第八節 対立の二人

 その後サマリアの村には何日かとどまり、ガリラヤに着くと、一行はベツサイダの雷兄弟の家に身を寄せることにした。網元の家とだけあって、家も金も部屋も十分にある筈だからだ。ベツサイダには始めて来るという面々も幾らかいるが、やはり北部の空気が懐かしいという面子が目立つ。その中で、ただ一人、南ユダヤ出身の会計士だけが、生臭い魚と貧困の匂いに顔を歪めていた。物価が安い事だけが、彼にとって心の安らぎとなったようである。

 だが、久しぶりに後継ぎ息子が帰ったというのに、召使達は酷く怯えて不安そうな眼をしていた。

「若旦那様! 坊ちゃま! ご心配申し上げておりました! よくぞご無事で。ささ、旦那様にお元気な姿を見せて差し上げて下さい。」

「あ? あの耄碌もうろくに何かあったのか?」

「そうではございません。詳しいことは旦那さまから…。」

 よく見ると、家の中はそこかしこに不釣り合いな傷やくすみが出来ている。新しく木や石を継ぎ足した場所もあるようだ。ラビはくびき職人だが、普通の大工もやっていたらしく、特にそれが目につくらしい。

 とりあえず親族だけ、ということで、先に兄が入り、次いで弟が入り、最後にラビが入った。残りの面々は、広間で待たされる。禿岩やその弟は、自分たちの網元の家とあって委縮しながらも、憧れと驚きを隠さない瞳で辺りをきょろきょろと見回しており、医者は薬になる魚の肝などに興味津々だし、会計士はこの家で一番金目の物を早速嗅ぎつけて品定めをしている。別に盗もうとしているわけではないらしいが、網元の家を良く知っているイシュには非常に不愉快なものである。イシュにとって見慣れている高級品でも、南ユダヤ出身の会計士には珍しいらしい。特に香油の壺がお気に召したらしく、手に取って見定めている。

 と、禿岩が徐に立ち上がり、そうっと大きな奥の部屋への扉に近づいて行った。

「おい、何してるんだ。」

「見て分からないかい? 盗み聞きさ。」

 くすくす、と医者が上品に笑う。咎めないところを見ると、本当は彼も中身が知りたくて仕方がないのだろう。丈夫はというと、兄の愚行に何も言う気が起きないのか、それとも彼も兄の所為にして中身が知りたいのか。

「止めろよ。ラビは親戚同士で話し合ってるんだぞ。一族の恥を聞いちまったらどうすんだ。」

「大丈夫だよ。ラビに恥なんてないさ。」

「馬鹿。ラビも人間だぞ。この間すっげぇ不味そうな顔して飯食ってたじゃんか。なんだかんだ言ってラビも人間らしく好き嫌いがあるんだよ。それに何より、ラビはこの間朝勃ちしてただろ。潔癖そうに見えて、意中の女の夢でも見たんじゃん?」

「そう言うのは生理現象じゃないか。なあ医者、朝勃ちって、何の夢を見たかなんか関係ないよな?」

「………まあ、確かに、飲み食いは人間である以上必要不可欠ですね。朝勃ちについては医者として何も言えませんが…。」

 下品な話に巻き込まれて当惑しているようだ。イシャが爛々と目を輝かせて、男性陣の下品な話題に興味を持っている。どういう性癖か気になっているのだろう。…そこでなぜ、期待を込めた眼で扉を見ているのだ!

「ねえ会計士、貴方はどういう女が好みなんですか?」

「知りたい知りたい!」

 丈夫がさりげなく振った質問に、イシュが止める間もないほど物凄い勢いでイシャが食いつく。会計士は、今度は飾られた剣を見定めながら、軽蔑の眼差しでこちらを見た。

「…私は女には興味ありませんので。」

「聞いた? 女に興味ないんだって! やったねイシュ!」

「嬉しいもんか!」

 しかし禿岩は食い下がる。

「またまたぁ、いいじゃないか。同じ釜の飯を食った仲だぞ。同床異夢なんて頂けないじゃないか。況してお前の夢にだけ美女がいるなんて、狡いぞ。夢の中なら既婚者も独身なんだから。」

