第一章-5


 気がつくと、タイマはふさふさした地面に寝転がっていた。


 がばりと身を起こす。それとほぼ同時に、そばで残りの四人も同じ動作をしているのが目の端に入った。


 何だか、身体が重い。それに、Aスーツに覆われていない手の平と指だけが、じりじりと焼焦がされるように熱かった。その感覚に驚いて、ふと空を見上げると、ちょうどそこで太陽がぎらぎらと殺人的な光を放っていた。あまりの眩しさに、タイマはすぐに目をぎゅっとつぶり、その上から手で押さえた。


 しばらくそうしていると、誰かがタイマの肩を叩いた。指の隙間から細目を開けて確認すると、中腰になったデイタの姿が目に入った。


「しっかし本当に戻って来られるとはなあ。この空気、懐かしいね。呼吸するのも久しぶりで、思いの外気持ちがいい」


 大げさに手を広げて深く息を吸ったり吐いたりしているデイタを見ていると、タイマは重要なことを思い出した。


そうだ、呼吸しなければ死ぬではないか。次第に胸が苦しくなってきたような感覚はそのせいだったのか。タイマは手間取りながらも、横隔膜を上下に動かして空気を取り込むことに成功した。かつてはさも簡単なことのようにこなしていたはずなのだが、今となっては全く面倒な作業だった。何故デイタはこんな過酷な環境に簡単に順応できているのだろう、と思った。


 そこにアルカがぎこちない足取りで歩いてきた。そばまでやってくると、アルカは呼吸に苦労しているタイマを見て噴き出した。笑い事じゃないぞ、と睨み付けてやったのだが、アルカはその表情を見る前にデイタに話しかけていた。


「ここはどこなのかな。日本だとは思うんだけど」


「うん、周りの植生を見るに、その可能性が高いと思う」


 太陽の方に目を向けないよう気をつけつつ、慎重に周りを見回すと、辺り一面にはクローバーとタンポポの草原が広がっていた。おずおずと手を伸ばして、タンポポの花弁に触れてみる。小さい頃、野山を駆けた時と紛れもなく同じ感覚が指先に生じるとともに、ああ、本当にここは現実世界なのだな、という実感がタイマの中に生まれた。


 そこにリューがしっかりした足取りで草を踏み分けて歩いてきた。


「ここは東京の郊外だな」それからタイマに向き直った。「無事に帰還することができた。感謝する」


 しょっちゅう時代劇みたいになるリューの言葉遣いはあまり好きではなかったが、感謝の言葉を聞くのだけはやぶさかではない。感謝の言葉を受ける資格がないのが惜しまれるくらいだ。


「いや、これは俺がハッキングしたわけじゃなく……」


「いいじゃないか。結果を出したことに間違いはない」


リューはタイマの言葉を遮って口角を上げた。


「さっき不可解なことが起こったのは俺にもわかっているが、おまえの行動によって結果が出たことは確かだ。知っているだろう、俺は過程よりも結果にこだわるタイプでな」


リューは、ほら見てみろとばかりに、周りの景色を手で指し示してみせる。


「ようこそ、現実世界へ。タイマ」


 六十七年ぶりの現実世界、か。デイタとアルカはどうだか知らないが、タイマ自身には実はさしたる感動もなかった。


 Pネットの中と比べると、天井も壁もないこの現実世界は確かに開放感に満ちあふれていて、目に映るものの種類も遙かに多い。


 しかし、Pネットにあった快適さはまるでない。慣れない呼吸は面倒でたまらないし、真夏のものと思われる太陽はぎらぎらと輝き、少しも遠慮することなく身体をじりじりと焼いてきた。まるでヴァンパイアにでもなったかのように不快な気分だ。生ぬるい液体――汗だ、ちくしょう――が頭から湧き出してきて、不快極まりない。すぐにでもDゲートを使ってPネットにとんぼ返りしたいくらいだ。せめて自分の力でハッキングによる勝利を掴み取った上で来ていたのならば、また違う感想も得られただろうが……。


