激しい音がして全員が目を開いた。どん、と、大きな音が一つだけ。外からだろうか。ラビは顔を上げている。

「どこだい?」

「外からのようです。」

「窓の下にはいないぞ。ブルルン!」

「じゃあ扉じゃないでしょうか。」

「おいイシュ、お前開けろよ。」

「えー?」

 何故か全員、各々好き勝手な武器を持って身構えている。骨は拾ってやる、ということだろうか。まあ、ここで、ラビの目の前で律法学者に殺されたら、いい伝説くらいにはなるだろう。そんな下心も後押しして、イシュは思い切り扉を開き―――引っくり返った。

「わあ!」

「曲者!」

「待って兄さん!」

「あいた!」

 問答無用で殴りかかろうとした禿岩の顔面を、丈夫の裏拳が止め、イシュに覆い被さる者を引き剥がす。かなり風貌が変わっていて、まるで獣飼いの種類の様な有様だったが、イシュはその人物を良く知っている。

 エルサレムへ先生を助けに行くと言って飛び出して行った雷兄弟の、兄の方だった。

「お、お前…!? 生きてたのか!?」

 ベツサイダで幅を利かせていた頃の面影をまるで残さないその男の顔には、はえが集っている。彼が背負う亜麻布の大きな荷物にも、虫が湧いている。彼が背負っているのは―――死体? 一体誰の?

 イシュが離れろと言う間もなく、彼はよろよろと、真っ直ぐにラビに歩み寄り、その足元に荷物をおろし、懐から短剣を抜いた。そしてそれを床に突き刺し、足元に額を擦りつけてすがった。

「ラビ! 今までの全ての罪を、今ここであがなうと誓う。だから弟にお慈悲を下さい!」

 今までの傍若無人な態度は一体どこへ行ったのか、今まで『ガキ、ガキ』とどこか嘲笑あざわらうように呼んでいた相手の足先に平伏し、人目も憚らず大声で泣きながら、何度も、『お願いします、お願いします』と繰り返した。ラビはちらりと亜麻布を見たが、すぐに屈んで兄の顎を持ち上げ、視線を合わせた。

「どうしてそんなことを言うの? 私の知ってる君は、いつも自分のお父さんの身分をカサにきて、すぐにキレて物を壊して人に怪我をさせてお金で丸め込む、そういう奴だったよ。らしくないじゃないか。」

 そう言われてみればそうだった。しかし、兄は食い下がった。

「その通りです。本当ならばこうして御前に出ることも恥ずかしい。でも対価が命だけで足りないなら、俺の持っている財産を全て返す! だから―――。」

「だから待ちなさいって。どうしてそんなこと言うの?」

「俺にはもう妻がいる。後継ぎ息子も、分家になる息子も、嫁に出す娘もいる。だがこいつはまだ結婚さえしてないんだ! これからって時に…これからって時に…。」

「………死んじゃうなんて可哀想?」

 その瞬間、分かっていたはずの重い澱みがイシュの中から、森を焼く炎の様になって激しく燃え盛った。声が出ない。出せない。眩暈がする、立てない―――。

「イシュ! どうしました、しっかりして!」

「イシュ! ねえ、馬面、医者を呼んで来て!」

「フン!」

 悲鳴が音を伴わずに口から零れる。口を塞いでもその端から零れる。零れた物は元に戻さなくてはならない。沢山零れたから沢山戻さなくてはならない。でもそうすると、もっと沢山零れる。もっとたくさんこぼれたから、もっともっとたくさんもとにもどして、もっともっともっとたくさんたくさんこぼれたから、もっともっともっともっと………。

「イシュ様、落ち着いてください。ゆっくり、ゆっくりですよ。馬面様、扇の様なものを探して来てください。」

「フン! へいへい。」

 医者が横になったイシュの背中を摩り、呼吸の手本を示す。冷や汗の滲む手を、丈夫の無骨な手が包んだ。禿岩はおろおろして、ラビとこちらを行きつ戻りつしている。こんな時でも役立たずだ。

「さっき、全ての罪を贖うと言ったけれど、本気?」

「本気だ。」

「その結果、君はベツサイダの漁師ではいられなくなるよ。それでもいい?」

「二言は無い!」

「君の罪は君一人であがなったとして、坊やはどうするの? 君と同じ血が流れた、君の弟は。」

「言って聞かせる。」

「その意味、分かってる?」

「分かっている! 全て承知の上だ!」

「分かった。剣を貸しなさい。」

 兄が剣を地面から抜き、ラビに差し出す。二言は無いと言ったのは本気だったらしい。兄はバサバサの髪を横へずらした。が、ラビはその首に刃を当てず、亜麻布に剣を当て、ブチブチと少々乱暴に布を切った。予想外の展開に、兄がその様子を凝視していると、はらり、と亜麻布を取られた。そこには、虫が集っているとは思えないほどの綺麗な寝顔の弟がいた。

「ほら君も、そんな物いつまでも詰まらせてないで起きなさい。」

 がす、とラビは、弟の喉仏を剣の柄で砕いた。その場にいた男達の何人かが、その痛みを感じとり、自分の首に手を当てる。反動なのか、僅かに、弟のなだらかになった首が動いたような気がした。

