第九節 救済の二人

 親戚とはいえ、ラビは父親の家系が分からない一族の恥である。いつまでもベツサイダにいることは出来ず、禿岩と丈夫の家がある対岸の町カファルナウムにやって来た。ところが、その町に入ろうとしたとき、入口の取税人と、亜麻の服を着た若者が何か揉め事をしていて、中々納税して入ることが出来なかった。

「頼むよ! 本当に財布を掏られたんだって! この町に、嫁いできたばかりのかかあが逃げちまったんだよ。おれっちが頭を下げないと戻ってくれないんだ。」

「ああ、はいはい、じゃあその辺りの物の言えない野郎から盗んでおいで。この町の納税額は決まってんだよ。これ以上下げられないね。」

「またまたぁ、旦那はいつも差額を着服しててゴーセイな食事をしてるんじゃないっすかぁ。」

「さっ、算術も分からないクセに何を根拠に!」

「ね? ローマに売った金の十分の一なんて言わないからサ、このトーリ! ほらほら、あちらさんの一行からも徴税しなきゃならないんだろ? あの大所帯からちょろっと多く取ればいいじゃん。」

 理不尽だ。

「えーいうるさい! お前は帰れ! おい、お前たちは一体何人だ!?」

 取税人は若者を蹴り飛ばし、こちらを見た。すかさず会計士が駆け寄って言って、財布から素直に十デナリオン《およそ五万円》を取り出す。そして何か、ぼそぼそと取税人と話していた。イシャが興味を持って近づこうとするが、イシュが止める。

「取税人だぞ。ぼくたちの血税をローマに売るばかりか、金を堂々と盗んでる奴らだ。金に汚い連中が話してることなんて聞くな。」

「アンタって、…もういいわ。イシュがそう言うならそうする。でも何話してるのか気になるなぁ…。」

 取税人は十デナリオンを袋に入れると、ラビ達を町の中へ通してくれた。

「へっへっへ…。」

 亜麻の服の若者が、妙な眼でこちらを見ている。金でもせびられたら嫌だと思ったので、イシュは顔を背けてラビの後をついて行った。


 町へ入ると、ラビが来たというので人が集まりだした。ラビは船酔いしたのか疲れたらしく、静かに禿岩の家にいたかったのだが、人が来てしまったのだから仕方がない。多くは癒しを求める人々で、ラビが『うん、いいよ』と言ってくれるのを待ち遠しに行列をつくっていた。生まれたときから両親の穢れを受け継いだ罪人が犇めき合った空間は居心地が悪い。人に酔ったと嘘を言って、イシュは外へ出た。

「イシュ、ラビが奇跡を起こしておられるのよ。何で外に出るのよぉ。」

「うるさいな、あんなに病人がいるんだぞ。穢れがうつったらどうするんだよ。」

「何言ってるのよ。ラビがいるんだから大丈夫でしょ? アンタ、柄悪いわよ、そうやって人を見下すの。」

「やかましいっ! 誰が悲しくて罪人の子供なんかと喋るもんか! 大体乞食共の臭いが立ち込めてて、今だったら会計士からだって香油が欲しい!」

「そりゃ確かに乞食とチューはしたくないけど。」

「ぼくが言ってるのはそういうことじゃないッ!」

 ただでさえ病人や取税人の方がラビに気にかけてもらっていて苛々するというのに。悋気りんきに蝕まれ、歯がかゆい。イシュが爪をがりがりと噛んでいると、もし、と声をかけられた。振り向くと、四人の男が担架に男を乗せて運んできているようだった。どうやら中風ちゅうぶで体が動かない男らしい。またこれは、大層な罪人が来たものだ。よくもそんな恥ずかしい風体を四人もの善良な男と周囲の目に晒せるものだ、と、イシュはぽかんとした。もし、もし、と、男は言ってくるが、全身が動かなくなるほどの罰を受けた罪人の友人と交わす言葉ない。

