第3話
その日俺は夢を見ていた。
美紗はトラックに引かれることなく、俺と談笑しながら家に着く。
玄関を開けると母さんが出てきて、あら早かったのね、なんて言ってるんだ。
早く帰ってきたんだから、ちょっと夕飯の準備でも手伝う? とか美紗が言い出して、三人がキッチンに入る。
俺がへまして小麦粉をひっくり返したところで、タイミングよく父さんが、自身がすっぽり隠れてしまうような人形を抱えて帰ってきた。
はじめは人形が動いているのか思って全員が固まるけど、「やぁ美紗ちゃん、退院おめでとう」なんて父さんの裏返った声に笑い出す。
そして次の日から同じ高校に通うのだ。
……そんな、本当ならおとずれたかも知れない日常の夢を見た。
でもそれは実際に夢でしかないのだと、現実はどこかずれてて、やっぱりこれは夢なんだ。そう自覚した途端に目が覚めた。
俺はもう少し眠っていられればいいのにとベッドにもたれかかった状態で思った。
本当の現実から目を背けたいと、心底思ったんだ。
一階に降りると、俺の姉の皮をかぶった他人が母さんの作った朝食を食べていた。
彼女は俺に気づくと、めいいっぱい口に頬張ったまま箸を振った。
「あ、彼方おはよ~! 早くしないと遅刻しちゃうよ」
あぁ、やっぱりさっきのは夢だったんだと、再度思い直した瞬間だった。
「……学校、行くの?」
俺の通う高校の女子が着る指定制服を着ている彼女を見て、思わず聞いてしまった問いに答えたのは母さんだった。
「あら、当たり前でしょ? ちょっと時期がずれちゃって中途半端だけど、今日からあんたら同級生になるんだから。あんたちゃんと道案内してあげなさいよ」
何言ってのこの子は、と言わんばかりの表情で言った。
母さんは目の前の美紗が本当の美紗ではないと、露ほども感じていないらしい。
母さんも周りの人も彼女を美紗として認識する、俺だけが彼女の存在をおかしく思う。
……そうか、俺だけが不審に思っているって、こういうことだったのか。
ということは本来の美紗が予定していた、今日から高校に通学、というこなすべきだった予定を彼女が普通に行ってもおかしいことではないのだ。
「……そういうことか」
「やっと納得したのね」
俺が納得したのは別のことだけどな、母さんよ。
ココからは学校で(たぶん俺だけが)パニックになった事例を紹介したいと思う。
本当なら朝の登校の時点で姉(を自称する他人)から事の経緯などの話を聞くつもりだった。しかし彼女はもとの姉よりもひどい方向音痴っぷりを発揮してくれた。
ちょっと目を離したすきにすぐに視界から消えてしまう。俺が右に曲がれば左に、左に行けば直進する。通学中の生徒の波を見ろ、もう少し状況を読んでくれ、頼むから逆走しないでくれ。
学校に着く頃には俺がぼろぼろだった。訂正。ついてからもぼろぼろだった。
それもこれも、ひとつは余裕をもって家を出たにもかかわらず、遅刻ぎりぎりになったこと。終いには俺は彼女の腕をつかんで走っていた。
そんな目立つパフォーマンスで登校した俺らを、当然のように教室のベランダから見ているやつはいたわけで。
おかげでショートホームルーム前からクラスメイトに囃し立てられた。今朝のは誰だったんだ? 彼女か! そうかそうか、ついにお前にも春が来たのか、よかったな! 等々……。
朝っぱらから疲れていたために否定する気力もなく、おざなりな返事をするだけで放っておいたら、今度は急な転入生の登場だ。
……察しのいい人はすでに気づいているかもしれないが、案の定俺の姉(のフリした以下略)だ。
本来なら新学期から休学していた生徒が登校してきた、程度の話で済むはずなのに、どこで手違いがあったのか、彼女は転校生、ということになっていた。それだけでも目立つのに。
「彼女はそこにいる日吉彼方のお姉さんだそうだ。ずっと入院していて高校生活は再スタートだそうだが、みんな仲良くするように」
担任の簡単かつ無責任な紹介のあと、肝心な彼女はと言うと。
「えーっと、わたしは…十九になるわけですが、みなさんどうぞ、弟の彼方に接するのと変わりなく、対等におつきあいくださいな」
あっけんからんとしていた。
ついでに年上ぶっていないせいか(ほんとの年齢なんてものもわかったものじゃないが)、あっさりとクラスになじんでしまった。喜ぶところなのか……
転校生というものは、世話焼きなクラスメイトに休み時間中、質問攻めにされる宿命にある。
案の定、彼女もそうだった。
そのおかげで学校にいる間中、俺は説明を聞くことができなかった。別に何食わぬ顔をして話に加わっていってもよかったのだが、女子の多い中で自分の姉に向かって「お前の正体はなんだ?」などと(周囲から見たら)寝ぼけたことを口走る勇気はなかった。
そうこうしていて、結局ゆっくりと話を聞けたのは、下校中だった。
校門を出て、途中まで一緒に歩いていたクラスメイトたちと別れてしばらくしてから、ことの成り行きの説明を求めると、口開いちばんに彼女はこう言った。
「なんだ、彼方君まだそんな話覚えてたんだ。案外しつこいのね」
しつこいとは心外だ。というか美紗の顔したやつから君付けで呼ばれるのも気持ち悪い。教室だとずっと呼び捨てだったくせに。
「だって、『美紗』はそうだったんでしょ?」
きょとんとした表情で言う。
そういえばこいつ家でもこうだったな。
「わたしはココで『美紗』として日常生活を送って、周囲と摩擦を起こさないようにしながら仕事を進めて行かないといけないの。ということは必然的に、『日吉美紗』だったものと極力同じように立ち振る舞わないといけないわけ」
ふ~ん。で、その仕事ってなに? ついでにあんた誰?
