星川さん家のあんずちゃん
春森灯色
~夏休みと過去と友達と~ 1
小さい頃の夢を見た。小学校に入るより前、まだお母さんと手をつないで保育園に通っていた頃の記憶。
あの頃の私には、とても仲のいい友達が一人いた。保育園は違うところだったけど、早く帰ったときや休みの日にはずっと二人で遊んでいた。私たちはいつも一緒だった。でもその子は、ある日突然いなくなった。
あとになって、その子は私の頭の中だけの存在だったのだと聞かされた。寂しい気持ちを抱えた私が、想像で作り出した友達だったのだと。その子の名前を伝えても、そんな子どもはどこにもいないと言われた。一緒に描いた絵も、一緒に作った花冠も、私一人でやったことになっていた。私とその子はいつも一緒にいたのに、大人の誰もその子の姿を見たことがなかった。
そんなあの子の夢を見た。二人で手をつないで、どこかに向かっている記憶。行き先はどこだっただろう。確か、遠いところだ。
あの子は「一緒に行こうよ」と言ったけど、私は行けないと言った。「だって、もうすぐ暗くなるもん。危ないよ」と。もう陽はだいぶ傾いている。そのくらいの時間になると、私たちは明日会う約束をして別れるのだった。
本当は存在しないのだとしても、あの子は確かに私の友達だった。温かい気持ちが、まだ胸の奥に残っている。
でも。
私はもう、あの子の顔も名前も思い出せない。
◇◇◇
今年の夏は涼しい、と私は坂道を歩きながら思った。もう夏休みに入ったというのに、今日の気温は三十度を超えるかどうかといったところだ。太陽がほぼ真上にあるこの時間でも、街路樹の下を通っていれば汗一つかかない。セミの鳴き声は、いつもの夏のようにうるさいけれど。
テキストの入ったかばんが重たい。午前中、私は市外にある塾の夏期講習を受けていた。中学の友達はだいたい近所の塾で済ませるから、行き帰りは一人きりだ。気楽ではあるけど、一人で歩いていると、荷物が余計に重いように感じる。
バス停から家まで続く道を進んでいくと、後ろから小さいものが近づいてくるのがわかった。十秒も経たないうちに、甲高い声が聞こえてくる。
「あかりおねえさん!」
振り返ると、小さな女の子がぱたぱたと駆け寄ってくるところだった。薄いワンピースをひらひらさせている姿が涼しげだ。背中まで伸びた髪が少し茶色に近いのは、元々なのか日焼けのせいなのかわからない。
「あれ、あんずちゃん。久しぶりだね」
星川あんずちゃん。御年五歳の、可愛らしい女の子である。
あんずちゃんと出会ったのは、三か月前のこと。ゴールデンウイークに、星川家はうちの町内に引っ越してきた。
こんにちは、とあんずちゃんはぺこりと頭を下げた。ご両親と一緒に、近所に挨拶をして回っていたのだ。
「
名乗るだけなのに、ちょっぴり誇らしげ。小さいのにしっかりしてるわねえ、と私の隣でお母さんが笑顔になる。この辺りは子どもが少ないから、この子は有名人になるだろう。私はあんずちゃんの視線の高さまでかがんだ。
「私は
「あかりおねえさん? 一緒だね!」
とてもうれしそうに言われて、私は首を傾げた。
「何が?」
「『あかり』の『あ』と、『あんず』の『あ』が一緒!」
一文字しか合ってないけど。
私は返答に困ったけれど、あんずちゃんはそもそも返事を求めているわけではなかったようで、その場で楽しげにくるくる回りだした。なんだかよくわからないが、楽しそうで何よりである。
それからというもの、あんずちゃんは私の姿を見かけるたびに子犬のように走り寄ってくるのだった。どうやら気に入られたようだ。
「今日は幼稚園、お休みなの?」
日陰の方にあんずちゃんを手招きしながら、私は訊ねた。あんずちゃんは少し離れた幼稚園に通っている。いつもカラフルなペイントの通園バスが送り迎えに来るのだ。
「おねえさん、今は夏休みだから、ずっとお休みだよ?」
あんずちゃんはきょとんとしながら答えた。
知らなかった。幼稚園にも夏休みってあるんだ。私の通っていた保育園にはなかった気がする。
すっかり日焼けしたあんずちゃんは、小さな虫かごを肩にかけていた。虫取りをしていたのだろう。私も昔はよくやっていた。
「そっか。虫取りしてたの? 何か捕まえた?」
私が言うと、あんずちゃんはかごを持ち上げて見せてくれた。大きな虫でも入っていたら思わずのけぞるところだったが、幸い(あんずちゃん的には残念なことに)中身は空っぽだった。
「なかなか見つからないの」
あんずちゃんは悔しそうだ。私は少し驚いていた。この子が何かを探して見つからないなんて、珍しい。
実はあんずちゃんには、不思議な力がある。たとえば、あんずちゃんが友達とかくれんぼをしていたとする。鬼はあんずちゃんで、きっかり二十秒数えてから目を開ける。するとたちまち、あんずちゃんは隠れている友達を次々に見つけてしまうのだ。
鬼ごっこだって負けなしだ。友達がどんなに遠くに逃げても、いつのまにか近くにいて捕まえてしまう。他にもいろいろ、あんずちゃんには得意なことがある。
このことはもちろん、あんずちゃんのお母さんも知っている。でも、「便利よね」と笑うだけで、あまり気にしていないようだ。なんでも、あんずちゃんの家系では、幼少期に不思議な力を使えることは、それほど珍しいことではないらしい。
「何の虫を探してるの?」
セミやバッタならその辺にいるけど、と私は指を差す。あんずちゃんは首を振った。
「セミもバッタもいらない。あんずはね、シンシムシを探してるの」
シンシムシ? 紳士虫? 全然聞いたことがない。新種?
