第12話 虚無討伐 その3
紋章は意思の力を糧に発動するもの。故に、虚無も強い意思に反応する。
虚無は暴走する力である。無意思のままに、周りにあるものすべてを巻き込む、ただの力である。しかし、人や動物は『襲う』。それはひとえに、意思に反応するがゆえであった。
うつむき加減で佇んでいた虚無は、ゆっくりと頭を持ち上げた。
瞳のない目がまっすぐにカミュを見る。いや、見ているわけではない。ただ、その『視線』を感じたカミュがそう思っただけだ。
まずい!
虚無の体から暗い影が立ち上った。それは形を作り虚無の前方に現れる。
カミュはとっさにイリーナの腰を抱きかかえて思い切り後ろに飛んだ。体の動きを邪魔する下生えの木々に阻まれながら、二人は地面をすべり転がる。
その直後、炎の塊が先程まで二人がいた場所を凄まじい速さで通過していった。猛烈な熱を振りまき木々や枝を焼きながら。
鼓膜を突き破らんばかりの轟音がそれまでの静寂を破る。
イリーナを庇うように覆い被さるカミュの背中を、再び熱波が襲った。
質量を持った豪炎とも言うべきものに襲われたのだ。
それは生木にすら火を付けた。着弾した木はへし折られ、周辺の木々と共に煙をあげている。
二人がいた場所には大きく空間が出来ていた。虚無がいるその場所まで、まっすぐに道を作ってぶすぶすと燻り焦げくさい臭いを放っている。
イリーナは、カミュの腕の中でかすかに体を震わせた。傭兵などという集団の中にいても、ここまでの暴力的な力に本能がそうさせずにはいられなかった。
「ちっ。走れ、イリーナっ!」
「う、うんっ」
震えているイリーナを無理やり立たせると、その手を引きカミュは走り出した。
虚無はまだ動き出していない。『顕現』した紋章の向こうにいる。
『顕現』するものは紋章そのものである。たとえ獣などの形をしていても現れるものは紋章そのものなのだ。それ故に、顕現させれば、その間紋章使いは紋章の加護を失う。
意思のない虚無ならば、いま『顕現』の向こうにいるのはただの抜け殻に過ぎなかった。
カミュは荒い息を吐き、走り続ける。にわかに邪魔する蔦や枝を払いのけながら、先ほど見た虚無のことを考えた。
虚無の出した顕現は炎の狼だった。
虚無同様に、半ば白骨化した姿の体高二メイルはあろうかという炎で出来た狼だった。それが強烈と表現するしかない炎の弾を吐いた。あの虚無がどの程度『動く』かは定かでない。だが、燃える物が多いところで戦うのはどう考えても不利だ。
まして、今の自分では……。
カミュは前を走らせているイリーナの背中を見る。
……今は逃げるしかない。
二人はひたすらに逃げ続ける。どこをどう走ったか分からない程に。少しでも速く、一歩でも先へと進める道をひたすら走り続けた。
気がついたときには二人はボロボロだった。
カミュはチュニックの袖やズボンのあちこちにかぎ裂きをつくっただけに止まらず、剥き出しになった肌には火傷も負っていた。一度意識してしまうとひりひりと痛み出し、顔を顰めている。
イリーナも似たようなものだ。幸いカミュが覆い被さっていたせいか、火傷に関しては左手と左の臑あたりが少々赤くなっている程度だった。ただ、こちらも服はあちこちにかぎ裂きが出来ている。
ただ、そこまでしゃにむにに逃げた成果か、二人は無事逃げおおせていた。
カミュは一度振り向き、後ろから追ってくる者がいないことを確認する。
そして、ようやく足を動かす速度を緩めた。それにつられて、イリーナもようやく足を止める。肩で息をする二人の体にどっと疲労感が襲ってきた。がくっとひざが折れ、自然とその場に座り込んでしまう。
「……はあ、はあ。もう、なによあれは……」
「……虚無だろ……」
「……そんなことは分かっているわよ……」
いつもなら切れ味のいい怒鳴り声が響くところだが、今ばかりはそんな元気は見られない。
「……紋章を使えば楽に逃げられたのに……」
「……あんたはどうするのよ……」
「……なんとかしたよ……」
「……出来もしないことを。私にそうさせたいなら、あんたもはやく取ってきなさい……」
安心感か。二人は乱れた呼吸が収まるまで、そんな言い合いを続けた。そして人心地がついた頃、二人はソルウェインの待つ陣へと向かって再び歩き始めた。
「イリーナッ! カミュッ!」
陣に着いた二人を見たソルウェインが慌てて駆け寄ってくる。
二人は陣へと戻ってくるなり再び座り込んでしまっていた。
