記憶の章

彼女の抗する炎

 アガーテが訪れた町は、まだ大きくはなかった。しかし国もそれほど大きくなく、最前線に最も近い。

 そのころ奇跡を呼べる聖職者は、現代よりも多かった。ただし戦乱の中、急速に数を減らしてもいたが。


「ひどい……」


 街を囲む壁は、アガーテの背丈の二倍ほど。だがあちこちが崩れ、監視する守備兵もなく、自由に出入り出来た。

 山間で育ったアガーテは、街を見るのも初めてだ。けれども目にしている姿が平穏とは程遠いと、すぐに理解する。

 中へ入ると応急の救護所が、あちらにもこちらにも。しかし板を敷いただけの寝台に、負傷者が横たわっている。治癒を行う聖職者も、手当てを行う薬師も全く足りていない。


「わ、わたしが……うぅっ」


 救護所に立ち込める、血の臭い。吐瀉物や汚物の臭い。傷が膿み、死んでいく者の臭い。既に死んだ者の腐敗臭。

 哀れには思う。しかし激烈な悪臭に、アガーテの鼻や喉は耐えられなかった。

 胃を軽くさせながら、思う。こうしている間にも、死んでいく人は居る。助けなくては、と。

 高潔な想いを抱いても、生理的反応をすぐに止めることは出来ない。だからいっそ吐ききってしまおう。そう考えて、喉に指をつっこんだ。


「お願い――元気を取り戻して」


 立ち上がると、すぐ目の前の負傷者から見ていくことにした。

 じゅくじゅくと、汚泥のような膿の溜まる傷口。そこにそっと手を触れ、祈る。人を癒やすのもまた、初めてだ。


「おお……傷が、痛みが」


 唸り声を上げることさえ出来なかったその男は、目にした光景を信じられないと称えた。

 聖職者の呼ぶ奇跡も、傷が酷ければ時間がかかる。度を越せば癒やせないこともある。

 男は手がつけられなく、放置されていたのだ。それを一瞬と言っていいほどの短時間で完治させるとは。これこそ奇跡だと、男は叫ぶ。

 それを手始めに、アガーテは治癒を続ける。百人を超えるころにはもう「聖女だ」と誰かが言い始めた。

 しかし彼女にも限界があった。千人近くも治癒させただろうか。目が眩んで、立ち上がれない。


「限界ですね。我が教会でお休みください」


 そう言ってベッドを用意したのは、いつの間にか助手のようなことをしていた聖職者だ。

 次の日も。その次も。そのまた次も。アガーテは救護所を回り、癒しを与える。もちろんその間に目にした、不調を抱える住人もだ。

 瀕死の人間さえ、たちどころに完治させる。それはその国にとって、毎日千人ほどの兵士が補充されるようなものだ。

 どちらが諦めるか、根比べとなっていた戦闘にその国は勝利した。

 しかし前線が遠退いても、アガーテの仕事は減らない。戦争でなくとも重傷者は出るし、飢餓や不衛生によって病を患う者は居る。

 それでもやがて、聖職者の手に負えない患者は付近から居なくなった。するとアガーテは、国じゅうを回ると言い出す。


「わたしの手が届く限り。アマルティアに祈る元気くらいは、与えてあげたいのです」


 そのころ既に教会は宗旨を変え、アマルティア教団となっていた。その幹部らも、聖女の巡礼と称してアガーテの国内行脚を歓迎した。

 ある時。地図にも載らぬ小さな村で、彼女は一人の少女に問われる。


「なぜ聖女さまは、汚い病人にも平気で触れるの? そんなことをして楽しいの?」


 その少女は、以降の歴史にも名が出てこない。だがアガーテにとって、間違いなく大きな分岐点を与えた。

 はっ、と。息を止めるほどの問いだった。

 怪我や病気をした者を、汚いと思ったことはない。しかしそうでなく、ただそこにある吐瀉物をどう思うかとなれば、喜んで触りたいとは思わない。

 ずっと誰かを救いたいと考えていたでなく、どこからかといえば『誰か』に力を与えられたから。


「ごめんなさい。今すぐに、きちんと答える自信がないわ」


 明日答えると約束して、アガーテは次の日の朝まで、ずっとそのことを考えた。

 すぐに思ったのは、家族のことだ。父と母。その兄と妻。突然に居なくなった彼らのせいだろうか。

 いや違う。関係ないとは言わないが、遺体を拾うことさえ出来なかったのだ。あれを理由に、誰かを癒やしたいとはならない。

 ではやはり、アマルティアの影響か。

 いや違う。あの『誰か』は、乞われて癒やすことはあっても、あくまで手段としてだった。それを目的に、他を忘れるようなことはなかった。

 ひと晩。己を見つめ直すには、それほど長い時間とも言えまい。けれどもアガーテは一睡もしないまま、それでも生涯で一番に爽やかな笑顔で朝日を浴びた。


「昨日の質問に答えさせてほしいの。わたしはね、わたしが癒やしてあげたいから癒やすの。それはわたしの我がままで、喜びなの。その為になら、何が汚いとか何が苦しいとか思いつきもしないわ」