「お前、この前孫が成人したって言ってなかったか?」

 なんなんだ、と、イシュは溜息を吐く。が、それよりも大きな溜息を吐いたのは会計士だった。

「…本当に興味ないんです。それだったら香油の量り売りをしていた方がいい。」

「イシュ、彼のハートを射止めるには、香油を塗ればいいのよ。綺麗になるし一石二鳥ね! そんなに好きな物だったら口に入れても問題ないんじゃないの?」

「お前、ちょっと黙っててくれないか…。」

 きゃっきゃっと燥ぐイシャを咎める気にもなれず、げんなりとイシュは机に突っ伏した。今、イシュの前にはエジプトから祖先を連れ出した預言者が、履物を脱いでいるのが見える。柴だ。自分は今柴の木だ。話のネタが下品であれば下品であるほど、イシャは所構わず燥ぐ。その度にイシュはイシャを始めは叩いていたのだが、今はもう馬耳東風の領域に入った方が良いという領域に達した。こんな女と、何故こんなにも誠実な自分が、一つでなければならないのだろう。

「何だよ、そんなことあるわけないじゃないか。」

「もう止してあげてください。医学的には何ら不自然なことはありませんよ。」

 まだ食い下がろうとする禿岩を見かね、医者が助け舟を出す。会計士はその助け舟に感謝している素振りも見せず、また剣に目線を落とした。

「え! そうなの?」

「はい。個人差があるものですから。」

「へえー!」

 医者は何でも知ってるねえ、と、禿岩が拍手をする。その途端、禿岩の背後の扉が羊の群れのように押し開かれ、がきゃ、と、番が壊れかかってしまった。

「この一大事に拍手なんざしてんなぁ、どこのどいつだぁッ!!」

「会計士! その剣寄越せ!」

 宛ら雷鳴の如き怒号と共に、部屋から兄弟が飛び出してくる。弟は剣を会計士からひったくり、次々と部屋の中の剣や棒をかき集め、どたどたと走り回り始めた。兄の方は先ほど会計士が観ていた高価な香油の入った壺を手に取り、思い切り床に叩きつけて、次々に物を引っくり返し八つ当たりをする。召使たちはどんな意味にもとれる悲鳴を上げて逃げ惑った。扉と壁の隙間から、医者に抱きかかえられた禿岩が、鼻を押さえながら叫ぶ。鼻から流れる二本の血の筋が痛々しい。

「何するんだ! 危ないじゃないか!」

「てめぇの鼻ッ柱の一本くれぇどうにでもならぁ! おいイシュ、お前も棒持ってエルサレムに行くぞ!」

「えー? 今サマリアから帰って来たばか―――。」

 すると兄は、イシュの首根をぐいっと持ち上げ、ゆっさゆっさと揺り籠のように揺すった。

「先生が捕まっちまったんだよ! 国主のアマっ子がついにキレやがったんだ! 助けに行くぞ!」

「おい医者! お前も来い! もし先生が掴まってから手当ても受けてなかったらどうすんだ!」

「わ、わたくしもなのですか? とにかくお二人とも、少し落ち着かれては―――。」

「きゃーっ! 反乱だわ! ついにラビが国主になられる時が来たのよ! ローマの下種から救ってくれる時よ! ラビが王様になるんだわ! その時はわたしがお妾さんよ、絶対よ!」

「ラビ! 一体どういうことか、このバカにも教えてください!」

 イシュが堪り兼ねて声をあげると、一番遅くに、部屋の奥で横たわる網元に礼をしてから、ラビが現れた。兄弟二人がぎゃあぎゃあと騒ぎまわっているのに、ラビは静かな眼をしている。まるでそれはそう、カナの婚礼の時のように。

「エルサレムには行かないよ。」

「えー!」

「おいガキ! 人が一人死ぬかも知れねえんだぞ!」

 イシュを放り投げ兄は、今度はラビの襟元を掴み上げる。弟も大量の武器を持ったまま、詰め寄る。

「そーだぜにーちゃん! にーちゃんに洗礼を授けてくれた先生だぞ! 国主の罪を指摘した唯一の勇者だぞ! それなのに獄中死させるってのかよ!」

「とりあえず下ろして、話すから。」

「ははん、分かったぞ。ガキ、お前今になって怖気づいたんだな!? 国主の首を取った後に、ローマに楯突くことが怖いんだ! 信仰の浅い奴!」

「だから下ろしてってば。」

「見損なったぜにーちゃん! にーちゃんは取り立てて目立つ良いところもなかったけど、真っ直ぐで軸のブレない奴だって思ってたのによぉ! にーちゃんはいつも王国の話するじゃねえか! 今建てるんだよ! にーちゃんが支配する『神の国』をさぁ!」