「シンシムシはまほうの虫なんだよ。白くて小さくて、おとなには見えないんだって、お友達が言ってた」
ああ、想像上のやつか。びっくりした。あんずちゃんは想像力が豊かで、時々こういうことをする。実際には存在しないものを、まじめな顔をして探し回るようなことを。
うーん、と考え込んだあんずちゃんは、ふいに顔を上げた。
「あ、かえでちゃんが呼んでる」
私もつられて振り向く。耳をすましてみるとどこからか、あんずちゃーん、と呼ぶ声が聞こえてきた。子どもの声だ。
さっきあんずちゃんがやってきた方から、女の子が走ってきた。
「急に行っちゃうからびっくりしたよー」
ほっとしたように言って、あんずちゃんの隣に並ぶ。背はあんずちゃんと同じくらいで、黒髪をおさげにした女の子だ。肌も白く、おとなしそうに見える。
「だって、あかりおねえさんがいたんだもん。あ、あかりおねえさんは、かえでちゃんのこと知ってる?」
「ううん、知らない」
初めて見る子だ。ついでに言うと、あんずちゃんが友達を連れてくるのも初めてだ。まあ近所に子どもがいないから仕方ないんだけど。
かえでちゃんというらしい女の子は、くりくりした目でこちらをじっと見つめて言った。
「
話し方もおっとりとしていて、可愛らしい。
「かえでちゃんはすごいんだよ!」
あんずちゃんがぴょんぴょん飛び跳ねながら言う。
「『橘』って漢字が書けるの!」
「え、すご」
普通にびっくりした。私、書けないけど。
かえでちゃんは屈託なく笑った。
「すごいでしょ。あかりちゃん、よろしくね」
「うん、よろしく」
五歳児が私の知らない漢字を書けることにショックを受けつつも、その笑顔に癒される。小さな子が本当にうれしそうに笑うのを見ていると、こっちもうれしくなる。
「ねえねえ、かえでちゃん、おねえさん!」
あんずちゃんが声を上げた。
「あっち行こうよ。シンシムシはいないけど、おっきいカマキリがいたんだよ」
「カマキリ? あんずちゃん、虫見つけるの上手だねぇ」
「あんず、セミもトカゲもつかまえたことあるよ! あかりおねえさんも一緒に行こ!」
「いや、私はいいや」
断ってしまった。だって虫なんて見たくないし。
あんずちゃんのいいところは、相手に対して怒らないところである。全然気を悪くした感じもなく、そっかー、とつぶやく。
「じゃあまた明日、別のことして遊ぼうね、おねえさん!」
元気に言って、かえでちゃんと一緒に走っていった。冷夏といっても、さすがに走ったら暑いと思うんだけど。十三歳の私にそんな元気はない。
「今日は久しぶりにあんずちゃんに会ったよ」
宿題のプリントを広げながら、台所にいるお母さんに話しかける。かつおだしのいい香りが漂ってきていた。
「あんた、小さい子好きだったのねえ」
意外そうに言われて、うん、とうなずく。自分でも意外だった。一人っ子なのと近所に子どもが少ないのとで、自分より年下の子と会ったことはほとんどなかった。
同い年の友達と遊ぶのとはまた違った楽しさがある、と思う。楽しいというか、癒されるというか。あんずちゃんと一緒にいると、素の自分でいられる気がする。
そういえば、とお母さんがコンロの火をつけながら言った。
「あんたにもあったよねえ、不思議な力」
あんずちゃんの話題で思い出したらしい。私はふーん、と気のない返事をした。
「そうだっけ?」
「あったあった、予知みたいなやつ。お客さんがインターホン押す前に『来たよ!』って騒いだり、迷子の犬の場所をすぐに当てたりしてたでしょう」
「へー、全然覚えてないや」
私は嘘をついた。
誰にも言っていないけど、私はまだその力を持っている。
予知じゃない。単に人の居場所がわかるだけだ。人が近くに来ればそれを感じるし、誰かの姿を思い浮かべれば、だいたいどっちの方角にいるのかわかる。小さい頃はみんなわかるのだと思っていたけど、どうやら私だけらしいと気がついたのは小学校に入ってからだった。
実生活に役立つことはほとんどない力だ。言って周りに騒がれるのも嫌だから、忘れたふりをしている。あんずちゃんのお母さんと違って、うちのお母さんは何でもしゃべってしまうタイプだからだ。
あんずちゃんはどうするのだろうと思う。今はまだ本人も気にしていないだろうけど、もっと大きくなって、自分が人とは違うことに気がついてしまったら。
食器を運びながら、私はそんなことを思った。
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