 聞いた少女は、よく分からないと言った。けれども聖女さまは、元気になった人を見るときの目が一番きれいだとも言った。

 それからも、国内行脚は果てしなく続く。アガーテが一つの場所に留まり、何百人を癒やす間に、国の面積が増えるのだ。

 しかしどんなに果てなき道のりであろうと、必ず全ての人々を癒やす。アガーテが折れることはなかった。


「そろそろ限界のようね……」


 およそ六十年。旅を続ける人生が、終わりを迎えようとしていた。

 アマルティアに不思議な力を与えられようと、それ以外は普通の人間なのだ。老いることは避けられない。

 ある夜。どこかの町からお礼にと貰った天幕で、アガーテは自身の細い息を眺めた。最近はもう、一日に十人ほどしか癒やすことが出来ない。

 死ぬことは仕方がない。望みは完遂していないが、そもそもが全ての人々を癒やすなど大それている。


「母さまのところへ行くのかしらね」


 その呟きが、痰に絡む。水を、と手を伸ばそうにも見当たらない。そうだ、世話係の侍祭が「水をもらってくる」と出ていったばかりだ。

 苦しい。咳を払っても、息の通る気配がない。

 ――死ぬ。

 予知の力はなかったが、これは間違いないと分かる。もう少し楽に死ねたほうが良かったけれども、それも仕方のないことだ。

 ――やりたいことをやって死ねるのだから、随分と我がままに生きられたわ。

 満足して、死を受け入れる。

 だが苦しい。喉を手で押さえて、思いつく。

 ――そういえば、自分を癒やしたことはなかったわ。

 これでうっかり生き延びてしまったら、次はやるまい。一度くらい、戯れも許されるだろう。

 そう思い、己に癒しを与える。

 何とも言い表しようのない、極上の心地よさが訪れた。強いて近いものを探せば、山間で見つけた自然の温泉だろうか。

 手足の指先まで。髪の一本ずつにまで。風の動きや、未だ形を取らぬ命の種まで見えるようだ。

 ああ楽になった。生き延びてしまったから、また我がままを続けられる。そう思い、その日はそのまま眠ろうと思った。


「あなた……誰?」


 世話係が戻ってきた。

 そっと音を立てぬよう、天幕に入ってくる。気付いて顔を向け、目が合うとそう問われた。


「わたし?」

「あなたは――いえ、聖女さまは!? アガーテさまはどこ!?」


 その女性からは聞いたことのない、金切り声。ぶるぶると震え、天幕の外へ出ていった。そこに居る護衛に、聖女さまの行方を聞いている。

 まずいことが起きたらしい。何かはまだ分からなかった。

 騒ぎを聞きつけ、共に行脚を続ける司教の声も近付いてくる。聖女さまがどうしたのかと。

 世話係の侍祭は、水をもらいに行ったこと。護衛に留守を頼んだこと。慌てふためき、言葉を何度もつかえさせて説明する。


「大馬鹿者!」


 怒声が響き、金属音がした。護衛の聖騎士が持つ剣が、鞘から抜かれたように思う。

 一瞬遅れて、天幕の中へその女性が倒れ込む。首からは、大量の血潮が噴き出していた。


「聖女を失えば、我ら全員無事ではすまない! 探せ! 教団の命運は貴様らにかかっている!」


 どうしたことか。あの優しい司教は、気でも違えてしまったのか。

 何がどうなったものやら、わけが分からない。ただどうも、自分がここに居るのはまずい気がする。

 アガーテは夜陰に紛れ、戦場近くに張っていた宿泊地から逃げた。どうしたことか、天幕やら荷車やら全ての物が大きくなって、身を隠すのには困らない。

 近くの町を目指して森を歩き、ほら穴で仮眠をとった。

 朝になってまた歩き始め、見かけた小川で顔を洗い、喉を潤す。

 ――わたしの手、小さい。それに皺がない。

 それでようやく理解した。アガーテは若返ったのだ。なぜと考えるまでもなく、自分に癒しを使ったからに違いない。

 背丈を測ってみたりして、おそらく十二、三歳の身体だと分かった。『誰か』と出会ったころだ。

 ――これからどうすればいいんだろう。