実際のところ、一番酷いのはカミュの火傷で、あとはそれほどの怪我はない。擦り傷程度だ。しかし、ようやく安心できる場所に辿り着き、張り詰めていたものが切れてしまったのである。
「ソル兄、ごめん。連絡する余裕なかった」
カミュは素直に詫びる。全力で戦えればという思いがまったくないわけではない。しかし、理由がどうあれ、やれなかった以上はただの任務失敗だった。
「兄さん、ごめんなさい……」
イリーナも申し訳なさそうにガックリと肩を落としていた。
ソルウェインは、へたり込んだ二人に駆け寄らずにはいられなかったが、思った以上にしっかりとした反応にほっと胸を撫で下ろす。
「ふうぅ。いい。とりあえず、治療しろ。話はその後で聞く」
「分かった。俺の荷物って、そのままにしてある?」
「ん? ああ。使ってしまっていいと言っていたから、持ってきた薬なんかと一緒にしまってあるはずだ」
「ん、分かった」
売るために持ってきた品の中に傷薬も麻布に塗り込んで貼るやけどに効く薬もあったことをカミュは思いだしたのだ。あれで応急処置はできると踏んだのである。
しかし、
「カミュ、そのまま座っていて」
イリーナはそう言うと立ち上がり、ゆっくりと立ち目を閉じた。
眉根に皺をつくって意識を集中させる。すると、イリーナの額に水の紋章が浮き上がり、ついで彼女の体を透き通った青い気が覆いだした。
そして、
「『顕現』」
彼女はポツリと呟く。
途端、彼女の体を覆っていた青い気が収まり、代わりに巨大な白い蛇が姿を形作り始めた。ふわりふわりと浮かぶように青白く光るその巨体をイリーナに巻きつかせながら、長い舌を出し入れしている。
「ぬおっ」
突然目の前に現れた大蛇にカミュは思わずのけぞった。現れただけに止まらずカミュの方に頭を伸ばしたものだから堪らない。
「大人しくしていなさい」
そんなカミュを額に汗を浮かべたイリーナが制す。そして、白い大蛇の赤い瞳に真紅の光が宿った。
すると、カミュの体に無数にあった擦り傷ににじみ出る血が止まった。
「……おぉ?」
あっと言う間に傷は渇き、塞がれていく。やけどで突っ張った皮膚も、まるで周囲から侵食されるがごとく小さくなり、ついにはなくなってしまった。
「ほう……」
それを見ていたソルウェインの口から感嘆の声が漏れた。
カミュの傷がある程度癒えたことを確認すると、イリーナはそれまでの険しい表情を和らげる。すると、巨大な白蛇は大気に溶けるかのようにかき消えていった。
「ふぅ……」
イリーナは鬱陶しそうに、顔に張り付いていた長い髪を払う。その表情は、先ほどよりも色濃い疲れを見せていた。
「……こりゃあ、すごいな」
「どんなものでも治せるわけじゃあないけどね。少々の怪我なら直せるみたい」
「なかなか珍しい能力だな。紋章ってのは反撃の力なんて言われているくらいで、たいがい戦うための力のようだが」
目を丸くして体のあちこちを触って確認しているカミュの横で、ソルウェインはしきりに感心する。
「……そうみたいね。司祭様も珍しいって言っていたわ」
イリーナは疲れを見せる顔にうっすらと笑みを浮かべると、少し誇らしげにそう答える。
そんなイリーナに、少し元気になったカミュが普段と同じ調子で減らず口を叩いた。
「むうぅ。お前は商売敵だ」
「は?」
イリーナは疲れた表情のまま、突然そんなことを言い出すカミュに顔を向けた。
「いや、こんな力があったら俺の薬なんていらないし」
「……はあ。馬鹿なこと言ってないで、はやく薬を持ってきて」
「へ?」
「この力はね、私自身には使えないのよ。そもそも顕現の力なんだから、一度やるだけでどれだけ疲れると思ってるの」
「あ……」
カミュは口にした言葉とは裏腹に、ものすごく感動していたのだ。そのせいで、実に基本的なことをすっかり忘れていたのである。
顕現なんか、いくら能力の解放を抑えてもそう乱発できるものではない。無理してやってしまえば、待っているのは虚無化である。
呆れ顔のイリーナにカミュは恥ずかしそうにすっくと立ちあがる。そして、そそくさと自分で作った薬を取りに走り出した。
「それでも使ったんだな」
離れていくカミュの背中を目で追いながら、ソルウェインが含みのある笑みを浮かべる。
「……仕方ないじゃない。放っとけないんだもの」
答えるイリーナの顔には、微かに朱が差していた。
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