「わたしはね、まだ個別名も持ってない死神見習いなの。便宜上の整理番号は九十八。見習いだからまだ現世で人の形をした実体を保てなくてね、だから器が必要だったの」
へぇ~あんた死神なわけ……………って、え? 死神!?
「そうだよ、見習いはね、予定調和な死じゃなくて、突発的な事故死を扱うの。周囲が疑問に思わない程度の、ね。……そんなに驚いた顔しなくてもいいじゃない」
いや、無理だろ、そんな無滑稽な話を信じろとかいうほうが。
「美紗の中身が違うことは認めるのに? 自分勝手だなぁ」
どっちがだよ、勝手に姉の身体乗っ取ってるくせに。
「借りてるだけだってば。…じゃあ証拠みせてあげるよ」
そう言って彼女はポケットから携帯を取り出した。もう入院してるわけでもないんだし、と言って父さんが今朝渡したやつだ。
どうするのかと思って見ていたら、ストラップをむしった。
外した、なんてもんじゃない、紐を無視してむしり取った。
ふわふわとした暖かそうな黒い毛玉の飾りを、手の上で転がし、握りつぶす。
そしてそのまま、おもむろに、力いっぱい投げつけてきた。
当然、俺は反射的にそれを避ける。するとそれは反対方向に歩いていた知らない誰かにぶつかった。
飾り自体軽かったせいか、ぶつかった本人は気づいていないみたいだ。
「あ……彼方君が避けちゃった」
「そりゃ避けるよな、普通は!」
彼女のその至極残念そうな声に反論していると。
ぐしゃん、とも、がしゃん、ともつかない嫌な音が背中からした。
ちょうど、視界の端に入っていた工事中の鉄筋が落ちてきたような。
「……なに、今の音」
俺は振り返らずに聞く。
目の前で彼女はにっこりと微笑んで携帯を開く。
「見習いにはノルマがあるんだよ。今のはわたしがその第一歩を踏み出した音だよ」
携帯に何かを打ち込みながら、一件送信っと。と、たたんでポケットにしまう。
はじめ、俺に向かって投げつけたよな?
「せっかくだから輝かしい記念すべき第一号になってもらおうかとも思ったりして?」
今のふわふわしたやつに当たってたら、俺がお陀仏だったりしたわけ?
「ふふふ~かもね。これで分かった? わたしのお仕事」
よくわかった、俺、やっぱりこいつ見張ってないと俺自身の命が危ないみたいだ。
「邪魔、しないでもらえると嬉しいんだけどな」
含み笑いで彼女は言う。
もちろん邪魔はしない。極力、一人歩きさせないようにするだけだ。
「それが邪魔なんだよ?」
……だったらお前、ここから一人で帰れるのか?
「………………」
彼女は無言で睨んでくる。
とりあえず、この危ない死神見習いは、俺なしじゃいられない。
人間に擬態して、周囲にばれないように生活しつつ(彼女いわく)仕事のノルマを達成するには、彼女の正体を知った俺の協力が必要だ。
たとえば、ここから日吉の家までの帰宅経路の確保。
きっとこれは『日吉美紗』を演ずる限り、もしかしたら中に入ってるやつ自身かもしれないが、方向音痴は直らないだろう。
奇跡的にそこが直ったりなんかしたら、俺は用なしになってすぐに抹殺されるかもしれないのだが。
せいぜいそうならないように、この危険人物を監視しておくことにする。
俺にできることがあるとすればそれくらい…。
「そんな邪魔する暇があるんだったら、わたしのお仕事の手伝いをさせてあげてもいいよ! 休日にお出掛けしても、デートみたいで嬉しいんだけどな!」
「やらない」
なにをさも、誇らしいげなことをさせてあげよう的なノリで言ってのけるんだ。
思わず即答で断ったじゃないか。
「だって、早く仕事が終わったほうが、わたしはここから消えるんだよ? 中身の違う『美紗』は気持ち悪いんでしょ? 追い出して否定したいんでしょ?」
「…今のお前がもし消えたら、美紗はどうなるんだ?」
もしかして元に戻るとか?
俺は期待をこめて聞いた。
「そうだね、うん。元に戻るよ……」
「ホントか! だったら手伝ってやっても―――」
「―――死体、だけどね」
一瞬、目の前が明るく見えたのは、本当に目瞬きもしないうちにダークネスに染まった。
「だって、わたしは魂の抜けそうだった『美紗』の身体に、入れ替わるように入ってるんだから。わたしが消えたらこれは死ぬよ」
これ、と言いながら胸元を押さえる。
「日吉の両親はいい人たちだから、わたし選ぶ器を間違えたかもしれないなぁ」
「いい人だと悪いのかよ?」
両親を侮辱された気がして、つい語気が荒くなった。
「そんなわけじゃなくて、今のわたしがいなくなったら、これは死ぬの。すごく嘆くんだろうな、と思って」
「あ……」
言われて気づいた。今、本当の美紗が死んでいる、という事実を知っているのは俺だけなのだ。
俺だって姉が死んだと思うと悲しかった。
父さんたちだって悲しむに決まっている。
死神を名乗っていても、こいつにも人並みに気遣いの心はあるのか。
そんなことを思いながら盗み見た彼女の横顔は、どことなく、悲しそうな表情をしているように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます