第二章-18



 シャークはついにトラベルバッグのチャックを開ける。中には食料や水の入ったコンパクトな袋の他、ハンドガンやらスナイパーライフルやら弾薬やら、物騒なものがいろいろと詰まっていた。シャークはそれらの中から、迷うことなくサバイバルナイフを取り出して、左手で逆手に構えた。


 髑髏やら十字架やらを飾り立てたあなたにはお似合いの武器だが、敵は百メートル先だろう、と脱力して乾いた笑みを浮かべる代わりに、デイタはPDAのホーム画面に表示された赤いアイコンに瞬時にタッチして、同時に音声でもってコマンドを入力した。


「CMA150R40D60」


 次の瞬間。シャークの腹の少し前辺りに、五十センチ四方くらいの淡いピンクのパネルが突然現れて浮かんだ。そして、シュッと音を立てて何かを吸い込んだ。


 シャークはあっけにとられて、目の前の空間に浮いているデイタのDゲートをじっと見つめた。流石のミハイルも、これにはたまげたろうと判断する。これほどのチャンスは他にない。デイタはすぐにトラベルバッグに飛びついた。スナイパーライフルを取り出し、速やかに弾薬を装填すると、地面に立てた片膝に右肘を乗せて構える。なめらかに指を滑らせると、安全装置のレバーがカチリと音を立てた。


 街灯の光を頼りにした照準合わせもそこそこに、引き金をゆっくりと引く。


 銃口から煙が吹き出したときには、既に直径数ミリの弾丸が撃ち出されている。それは微動だにしないミハイルの隣をすり抜けて、ミニバンのタイヤを、豆腐でも切るようにずたずたに引き裂いた。


「これでおあいこだ。ところでシャークさん、誰が永遠の二番手ですって?」


 あっけにとられて見ていたシャークは、突然笑い出した。サバイバルナイフを手の中で器用に回し、首を傾けてデイタを見る。


「ライフルをぶちかます気概があるのなら、いっそのことタイマにだって宣戦布告してやれ! タイマのようなバカのためにアルカを諦めたりするな!」


 ライフルの反動でずれた眼鏡を直しながら、「はあ、何のことですか」と尋ねてみる。答えはない。シャークは既に走り出している。ミハイルまで、約五十メートル。


「俺の本気を、見せてやるぜ」


 デイタはあまりに突然の行動に、目を丸くすることしかできなかった。「なんて無鉄砲な」


「おい、デイタ。ここは俺に任せて、おまえは先に行け!」


「な、何言ってるんですか急に。冗談はよしてください」


「行ってアルカを安心させてやれ」


シャークはデイタに背を向けたまま、芝居がかった調子でそう言った。


「いいかデイタ、女ってのはな、砂糖と、スパイスと、それから素敵なものいっぱいからできているんだ。何が言いたいのかというと、つまり、女ってのは大切にしなきゃならないもんなんだよ」


 いかにも至言であるかのように適当なことを言い放つシャークの後方で、デイタは慌ててライフルを再度構える。しかし撃てない。これまでシューティング・ゲームで射撃の腕をさんざん研ぎ澄ませてきたデイタにも、三人が一直線上にいる状況で、シャークに当てずにミハイルを倒す自信などない。


「いいか、タイヤさえ治せばバイクは動く。バックパックに修理キットが入ってるから、それを使え」


「しかしですね」


 サバイバルナイフで勝てると思ってるんですか。


 ミハイルが銃をシャークに向けている。もう一度、Dゲートを使ってシャークを守れないかという想いが脳裏に浮かんだが、すぐにそれを打ち消す。これほど離れてしまっては、Dゲートを出現させるべき座標を決定できない。シャークがあんなに素早く走っていてはなおさらのことだ。


 理性が、シャークはもう助からないと言っている。


「ここで、共倒れになっちゃダメ……だよな」


 倒れたバイクに駆け寄り、その影に膝をついてバックパックをまさぐる。さっきあれほどあってよかったと思った武器でさえ、今のデイタには邪魔でしかなかった。縦長のバックパックに頭を突っ込んで、PDAの明かりを頼りに探しに探す。目当てのものは一番奥に埋まっていた。


 なんてことはない、宇宙服用と銘打たれた応急テープの袋と、小型の空気入れがセットになった袋である。シャークとミハイルがバイクの向こう側で立てている騒音をできる限り頭から追いやって、パンクしたタイヤのバルブから空気入れを差し込む。


 空気の注入が自動的に開始されると、タイヤの別の部分から勢いよく空気が吹き出し始めて、それで破れた箇所を特定することができた。デイタはよし、と頷いて、その部分の上からテープをしっかりと貼り付けた。しばらく待ってから、空気入れを外す。汗を軽くぬぐって、ようやくバイクの向こう側に目をやった。


 足を踏み出してはナイフを振り回すシャークが、ミハイルを押しているように見える。そのせいかミハイルは、銃さえ満足にシャークに向けられない様子だ。これなら、一人で逃げるような真似をしなくても、ひょっとしたら……。


 そんな微かな希望を持った瞬間、デイタの頭上を銃弾がかすめる。遥か後方で爆発が起こったらしく、道路が僅かにチカチカと照らされた。


 的外れもいいところだったが、助かったのはおそらく、シャークが射撃の構えに入ったミハイルの銃の先を握ってとっさに持ち上げたからだろう。


「何アホみたいに突っ立っている、さっさと逃げろ」


 その体勢のまま、シャークが振り返って射抜くような視線で睨んでくる。ここは冷静な判断を下すべきときだ、と大脳新皮質が告げている。ここは自己保身に走るべきだ、と大脳旧皮質も告げている。


「わかりました。シャークさんも、必ず生き残ってください。そして合流しましょう」


 シャークはミハイルと向かい合って左手で銃を掴んだまま、右手を軽く挙げてみせた。デイタはバックパックを背負うと、シートに上った。アクセルグリップを握る。モーターのうなる轟音とともにバイクは加速し、ミハイルとシャークの姿はたちまち後方に押し流されて見えなくなった。


 応急テープの調子は完璧だ。空気の漏れを完全に防いでいる。テープが抵抗になって思うようにスピードを出せない、というようなことも起こらなかった。


 今頃どこにいるかわからないタイマとアルカに想いを馳せていると、急に喪失感がこみ上げてきた。


「シャークさん、あなたは誤解しているようだ」ただひたすらに暗い空を見上げながら、そっと呟く。「百年も友人として親しくつきあってきた人に、そんな感情を抱くものか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る