「…………。」

「…………!!」

 先程の低姿勢はどこへやら、兄はラビを突き飛ばし、弟の身体を抱き起こした。その場にいた何人もが、目をパチパチと瞬かせた。

「…………腹減ったぁ。」

「坊や!!」

 今まで苦しかったことが嘘の様に、イシュは飛び上がった。

「おま…。奇跡の復活遂げて第一声が『腹減った』じゃねえだろ! ちゃんとラビにお礼とお詫びを申し上げろ!」

「あいて! なんだよ! クソ兄貴だってさっきラビを突き飛ばしただろ! アレ聞こえてたんだからな!」

「まあまあ、二人とも…。」

「こんなに素晴らしい日はありません! 死んだと思っていた二人が帰ってきて、わたくしの目の前で今まさに、奇跡が成し遂げられた! 会計士様、今日は宴会に致しましょう。」

「皆、何を浮かれているんですか。その前にきっちりとお二人にはけじめを…。」

「まあまあ、良いじゃないか。死んだと思っていた二人が帰って来た、それで私は十分だよ。彼らが報告するべきことも、私だけが知っていればいい。他の皆は知らなくて良いから、だから会計士、この辺りで一番肥えた羊を探してほふってよ。」

 会計士は不服そうに雷兄弟を睨みつけていたが、やがて溜息をついて背を向けた。

「ラビがそう仰るなら…。馬面、ついてきてください。家畜の扱いは得意でしょう。」

「どどど、どういう意味だい!? フン!」

「そのままの意味ですよ。」

 そう言って、会計士と馬面は出て行ってしまった。イシュはというと、弟を囲んでいる弟子たちから背を向け、二人が歩いて行った方向とは逆の方向へ走り出した。


 ―――死んだと思っていた二人が帰ってきて、わたくしの目の前で今まさに、奇跡が成し遂げられた!

 医者の嬉しそうな魂の叫びが耳の中に木霊する。イシュだって、弟が帰って来たことは嬉しい。嬉しいからこそ、胸が締め付けられるのだ。あの喜びの中に、決して自分は入ってはいけない。

「ねえ、病気だった人が治ったり、死んだと思っていた人が生き返ったりするのって、そんなにダメなこと? 何がダメなの? 一緒に抱きついちゃえばいいじゃない。あの奇跡は、ラビの御威光を讃える奇跡なのに。」

「イシャ………。」

「どうして泣いてるの? ラビは何もお叱りにならないわ。今からでも帰って―――。」

 イシュはそっと、イシャの唇に触れて、身体を抱きしめた。泣いている。

「何が何だか分からないんだ。あの兄弟がぼくの前から取り去られたことは、ぼくの祈りが聞き届けられたんだと思ったんだ。どうしてまたあの兄弟はぼくの前に来た? ぼくの前に、ぼくを掻き乱す為に戻って来た? ぼくだけが許されない優しさをどうしてぼくの前に置く? 誰も気づいていないんだ。誰も、他の誰も気づいていない。神だけがぼくに許されない優しさを知っておられるのに。」

「じゃ戻んなさいよ。」

「あの喜びの中にぼくは入っていちゃいけないんだ。自分を押さえている自信がない。どうして死んだのが生き返ったんだ。どうして死んだのは弟の方だったんだ。どうして死んだのはぼくじゃなかったんだ。」

「でも少なくとも、アンタにいて欲しいっていう人間が迎えにきたみたいよ。」

 ほら、と、イシャが指し示す。灯りを持ち、会計士自らが、此方へ走ってきていた。

「やっと見つけましたよ! 貴方がいないと宴会が始まらないんですから、勝手な行動は慎んでください。」

「ぼくが?」

「そうですよ。高弟十二人が揃わずして他の弟子が先に食べられる訳がないでしょう。さ、早くしないと禿岩が勝手に食べてしまいます。」

 ぐいぐいと手を引かれて、イシュは黙って引きずられていった。

「………どうして。」

「はい?」

「どうしてぼくなんかが選ばれたんでしょう。」

「知りませんよ。私は会計の仕事をしているから当然かもしれないですけれど、他の十一人にこれと言って長所はありません。ラビはそれを憐れんで下さったのではないですか。」

 一理あるかもしれないが、イシュが求めていた答えはそんなものではなかった。

「何に悩んでいるのかは知りませんが、私は貴方方と違ってある程度の教養はある心算ですし、商売柄口も堅いと自負しています。話して解決できることなら、相談に乗りますよ。」

 会計士は現実主義者だ。自分に出来ない事はやらない。はっきり言ってこの守銭奴は他人に興味がないと思っていた。相談に乗るだなんて、一体誰からいくらもらうつもりなのだろう。

「誰か―――。」

「はい?」

 ざり、と、会計士の靴が砂粒を踏みにじった音がした。

「誰かを心から愛したことがありますか?」

「………。」

「どんな障壁も超えられるくらい激しく。」

「………。」

「母が餓えた子にすがりつくように。」

「…。一つ言えるのは、貴方には詩の才能がないという事です。」

 会計士の表情は暗くて見えない。月が背にあって、灯りは道先を照らしていて見えないのだ。再び歩き出した会計士の前に回り込み、イシュは自分の胸を掴んだ。

「例えば、ぼく。」

「………。それは、貴方が一番よく知っていると思います。」

「………。」

「私も、貴方と同種の人間です。貴方が好きな人は私も好きだし、貴方が嫌いな人は私も嫌いです。」

「ぼくは?」

「貴方が貴方自身に思っている事をそのまま、私は思っていますよ。」

 ほら早く、と、会計士は先に行ってしまった。灯りが遠ざかれば遠ざかるほど、押し寄せるイシュの怨嗟にも似た暗闇が静かに覆い被さって、イシュはその場に俯いた。そうしなければ、頬が濡れてしまう。

「ずるいやつ…。」 

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