金魚悠泳

おこげ

第1話

 鍵を差し込み、玄関の扉を開ける。帰宅する私を出迎えるのはいつもと同じ、空虚な暗闇と低いモーター音だった。



 ずっとひとりで、抜け殻のように、漫然とした日々を送るだけ――。


 お金はある。仕事だってそうだ。忙しくもそれなりに責任を担う立場になった。けれど心はからっぽのままで、周りを分厚い膜が覆っているみたいに……私の居場所はこの世界のどこにもないような気がした。


 廊下の灯りを頼りに壁のスイッチをつける。楽だからと長きに渡り愛用しているパンプスを乱雑に脱ぎ捨て、リビングへと向かった。


 1LDKの自宅は我ながら殺風景なものだ。ミニテーブルを中心に手前にはソファが、向かいにはニュースを観るくらいにしか使っていないテレビがある。衣類や化粧品の類いは全て寝室の方に追いやられており、私自身は大抵ここで浅い眠りに就いている。



 ――ちゃぽん。



 水を弾く音がリビングに広がり、私は部屋の脇に眼をやった。そこには小振りの水槽があって、中では一匹の金魚が蝶の翅のようなヒレを翻しながら悠然と泳いでいる。


 茜空みたいな色をしたこの子とは、私が上京するよりも前――実家で暮らしていた頃からの付き合いになる。


 自宅と会社を往復するだけの私。

 大事なものを失った、泡のような私の過去を知る、唯一の同居者。



 金魚が水面を尾ヒレで蹴った。


 ――ちゃぽん。



 ふいに甦るのは、あの日の後悔。


 高校二年生の夏祭り。この子と出会い、彼との最後となったまたたきの夜空。


 宮池玲乃みやけれの近江夏生おうみなつきの記憶。人生に無限を感じ、青春を抱きしめ笑い合った、遠く過ぎ去りし日々の思い出。


 いつしか脚は進んでいた。

 水槽の前に立つと、ガラスケースに映る自分がこちらを見つめ返していた。その姿に涙を流した十七歳の自分が重なり、やるせない想いが胸に疼きをもたらす。


 祭りの翌日、夏生はこの世を去った。

 突然のことだった。何の前触れもなく、誰にも別れを告げないままに彼は川に落ちた。

 死とは気紛れで、誰にでも必ず訪れる。多くの場合、それは寿命が招き寄せるものだけど、極稀に理不尽で残酷な理由で人は死に引きずり込まれてしまう。


 それなのに死は生きている者にはひどく冷たく、融通を利かせるなんて優しさも甘さも持ち合わせてなんかいやしない。


 私の腕に無数に残る、苦痛と悲鳴の軌跡がその証明だ。


 夏生が消えた暮らしに耐えられず、私は幾度となく彼を捜した。だけどその度に暗闇が視界を塞ぎ、私の歩みを狂わせてはこちらの世界へ連れ戻してしまう。

 とても悔しかった。どれだけ必要だと訴え、祈っても、彼に会うことは二度と許されなかった。何度も泣いて、何度も叫んで、そう繰り返しているうちにいつしか喪失感だけを残して、彼への想いは私の中から少しずつ薄らいでいった。


 今の自分が薄情なのか、それすらも分からない。だけどこの子が、私に思い出させてくれる。十年の歳月が経った今も、色褪せない景色のままに。



 金魚がこちらを向いた。


 私と顔を付き合わせ、ぽこぽこと小さな気泡を出している。その空気の粒たちがそれぞれ、私の記憶の一部に思えた。

 こんな風に思い出も割れてなくなり、この子を見ても夏生を思い出せなくなる日が来るのかな……。

 いつか訪れるかもしれない遠くない未来。

 そう思うと切なさが私の胸を突き刺し、視界は涙でぼやけてしまう。



 「嫌だ。そんなの、絶対に嫌」


 願いが口を衝いて出ていた。


 「忘れるなんて駄目。ずっと一緒にいたかった。あの頃に戻りたい。夏生の傍にいたい……会いたいよ」



 そんな私の思いに呼応するように、金魚はくるりと身体を回転させる。



 ――瞬間、世界が変化した。



 例えるなら、水族館にあるようなガラストンネル。


 突如吹き付けた風に驚き顔を伏せた私が次に眼にしたのは、そんな美しい青の景色だった。先ほどまでいたはずの部屋は私と金魚を残して姿を消し、私たちは水のなかを進んでいた。


 呆気に取られる私。

 すると頭上を走り抜けていく、いくつもの映像が。


 私と夏生だった。格好や景色から全て夏祭りのものだと分かる。


 過去が眼前で再生されていく。


 ――私への想いを告白した夏生。

 それを聞いて涙を流す私。

 好意を受け、恋を知った、夏の夜。

 祭り会場の境内、大柳おおやなぎの下で。

 祭りが終わり、家まで送ってくれることになった。

 なんだか名残惜しくて、バス停のベンチに腰掛けた。踏み込んだ話も出来ないままに、気付いたら二時間も過ぎていて。

 あとは一人で帰ると言った私。

 家族に見られるのがちょっぴり恥ずかしかったから。

 「また明日」と口にする。

 少し寂しげな表情で、夏生は「おやすみ」と言って歩き出した。

 私はそんな彼の背中に手を伸ばしたけど……引き留めないままにやめてしまった――。



 あの時、夏生を引き留めていたら何か変わっていただろうか。想いをもっとぶつけていたなら、私の心には晴れ間が見えただろうか……。

 いや、無理だろうな。そんなことすれば、きっと今以上に虚しさが積もる。



 そこで映像は渦となって消えていき、代わりに別のものが映る。


 金魚だ。


 私は眼前でゆったりと身を揺らす金魚を見た。

 この子はあの日、屋台ですくったものだ。画面の金魚もおそらくこの子だろうが……。



 ふと思った。屋台で出回るような金魚が素人の手でこれほど長生きさせられるものなのか。

 それにこの種の金魚が田舎町の夏祭りにいたことも。目玉商品として扱う露店もなくはないだろうが、少なくともそんな金魚すくい屋があの祭りにあったなんて事実は、その年まで見たことも聞いたこともなかった。


 当時はまったく気にも留めなかったことなのに、今はとても重要なことのように思える。


 映像を観ても間違いなかった。プールにいる金魚は細身の和金、黒の出目金と定番のものばかり。私と暮らすこの金魚以外は――。


 いや、一匹だけいた。プール全体を見下ろす映像のなかで、この子とは別にもう一匹、特徴的な子が。紅白の紋様が鮮やかで、レースのような薄く透き通るヒレが印象的な金魚だった。その金魚はまるで寄り添うように、我が家の金魚と泳いでいた。


 そこに一本のが浸かる。

 私が見守る隣で、夏生は波を立てないようにを潜ませ、金魚がその上を通るのを待ち構えていた。


 やがて掬い上げた茜色の金魚。

 小袋のなかを泳ぐ姿に微笑む私たち。

 残された紅白の金魚は、まるでいなくなった金魚を捜しているようで。


 「……そうか」


 憂愁の影が私と金魚を包み込む。


 「あなたも同じだったのね」


 大切な相手との離別をこの子も経験していたのだ。

 そしてその原因は私たちにあった。私たちのせいでこの子たちは引き裂かれた。今の私があるのも自業自得だなんて気さえしてくる。


 「こんな思い、私だけでも充分なのに……あなたまで巻き込んでしまって、ごめんなさい」


 堪らず口にした懺悔ざんげの言葉。一筋の雫が哀切を乗せて頬を伝い落ちる。


 足許に波紋が広がった。


 そしてそれが合図のように。


 やにわに金魚が水の中をぐるぐると泳ぎだした。

 水槽内は波打ち始める。次第に波は大きくなっていき、やがて極小の渦が生まれた。

 金魚は自らの意思で渦に呑まれ、勢いに乗って水槽を飛び出し、私目掛けて飛翔した。


 驚く私。

 慌てて金魚に向けて手を伸ばすと――。


 突如、足場が消え去った。

 金魚を掴めないまま、私は落ちていく。


 下へ、下へ。暗闇の底へと沈んでいく。

 訳も分からず、声を出すことすら忘れていた。


 そんな私の後を金魚が追いかけていた。こんな状態でも左右に尾ヒレを揺らして泳いでいる。

 だがその背後から猛然と追いかけてくるものに気付いて、私は眼を剥いた。

 大量の水だ。水はあっという間に追いついて、私たちを呑み込んだ。


 水中に閉じ込められると身体は落下するのをやめて、私はふわりと浮かぶような感覚に見舞われた。不思議なことに衝撃による痛みはなく、呼吸も出来た。


 金魚がこちらに泳いでくる。

 先と同じく手を伸ばすと、今度はしかと手のひらに収まった。

 胸元に寄せると、辺りがまばゆい光に包まれて――。




 囃子の音に気付いて、瞼を開いた。


 懐かしい風景。懐かしい匂い。

 私を迎えてくれたのは、そんな在りし日の一片だった。


 ぐっとその場を踏みしめてみる。足の裏にちゃんと地面があるのを感じたくて。確証になんかならないけど、夢じゃないんだって思える理由が欲しくて。


 頭を下げて自分の姿を見る。

 何匹もの金魚が泳ぐ、水色の浴衣。少し子供っぽいと思いながらも、似合ってるという彼の言葉が嬉しかった一着。


 巾着の中から鏡を取り出して、顔を見た。映し出された私は今よりもずっと幼くて笑顔でいて、なんだかとても輝いて見えた。


 左手には石段があった。その上を振り仰ぐと、神社の建つ頂上を目指す人々の背中、提灯の仄かな灯りと露店の屋根が見えた。奥からは賑やかな声や音が私の元へと届いてくる。



 「玲乃れのっ!」


 通りから私を呼ぶ声。

 胸の高鳴りに急かされ、私は振り向く。


 私の大事な人がそこにいた。記憶の中の彼と寸分違わない姿で。



 あぁ、困ったな。


 熱くなる目頭。止め処なく涙が溢れてきた。おまけに鼻腔からも水っぽいものが……頑張れ私、それだけは耐え凌ぐんだ。


 涙ぐむ私に夏生は驚き声を掛けた。

 なんでもない、と私は頭を振り笑顔を見せると、彼の服の裾を引いて階段を昇り始めた。


 戻ってきたんだ、そう思った。

 もう証拠なんて必要ない。私の前には今、あの夏祭りの夜が広がっている。それだけを信じよう。


 これはチャンスなんだ。あの日をやり直すための。からっぽの心を埋めるための――。

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