第二章-16
「何で俺たちが狙われるんだ?」
「特に理由はないだろう。奴は台風のように、破壊活動を行いながら歩を進めるんだ。二十年前にロシアで最初に確認された後、世界中を渡り歩いた結果、データとして公表されているだけでも千二百万人が奴のために《殺害》され、ほぼ同数が被爆している」
「千二百万だって? そ、そんな奴がどうして放置されてるんだよ」
そう訊くとリューは拳を硬く握って、机を殴りつけた。
「その千二百万のうちの一割は兵士だ。それだけ言えば十分だろう。各国政府と国連は、現在ミハイルを倒すことより、ミハイルから人々を逃がすことに尽力している」
ああ、世界はどうなってしまったんだ。タイマは頭を抱えた。死にたくない、と思った。PDAがこの手にある限り本当の意味で死ぬことはないが、そんなこととは関係なく、この世界では絶対に死にたくないと思った。
シャークがハンドルを切った。タイヤが滑り、車体が激しく揺れる。アクセルを限界まで踏み込んだまま、カーブを強引に曲がったのだ。そこまでしてもなお、後ろの車との距離が縮まることはなかったし、リューによるところの《核爆弾》の雨が降り止むこともなかった。
しばらくして、リューが重々しく口を開いた。
「ハバロフスクの国連駐留軍に、SOSメールを送った。流石に日本大統領がいるとなれば、おそらく援護に来てくれるだろう。その場合、タイマの存在はばれることになるだろうが、ここで何もかも失うわけにはいかない以上、仕方あるまい」
一行は黙り込んだ。デイタが机を叩く。
「しかし、そうしたらまた大勢の人が死んだり被爆したりすることになるんだろう」
「そうだが、ミハイルを足止めすること自体は確実にできる。そうすれば、俺たちは生きて目的を達成することができる。どちらが大切か考えてみろ」
「まあ、それは確かに……」
デイタは何か言おうとしたが、すんでのところで自重したらしく、タイマは安心した。この期に及んで他人の命など優先されてはたまったものではない。だが、重い空気が霧消したわけではなかった。
「あのう」次に挙手して発言したのはアルカだった。「皆でもう一度Pネットへ戻って、ミハイルをやり過ごしてから、タイマがもう一度ハッキングして戻ってくればいいんじゃないかしら」
「それは名案だ。流石のミハイルも、僕たちに戻ってくる力があるなんて思っていないだろう」
デイタはアルカに賛成したが、リューはそれを却下した。
「それは、無理だ。あんな奇跡はもう二度と起きない」
「お、おい。何の確証があってそんなことを……」
自分のハッキングによってPネットを脱出できたと信じている可能性の高いデイタやアルカの前では、体面上そう否定せざるを得ない。だがとうのタイマも実は、リューの言ったことは正しいかもしれないと思っていた。ハッキングを今にも行おうとしたときの、PDAのあのホワイトアウトは、けして自分の力によるものではない。もう一度試したときも同じことが起こるとは限らないのだ。
「いずれにせよ、ハバロフスクの軍が到着しさえすれば、後はどうにでもなるはずなんだ。シャーク、どうだ。それまで何とか逃げ切れそうか」
答えはなかった。シャークは無言のまま、大きくハンドルを切った。高速のタイヤが横滑りするとともに、大瀑布、あるいは突進してくる象の群れを前にした時のような、振動と重低音が襲ってくる。
カーブを曲がりきった時、シャークは息も絶え絶えにこう言った。
「嘘はつきたくねぇから、正直に言うぜ。無理だ。ハバロフスクまで何百キロあると思ってるんだ? 後五分で国連軍が来てくれるとでも言うのかよ? 今、奴との距離は五百メートルしかない。最初の一発以外に被弾してないってだけで奇跡みたいなものなんだぞ」
「そんな……」
タイマは何も言えなかった。努力してもどうにもならないことだってある。シャークが無理だと言うなら無理なのだろう。無念だった。Pネットに戻るのを少し前までは楽しみにしていたじゃないか、と思ってみても、少しも気が晴れはしなかった。
「俺のミスだ」リューが言った。声は淡々としていたが、唇をかみしめている。「アンチ・ミハイルという団体の報告で、ミハイルが極東ロシアにいることは知っていたんだ。だが俺は、彼に襲われるような町に立ち寄りさえしなければ安全だと高を括っていた。済まなかった。俺は今から権力の受け渡しのため、秘書に電話をしよう。おまえたちはDゲートを使ってくれ。どうせPネットに行くのならば、できれば被爆する前がいい」
敗軍の将のようなリューの言葉に、どんよりと暗い空気が立ちこめた。誰も動かない。皆、逃げるという選択をとるのが怖いのだ。だが、このままの状況が続けば、誰もDゲートを使わなかったところで、やがてトレーラーは爆裂し、どうせPネットへ戻ることになる。しかし、それもまた逃げるという消極的な判断を下しているということには変わりない。このままではだめだ。取るべき第三の道はないだろうか?
