第二章-19
世界の果てではないかと疑うほど人里離れた山奥に、その家はぽつんと建っていた。いわゆるダーチャと呼ばれる別荘である。家の前にはこぢんまりした雑草まみれの畑があって、その先には下の湖にまで至る緩やかな坂があった。
坂に寝そべって夕暮れ時の空を見上げていると、二日前にぎりぎりのカーチェイスを繰り広げていたことが夢の中の出来事ではなかったかと思えるほどだ。
バイクは畑の前に放置してある。できる限りあの恐ろしい殺人鬼から距離を稼ごうとして、二日間ほぼ徹夜で走り続けた結果、バッテリーが相当傷んでしまったが、今はまだ交換する気力が起きない。
他の皆は、今頃何をしているだろうか。
途中から高速道路を外れたリュー。彼は前日の小休憩時に電話をかけてきたきりだ。そのときの伝達事項は三つ。自分が無事でありミハイルの標的ではなかったこと、ミハイルをモスクワまで引き連れて行くわけにはいかないため、ひとまず自分が一人で国連の会議に参加するということ、そして狙われている面々は今はとにかく逃げ切ることのみを考えるようにという指示だ。タイマを国連会議に連れて行くというリューの当初の目的は果たされないことになったが、それを残念に思う様子はなかった。声と映像だけでは伝わらなかったというだけかもしれないが。
リューについては何の心配もいらない。問題はデイタとシャークの方だ。何度も電話をかけはしたのだが、今のところ返事はない。最悪の想像が頭に浮かんでは消える。その繰り返しが、ここしばらくの間タイマの中で起こっている。落ち着かない。
ここで二人を待つ気だった。
アルカは今、家の中で料理を作っているらしい。ロシアにも家宅侵入罪くらいあるだろうし、フードプリザーバーの中を漁って食材や水を得るのも、屋上の太陽電池から電力を引いてクッキングヒーターを動かすのも、れっきとした窃盗行為だ。だが、アルカと相談してそのことについては黙認しあうことにした。
何故ならこの家の所有者家族は、三年ほど前に財産を放棄してPネットへ旅立っている。書斎を探索したとき、その旨を記した紙を発見したのだ。
それにしても。もし……もし、デイタとシャークが、既にミハイルの毒牙にかけられていたら――。来ない待ち人を、アルカと二人ここで待ち続けることになるのだろうか?
アルカ。
初めてアルカに出会ったのはいつだったか記憶にない。物心ついた頃には既にしょっちゅう一緒に遊ぶ仲だったと思う。同い年で、なおかつ家が近かったのだ。小さい頃のアルカは男勝りで、まるで姉貴分のように振る舞っていたのを微かに覚えている。あれが今のように丸くなるのだから、百年の歳月というのはやはり恐ろしい。
考えてみれば、百年の間、アルカと離れて過ごした記憶はほとんどない。人類史上でもこれほど長きに亘って親しくしてきた男女というのは数えるほどしかいないだろう。これで一度も恋愛関係に陥ったことがないのだから、逆に不思議なくらいだ。
思えば百年もの間にはいろいろあったものだ。小学生のとき、ヒーターが異常動作を起こしてサウナのようになった病室から、風邪で入院中のアルカを助け出したりとか、テーマパークに一緒に出かけて、突然故障して止まった観覧車に二人で閉じ込められたりとか、中学生のとき、複雑な経緯を経て一緒に体育館に立てこもったりとか……。ひどい事件ばかりだが、あの頃の苦労の共有がなければ百年続くような絆も生まれなかっただろう。それにしても、大事件が若い頃にばかり起こっているのには、やはりジャネーの法則が関係しているのだろうか。
「いやいや、百歳になった今とて、現に大事件に巻き込まれているじゃないか」
きっと、大事件に遭いやすい体質、というものがあるのだろう。あたかも、シリーズものの漫画や小説の主人公のような。随分と、非科学的な話になってしまうが。
料理ができた、と呼ぶ声がする。タイマは立ち上がって背中の草を払うと、ダーチャの扉を開けて中に入った。
「折角だし、外のベンチで食べるか。中、まだ埃っぽいだろ」
埃を理由にしたが、これは数日前から内心実現してみたいと思っていたことだ。どことなくPネットを思わせる、トレーラーの中という閉鎖的な空間よりも、自然に包まれた開放的な場所で飯を一度食べたかった。拒否されたらどうしようかと、提案の後で一瞬不安になったが、アルカは不思議そうな顔をしてから、「そだね」と賛成した。
キッチンのクッキングヒーターには大きな鍋が乗っていた。タイマが近寄って上蓋を取ってみると、ふんわりとした芳香が漂った。自然と口元が緩む。
「おおっ、ボルシチか」
「ロシアっぽいでしょう?」
「ウクライナ料理だけどな」
蓋を元に戻して、アルカに微笑みかける。
「しかし、料理をするのだって、六十七年ぶりだろ。よくボルシチの作り方なんて覚えてたな」
「体が覚えてるのよ。雀百まで踊り忘れずって言うでしょ。我ながら、人間の記憶力って凄いと思う」
「そっか。そういえばアルカ、お姉ちゃんと一緒にしょっちゅう料理してたもんな」
アルカはそれを聞いて目を伏せた。タイマが慌てて謝ろうとすると、アルカは首を振ってにっこり笑った。
「大丈夫だよ。私、お姉ちゃんは今もこの世界のどこかで生きてるって信じることにしたから」
「そう……だよな。あんないい人が核爆発なんかに遭うはずないもんな」
「そうだよ。お姉ちゃんを探そうと思ったら、時間はそのうちいくらでも作れる。だから、今は何も心配せず、ボルシチ食べよう」
アルカは鍋の取っ手を持って、二十一世紀のロボットのようなカクカクした足取りで体の向きを変えると、よろよろと歩き出した。その姿があまりに危なっかしくて、タイマは思わず声をかける。
「お、おい。大丈夫か」
「大丈夫、大丈夫。タイマは先に行って待っててよ」
「ったく、おまえって奴は何でもそう……」タイマは苦笑して、アルカに手を差し伸べる。「ほら、片側、持ってやるよ。一緒に行こうぜ」
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