 タイマは決心した。流石にリューを土壇場で裏切るような真似はできない。だが、国連の会議とやらへの参加を果たした暁には、すぐにPネットに戻ってやる。その頃には、おそらくアルカやデイタも、現実世界で過ごした最後の記念としてやっておくべきことは全て済ませていることだろうし。


 黙って猛暑に耐えていると、リューが気さくに話しかけてきた。


「素晴らしい光景だ、そうだろう? さっきまで見ていた、何の面白みもないPネットなどとは大違いだ。ごらん、あの草花を。永遠に残すべき大自然の姿だと思わないか」


 タイマは、そこまで素晴らしい光景だとは思わなかった。Pネットでは、その気になればこの数十倍美しい風景をコミュニティの壁全体に映し出すことだってできる。そんなことも知る機会がないほど短い時間しかいなかったくせに、Pネットをバカにしているリューの様子が気に障ってたまらない。だが、リューは自信に満ち溢れた表情をしているし、アルカやデイタは既に現実世界に適応して草原を歩き回っている。だからタイマは本心を隠して、「その通りだな」と言った。するとリューは満足げに頷いた。


「そうだろう、そうだろう。おまえにこの素晴らしさを知ってもらいたいと思っていたんだ」


 タイマは心の中でため息をついた。好きなもののごり押しほど面倒なものはない。Pネットの中でも、マイナーなものをひどく好む親友によって、コンテンツをしょっちゅう紹介されていたのを思い出す。コンテンツは消費している間にもどんどん増えていくのだから、人気がある、つまりある程度のクオリティを保証された王道作品ばかりを消費するようにしないと損だと、何度もタイマは説いて聞かせたものだが、それでも彼は困ったように笑うだけだった。


 まあ、素晴らしい景色だとは思えないにしてもだ、とタイマは考える。それは確かに、こんな貧相な草原でも、このまま消えていくのを指をくわえて見守るよりは永遠に残した方がいいに決まっている。その点はリューに賛成だ。


そういえば、現実世界のデータ化計画の目的のひとつは、絶え間なく進む環境破壊から自然を守り、今のままの状態で永遠に残すことなのだと、リューから先程聞いた。つまり、リューはそれに賛同しているというわけだろう。それで、同じくPネットの恩恵を大いに受けてきた自分を利用してお偉方を説得しようとしているわけだ。


 それにしても、Dゲートをつい最近まで使おうとしなかったリューが、態度を一変させて現実世界のデータ化の推進に回るなんて、妙なこともあるものだ。会わなかった六十七年の間に自然愛護にでも目覚めたとでもいうのだろうか。


「タイマ、あれを見てくれ」


 デイタが何かを見咎めて、こちらに歩いてきて側方を指さした。そちらを見ると、地平線上に何か動く物体が見えた。明らかにこちらに近づいてきている。しばらく待っていると、次第にそれの形状がはっきりしてきた。トレーラーだ。草原を突っ切って爆走してくる。舗装道路上でもないのに、凄まじい速さだった。みるみるうちに近づいてきたトレーラーは、やがて速度を落とし、タイマたちから百メートルくらいのところで停止した。


 近くで見ると、そのトレーラーは一般的な大型車よりもさらに大きかった。とはいえその手の車両にありがちな野暮ったさはなく、黒光りする流線型の車体はスタイリッシュの一言だった。


「さっき俺が呼んだんだ。意外な場所に出ちまったからな」


 車体に手の平を押しつけてにやりと笑いながら、シャークが言った。


「ほら、どうした。乗ってくれ。国連の会議が開かれるのは八日後だぜ。ぼやぼやしている時間はない」


 出入り口から中に入ると、爆走してきたはずのトレーラーはなんと無人だということがわかった。それを指摘されたシャークは自慢げにこう言った。


「おまえたちがPネットにいる間に、軌道エレベータから新世代の人工衛星がたくさん打ち上げられて、GPSだけで車を完璧に制御できるようになったのさ」


「へえ、そりゃ便利だな」


 科学技術の発展に関してはもはや、PDAに頼らぬ不老不死の実現くらいでなければ、たいして驚くこともなくなっている。どんな技術が開発されようが、「でもPDAの方がずっと凄い」の一言で片付けられるのだから。歴史から予測される科学技術の限界というものがあるとしたら、PDAという携帯端末がこの世に生まれ出たとき、人類はとっくにそれを越えてしまっているのだ。