「ちょっと待て!」
タイマは両手の平で机を叩いて、他の全員の顔を見回した。皆が僅かな期待を目に宿して見返してくる。運転中のシャークまでもが横目でタイマを見た。俺って本当にカリスマがあるのかも、と生まれて初めて思った。
「奴はこれまで高速道路のような場所で攻撃行動をとったことがなかったんだな。それなのに、今は何故かそれを実行している。それには何か特別な理由があるはずだ」
シャークを除く三人は、目配せして軽く頷き合っている。タイマは調子づいて、机を何度も叩いて「そう、それだ!」と怒鳴った。
「つまり、奴は俺たちを、日ごろのやり方を曲げても倒すべき敵だと考えているわけだ」
「ふむ。そうだとしたら、今ここでDゲートを使うのは相手の思う壺というわけだね。しかし、どうして僕たちを敵だと?」
「決まってんだろ。ここに日本大統領がいるからだ」
再び、沈黙。自信たっぷりに言ったのに。何故反応がないのかと怪訝な顔をしていると、アルカがリューの顔を伺いながらおずおずと口を開いた。
「私は、タイマだと思うな。どこかで、タイマがこのトレーラーの中にいることに気付いたんだよ」
「僕もそう思う。ミハイルは、タイマがPDAデータ化の是非に影響をもつことを恐れた誰かの刺客として、僕たちを消しに来たに違いない」
「その可能性が一番高そうだな。俺も、アルカの案に賛同する」
デイタもリューもアルカに賛成したので、アルカはほっとしたように息を吐いた。このままでは多数決もとい数の暴力によってアルカの説が決定事項になってしまう。タイマは慌てて反論した。
「ちょっと待って。俺がこの現実世界に存在すること自体、この五人を除いては誰も知らないはずじゃないか。この状況で狙われるというのはおかしいだろ。ミハイルがエスパーででもない限り」
タイマ自身に限って言えば、現実世界に来てからは誰とも会っていないし誰にも見られていないと断言できる。この五人のうちで考えるならば、赤の他人との接点は、デイタがフェリーの出入港時に、受付と最低限の取引をしたくらいだ。どれだけ考えても他には全く思いつかない。
「デイタなんじゃないのか? 他の全員にアリバイがあるじゃないか」
自分に疑惑が回ってくるとデイタは困惑して、首をぶんぶん振った。
「まさか。たかがフェリーの受付が、僕の正体を看破した上で、それを空前絶後の大量殺人者にたまたま伝えるなんて話があると思う? そもそも、僕はこの世界で全くの無名だという理由で、受付に対応する役としてリューに抜擢されたんだぜ」
アルカはデイタの弁解を聞きながら首をかしげていたが、それが終わると手を挙げて発言した。
「ミハイルだって無事に国境を越えたいはずなんだから、検問のないフェリー会社と癒着しているのかもしれないじゃない。ひょっとすると、デイタがお金を払うためにかざしたPDAからデータが盗まれて、タイマと深い関係にあることがバレて……」
「いや、いくらなんでもセキュリティ上そんなことが起こりうるとは……」
四人で頭を突き合わせて考えていると、トレーラーは再び轟音を立ててカーブを曲がった。その衝撃に誰もが倒れそうになり、些末なことに悩んでいる場合ではないと思い知らされた。そのタイミングを見計らったのか、シャークが運転しながら振り返った。その顔が、どこか必ずしも遠くない場所で起きた爆風によって赤く点滅し、まるで地獄の悪鬼のように見えた。
「限界だ。向こうは小回りが利く。カーブを曲がるごとに詰められている。かといって、このカーブ地帯を抜けてしまうと、もはやここまで近寄られたこのトレーラーはでかい的に過ぎなくなる」
ディスプレイ上の地図に目を走らせる。あと二回のカーブを最後に峠を抜け、その先には平原を突っ切るまっすぐな道路が百キロ以上延々と続くだけだ。アウトインアウトでカーブを曲がってくるミハイルの車は、三百メートル後ろに迫っている。
諦めるものか。こういうときは、考えに考えれば、きっと最高の打開策が見つかるに決まっている。少なくともこれまで読んできた小説や漫画の中ではそうだった。こういう場面に差し掛かったとき、小説や漫画のキャラクターはどう事態を切り抜けていただろう。タイマは思い出そうとするが、頭の中に霧がかかったようで、どういうわけか膨大な数読んだはずの本の中身は少しも浮かばなかった。結局自分の頭で考えるしかないのだな、と悟った瞬間、タイマは何か思考の濁流の中をさらさらとした銀糸が流れていくのを見たような気になった。思わず手を伸ばして空をつかむ。幻の銀糸が一本だけ、指に巻きついて残った。これが答えだ、とタイマは確信した。
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