 その後もぎゃあぎゃあと続きそうなので、イシュはえいやと兄の方の足を払った。驚いた兄が手を離すと、兄弟は縺れてどたんと床に倒れたが、ラビは落ち着いて襟を但し、のんびりと椅子に座って、まるでいつも説教をするかのように口を開いた。

「私達は、エルサレムには今はいかない。今は、ガリラヤにいるべき時だから。」

「何でだよ! 殺されちまうかもしれないんだぜ!」

「確かに、私の従兄であり、私に洗礼を授けてくれた人は、私よりも先に死ぬ。けれどもそれは、国主の怒りを買ったからでも、神の御心から離れたからでもない。来たるべき時に備えて彼が生まれ、生きた様に、来たるべき時に備えてまた、死んでいく。これは彼という最後の預言者に与えられた召名なんだよ。」

 湖を滑るような落ち着いた声からは、何の感情もくみ取れない。けれどもその湖には確かに、魚が泳いでいる。

「…なんだよ。オレたちの先生を…見捨てるっていうのか…。にーちゃん…自分の…家族を…、…自分の叔父に股開いたアバズレに売るって言うのかよ!」

「坊や、落ち着きなさい。彼は生まれる前から神に選ばれ祝福された人。今も、これから先も、彼の名前が穢されることはないよ。」

 少し血の気が引いた兄が、顔を近づけて言った。顔が引きっている。

「じゃあ、じゃあさ、こうしよう。俺様達で身柄を引き取りに行こう。あのスケベ、民衆に先生が人気あんのを知ってるんだぜ。それに先生の言ってることが正しいってことも少しずつ理解してる。それをあの婆が邪魔してるんだよ。だから、な? お前が少し説教してやるだけでいいのさ。婆とそいつのコブを説得して檻から出してもらおうぜ。」

 しかし、ラビは悠然と首を振った。すると次の瞬間、ひび割れる様な鈍い音がして、ラビの身体がイシャの胸に飛び込んできた。殴り飛ばされたのだ。

「若旦那様! どうぞ気を静めて―――げふっ!」

「ガキの言う事なんか知るかよ! おい、馬を出せ。早馬だぞ。俺様は一人でだってエルサレムに行く!」

「若旦那様!」

 すがりつく召使達を払い落し、兄は家を飛び出して行った。

「クソ兄貴の口下手でどうにかなるかよ! オレも行く! じゃあなにーちゃん、エルサレムで会おうぜ!」

「坊ちゃままで―――あいたっ!」

 引き留める召使を引っ叩き、弟も後を追って飛び出して行ってしまう。残りの弟子や女たちは、それを呆然と見ているしかなかった。その中でやはり異色だったのが、ラビだった。ラビはたった今、自分の親戚で弟子である男から殴られたのにも拘らず、その無礼を憤るどころか、鼻血の心配をしている医者を労わる余裕すらある。

 この人は間違いなく王の度量を持っているのに、王の座に着こうとしない。それは兄が言ったように、ユダヤの王となりローマの皇帝と戦うことが怖いからだろうか。だがラビの言葉は剣にも勝る。我が神は我が父なりと言って憚らない信仰心は、彼が王でないのなら、一体どこから来るというのだろうか。

「怖がらなくていいよ。これは全て正しい事だから。」

「で、でも、ラビ、あれ、完璧、断絶の言葉…ですよ。」

 丈夫が言うと、それに禿岩が反論した。

「何言ってるんだ。そりゃ僕たちは理解できないかもしれないが、ラビは神の子なんだ。なんでも分かっていらっしゃる。ラビの言うとおり、これは正しいんだよ。…ですよね、ラビ?」

 確信はないらしい。しかし禿岩は当たり前のことを言うかのように、弟を諭した。

「禿岩、さっき扉に潰されて脳みそまで出ちまったんじゃないのか? 神が人になどなるもんか。」

「あら何言ってるの。神にお出来にならないことは何もないのよ、ラビがそう言ってたじゃない。」

「神でもお前を、こんなじゃじゃ馬にすることしか出来なかったんじゃないか。」

「………。」

「ぼくとお前の関係が存在していることそのものが、神が万能でない何よりの証拠さ!」

 ペッとイシュは香油の溜まりの中に唾を吐いた。 

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