 正直に起こったことを話して、教会に戻ればいいだろうか。何だかそれでは良くない気がする。

 誰かに相談しなければ、一人では心許ない。信頼出来そうな者を頼りに、近場の教会を訪ねることにした。

 街は大騒ぎだ。

 聖女が居なくなった。いや死んだのだ。情報とも呼べぬ噂が錯綜し、民は悲しんでいた。

 だが中に、悪しざまに言う者も居た。


「あんな守銭奴が、聖女なもんか」


 また、分からない。

 アガーテが癒しを与えるのに、対価を要求したことはない。どうしても礼を受け取って欲しいと言われれば貰うが、あまりに高価な物は返すように頼んでいた。

 しかし噂を信じるならば、晩年の聖女は高額の寄付を収めた者しか癒やさない。そういうことになっていた。

 真実を知りたい。そう願って訪ねた教会も、混乱していた。頼ろうとした司教や司祭も目を血走らせ、見ず知らずの子どもに時間を与えてはくれない。

 中の数人が漏らしたのは、「教団が破産する」と。

 ――わたしは商売道具だったんだ……。

 目の前が真っ暗になった気がした。老衰して死のうかという歳まで、生活面は教会に任せきりだった。どうやって今日の食事をすればいいかも思いつかない。

 華美な装身具も着けなかったから売れる物もなく、どうにか流れ者の孤児を装ってパンを一つ恵んでもらう。

 同じように、いくつもの教会を巡った。アガーテの知識に、教会以外がなかったのだ。

 ――わたしは結局、癒やした誰のことも知らなかった。

 日々、傷や病気を癒やすだけで。彼らがなぜそうなったかまでは考えていなかった。彼らがどうやって生きているか聞く余裕を持たなかった。

 次はみんなのことを知ろう。せっかくやり直せるのだから、もっと話そう。その為には、自身の居場所を作らなくては。

 やがて小さな村の教会に辿り着いた。そこは女の司祭が一人で切り盛りしていて、教団からの援助などは届いていなかった。

 それでも司祭は、アガーテに腹いっぱいの食事を与えた。司祭が自分で畑を耕し、収穫したものだ。

 司祭の名はアリシアと言った。

 誰が王だとか、どの神が正しいとか、そんなことよりも大切なものはある。アリシアはそう教える。

 アガーテは名を偽り、教会の手伝いをすることにした。アリシアともっと話したかったのだ。

 しかししばらくして、前線から遠い筈のその村にも戦が訪れた。自警団さえない村は、あっという間に隣国の領地となる。

 アリシアは宗旨など言う通りに変えるし、出せと言う物は何でも差し出す。だから誰も傷付けるなと交渉し、勝ち取った。

 その後アリシアは、その国の最も大きな聖堂へ召された。アガーテもアリシア付きの侍祭として。

 もともとその国は、教会の発言力がそれほど強くはなかった。それに利用されたのかもしれない。アリシアは大司教の伴侶となり、いつしか教団の代表となった。

 もちろんそれは、アマルティア教団としてだ。

 アガーテはそこで、奇跡の業を学んだ。『誰か』に与えられた癒しは、どうしようもないときの最後の手段にすべきと考えたから。

 アリシア会とイセロス会が戦いを始め、アガーテもそこへ身を置いた。

 もう気付いていた。誰にも傷が絶えず、声もあげられぬほど病むのは戦争のせいだと。

 目の前で倒れていく騎士や兵士たちを癒やし、アガーテも戦った。争いをやめねばならないと。

 アリシアも同じ意見だった。だが死んだ。暗殺されたのだ。

 その後アガーテにも暗殺者がやってきた。癒ししか知らぬ身では、身を守ることは叶わない。

 凶刃に倒れ、また若返った。

 それから何度、アガーテは人生を繰り返しただろうか。武闘神官の技術も学び、奇跡の業も誰より習得し。

 四百年以上を、アガーテは戦い続けた。


「癒しの要らない世界を! 争いのない世界を!」


 アガーテの願いは、未だ叶う兆しさえない。

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