「もし、此方に、ラビがいらっしゃると聞いたので、どうぞ御通しください。もし、聞こえておられるのでしょう、どうか、どうかお願いしま―――。」

 イシュの堪忍袋の緒が切れた。

「だーっ! うるさい、うるさい! ラビはそんな罰当たりモンにはお会いにならないよ、さ、帰った帰った!」

「ちょっとイシュ、通してあげなさいよ。四人も友達がいるんだからこの人、きっといい人だったのよ。」

「だったら天罰なんか下るはずがないさ。ラビの手を煩わせるまでもない。さ、帰った!」

 身体を動かせない病人の顔は伺い知ることは出来ないが、担ぎ手の一人が食い下がった。

「ではせめて、ラビのお声を聞かせてあげてください。それだけで治るとこの男は信じているのです。もう何十年も寝たきりなのです。」

「アンタ、この人混みが見えないのかい? そんな担架なんか邪魔なんだよ! さっさと、帰れ!」

「そんな、せっかくはるばる来たのに―――。」

「ごちゃごちゃぬかすんじゃないッ!」

 別の担ぎ手が、もう止そう、と、首を振った。くるりと進行方向を変えたとき、中風ちゅうぶの男がこちらを見ていた。

 かくん、と方向転換の傾きで、頭が動いたらしい。その表情は、まるで紅海を前にした祖先たちに似ていたかもしれない。自分は紅海だ。けれど海は、ユダヤ人を約束の血へ導く預言者がいなければ開かれない。そしてそこに、預言者はいなかったのだ。海はそこに、静かにさざなみをたてて横たわる。それ以外の何をする訳でもなく、立ちはだかっていた。

「ったく、とんだ迷惑だ。」

「…アンタ、あの人の顔見て何も感じないの?」

「お前ね、因果応報って知ってるか? あんな体中が動かなくなる罰なんて想像するだけで恐ろしい。きっと先祖代々殺しをやってるか、もしくは奴の母親は人間じゃなくて獣の子種で孕んだのかも。」

 するとイシャも、堪忍袋の緒が切れたようだ。イシュを激しく揺さぶりかける。

「そう言うこと言ったんじゃないわ! あの人、ラビが来るのをずっと待ってたのに! ラビが自分を治してくれるって分かって、四人も友達呼んで頼み込んで、やっとの思いで来たのに! なんでアンタはそうなの? だからラビは振り向いてくれないのよ! アンタには憐みってもんがないのよ!」

「じゃあ何か? お前はラビとどういう関係になりたいんだよ。まさかぼく以外の男を好きになったとか言うんじゃないだろうな?」

「…だったら何よ!」

「だったら尚の事、ラビみたいな憐みはごめんだね。ぼくは唯でさえ後ろめたいことがあるんだから努力しなきゃならない。その為の邪魔をする奴なんか、押し退けてやるよ。…自分が救われるための努力をして何が悪いんだ!」

「アンタって…アンタって…。…最低!」

 キーキーと喚くイシャを放り、イシュは気晴らしに街へ繰り出そうとした。ラビは沢山の病人を癒し、説教をされるから、草臥くたびれるだろう。今晩の晩餐の手配は会計士がするだろうが、自分の小遣いでパンでも買ってこっそり渡せば、株も上がるかもしれない。そう思ったのだ。

「ああ、ちょっと。」

「あ?」

 道を通ろうとしたとき、誰かに呼び止められた。気怠そうなその声からは、イシュの嫌いな罪の匂いがする。自分に声をかけてきた男は、今朝、町の入口で見た男と雰囲気が似ていたのだ。

「市場に行くのかい?」

「そうだけど。」

「ここはローマの造った道だから通行料が必要だ。八アサリオン《およそ二千五百円》よこしな。」

「た、高い!」

「あっしの決めたことじゃねえ。ここいらの相場だよ。」

 渋々一デナリオン銀貨を渡し、お釣りとして三アサリオン返してもらう。最もイシュは算術が出来ないので、本当に誤魔化されていないかどうかは分からない。残った八アサリオンで何を買おうかと露店を散策していると、見知った後ろ姿があった。地面に屈みこんで、やせ細った乞食と話している。会計士だ。彼は生真面目で無駄が嫌いだから、ラビのことは他の弟子に任せて、買い出しに出かけていたのだろう。

「何してるのかしら。」

「ほっとけよ。」

 と、言いつつも、イシュも会計士の行動は意外だった。会計士は以前、神殿での暴動未遂の時も小金を拾い集めていた程がめつい男だ。そんな男が、一レプトンだって持っていない乞食の子供に時間を割いていることが、意外だったのだ。よく見ると、子供の傍には倒れ伏した女が横たわっている。母親だろう。死んでいるのか生きているのか分からない。二人で乞食をしていても、二人は飢えているようだった。

 会計士は暫く子供と何か話していたようだったが、徐に自分の荷物の中からパンを一切れ取り出し、二つに裂いて子供に渡した。子供はそれに泣きながらかぶりつき、母親は震える手で、パンを落としながら、砂にまみれたそれに必死になって噛みついた。だが口が渇いて呑み込めないらしい。会計士は水も与えて、乞食を十分に恵んでやると、その場を去ろうと立ち上がった。

 ところがそれを見ていた、別の乞食たちが、自分にも、自分にもと群がって来たのだ。慌てて会計士は逃げ出そうとするが荷物から既にいくつかのパンが消えて行こうとしていた。あの母子に上げていたのは一人分だったからよかったものの、これ以上集られたら自分たちにも支障が出る。イシュは人混みをかき分け、乞食からパンを取り戻せるだけ取戻し、乞食を追い払った。だがまるで死体に集るはえのように、はらってもはらっても群がってくる。

「だから神殿で拾ったお金があれば恵んであげられたのに!」

「そんな汚い金で神の民を救えるか! お前には神に選ばれた民に生まれた誇りってもんがない!」

 その時、ばっと人混みの中から風の様に誰かが会計士に突進していった。その人物は会計士の腕を掴むと、あっという間に連れ出して行ってしまった。慌ててイシュもその後を追いかける。市場を抜けて、ぐるっと町を一回りし、禿岩の家の近くまで戻る。

「はぁ、はぁ、…ありがとうございます。」

「へっへっへ、なぁに、お互いさまよ。」

 亜麻の服を着たその男は、町の入口で財布を取られたと揉めていた若者だった。町の中にいるということは、財布は取り戻せたのだろう。…何故か会計士がそわそわしている。どうしたのだろうか。

「ところでよう、兄さん達は旅人だよな? おれっちはこう見えてもギリシア語が喋れるんだ。通訳は必要ないかい?」

 ヘレニストという奴だろう。訛りのきつい言葉からは想像も出来なかった。

「特に困っておりませんが…。貴方、奥方には謝れたんですか?」

 すると、罰が悪そうに、服をぴらぴらと弄った。

「それがそのう…へっへっへ、追い出されちまった。当分は自分で食扶持を稼がなくっちゃあ。んじゃ、あばよ。」

 仕事がないと分かるや否や、ヘレニストは再び風の様に走り去ってしまった。


 禿岩の家に戻ると、人々は既に解散していて、ラビは出かけるとのことだった。

「実はね、会いに行く人がいるんだよ。」

「ラビ、カファルナウムに来たことがおありで? 僕がご案内しようかと思ったのに。」

「市場に行くんだ。」

 丁度行ってきたところだと会計士が言ったが、それでも行くという。買い物が用事でないのだから仕方がないだろう。市場での騒動もまだ鎮静していないだろうから、会計士は行くのを渋ったが、今日は禿岩の家で晩餐をしないらしい。となると市場から帰ってくるということもないので、会計士も一緒に行くことになった。大所帯でぞろぞろ大移動していると、羊になった気分である。

「あ、ラビ、市場に行くなら裏口から行きましょう。さっき、ぼく達が出た道の方が、取税人がいないんです。」

「それじゃだめだよ。」

 バカねえ、とイシャはイシュに凭れ掛かった。

「ラビは正々堂々とした方よ。裏口から入るなんて貧乏くさいことしないわ。」

「この大所帯であの入口を通ったら、ひょっとしたら一ムナ《およそ五十万円》くらい取られるぞ。」

「大丈夫よ。」

「お前は何でそう楽観的なんだよ。」

「だってラビは市場の中に入るなんて一言も仰ってないわ。」

「そんな屁理屈が通るか!」

 ラビは市場の入口まで来ると、真っ直ぐに徴税台に座っている男に向かった。先ほど、イシュから八アサリオン取った男だ。男は熱心に何かを読んでいたが、ラビが来るとぱっと顔を上げた。

「こんにちは。」

「……はあ?」

 微笑みかけるラビの言葉数は少ないが、取税人の瞳を真っ直ぐに見つめている。取税人は、普段縁のない挨拶の言葉に戸惑っているようだった。

「私についておいで。君の知りたいことを教えてあげよう。」

「お名前を聞いてもよろしいですか?」

「私は、神の救い。私の父は、貴方の神。」

 すると取税人は目の色を変えて立ち上がり、ラビの手を握りしめた。 

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