 トレーラーの前方には一応の運転席があり、ハンドルが備え付けられていた。他に計器類は何もない。運転席の前に窓はなく、代わりに巨大なディスプレイに外の風景が映し出されていた。ディスプレイの中央に前方の、左右に側方や後方の景色が表示されているのに加えて、視界を遮らない程度に様々な情報が散りばめられている。


 トレーラーの側方にも窓はひとつもなく、ただざらざらした質感の黒壁があるのみだった。しかし子供のように好奇心旺盛なアルカが詳しく調べたところ、実はその壁もまたディスプレイとしての機能を備えており、その気になれば壁のどの部分でも、窓のように外の風景を映し出せることがわかった。


 トレーラーの内装を見れば、それはまさしくキャンピングカーとしての機能を全て備えていた。運転席の後ろには五人分の席が設置されていた。その後方にはキッチンとテーブルがあり、ちょっとしたリビングの様相を呈している。その奥は壁になっていたのだが、左側に扉がついているところを見ると、どうやら二つ目の部屋があるらしい。歩いていって扉を開け、中を覗き込むと、そこが寝室であることを確かめることができた。狭い通路の両脇に、窮屈そうな三段ベッドが二つ並んでいる。通路を進んでいくと、やがて壁にぶち当たった。残念なことに三つ目の部屋はないらしい。


ベッドと壁の間には、少し広い空間が余っていた。リューとシャークが物置として使っているらしく、そのスペースの左半分には、バックパックやトラベルバッグなどが大量に放置されていた。


右半分にはもっと人目を引く物があった。それは大型の二輪車だった。ハンドルもタイヤもシートもマフラーも大きく派手で、しかもサイドカーまでついている。そんなものが、何と二セットある。同じ二輪車とサイドカーが二台ずつある、という意味だ。


 タイマが運転席のそばへと戻ってきたとき、シャークは自分のPDAを前面のディスプレイと同期させ、行き先と経路を細かく設定していた。


「そういえば、今回の会議はどこであるんだ?」


 タイマが何の気なしにリューに訊くと、「モスクワ」という予想もしなかった言葉が飛び出した。タイマはげんなりした。


「国連本部のある東京でやればいいものを……」


「いや、今は国連本部がモスクワにあるんだ」


「え? また遷ったのか。何でまた」


「それは……いや、すぐにわかるさ」


 リューは何故か目を反らした。それから、席に座っていたデイタとアルカに問いかけた。「君たち二人は確か、家に戻りたいと言っていたな」


「そうだね」


「ええ」


「わかった。モスクワへ行く前に、君たちに故郷を見せてやる。シャーク、頼む」


 リューは決意の籠もった声でそう言った。その後、彼はしばらく口を利かず、ただじっと壁の一点を見つめていた。


「寄り道の設定は済んだぜ」


 シャークがぼそりと言った。同時に、トレーラーはゆっくりと動き始めた。


無人運転なのだから皆くつろいでいていいはずなのだが、デイタやアルカを含め、誰も会話を開始しようとしない。何となく、嫌な予感がした。



 日が暮れて、あっという間に辺りはすっかり暗くなった。それから一時間もしないうちに、タイマは眠気を感じ始めた。Pネットの中にはなかったその感覚が、当たり前のように襲ってくる。思考が支離滅裂になって、すぐに元に戻る。そして自分がその一瞬の間に何かの夢を見ていたのだということを悟る。そのときにぼんやりと見ると、左右の席に座っていたデイタとアルカもまた、こくりこくりと首を揺らしていた。端から見るとこのように見えるのか、とタイマは妙に納得したが、思考は既に限界だった。再び夢に落ちていく誘惑に抗えない。


「やめた方が……彼らは多分……」


「彼はそんな奴では……植え付ければ容易に……」


 リューとシャークが何か話している。そうか、彼は現実世界でずっと暮らしているから夜が来ても眠くならないのだな。


 タイマの意識は、そんな何の根拠もない確信を最後にぷっつりと途切れた。

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