その雨の密度に

咲倉露人

その雨の密度に

 「へー、結婚したんだ」

 スマホ画面を滑らせる親指はふと止まり、私は思わず驚きを少し帯びた声を漏らした。それで、両膝を枕替わりに使わせてくれてる孝人くんもスマホから目をそらし、唇の端に付いてる米粒をでも見つけたような表情で、私の顔を見た。

 「誰が?」

 「うん?好きな声優さん。ほら、この前お姉ちゃんと一緒に映画館で劇場版観に行ったじゃん?」

 「あー、あのなんか自転車のヤツ。なんだっけ、タイトル?『泣き虫』なんとか」

 思い出そうとしているみたいけど、孝人くんの声は心ここにあらずだ。

 「そうそう。主人公の声やってる人」

 本当は全然違うタイトルだけどね。でも、指摘するのもめんどくさいんだし、孝人くんがそのアニメの作品名を一文字間違えずに覚えていてくれたら、逆に気持ち悪く感じるかもしれない。本棚には原作全部置いてあるのにな。孝人くんがタイトルを言えたら、気持ち悪い、って言ってやろうと思った。

 「オタクきもっ」

 きもって。ドラマとか学園アニメで主人公の周りにいる性格悪い女子代表こと女子生徒Aの定番セリフじゃないか。ステレオタイプすぎて、わたしですら使うのにこはずかしさを感じるのに、それをさも当然のように言える孝人くん、女子かよ。

 「ヒドい」

 それは果たしてキモいに言われたことに対しての「ヒドい」なのか、急に先手を打たれたことに対しての「ヒドい」なのか、知るようもなかった。ただわたしは、孝人くんに表情を見られないように、顔を背けた。

 「ごめん」

 孝人くんは片手で私の髪を撫でながら謝るけど、私は孝人の、薄々だけどくるぶしまでちゃんと生えてきたすね毛に気を取られ、返事はしなかった。すね毛、もう生えてきたんだ。さっきまで二人の裸がたまごサンドのようにペタッと重なっていたのに、孝人くんにはまだまだ私の知らないことだらけだね。お姉ちゃんは知っていたのかな。知っていたら、私はどんな気持ちでそれを受け取れればいいの。

 髪を撫でる孝人くんの手の動きが結構雑。私の機嫌を直せるより、いかに髪を撫でることで私の機嫌が直したということのほうに意味があるみたいで。だから、孝人くん、あなたはもっと丁寧に触ってくれないものね。女子はみんな男に髪を撫でられてメロメロになってしまうとか思っているのなら、すね毛を思いっきり抜いてやろうと思った。

 「ごめんって」

 私は孝人くんの膝の上に仰向けになり、天井を見つめる。今は何時だ?そろそろ台風が来る頃かな?土砂降りが感覚をぼかしたようだ。暗い天井を見つめていても、時間はまるでわからない。五時かな?もしかしたらもう深夜?それはないか、ニュースでは夜11時くらいに台風に直撃されると言ったはずだ。私は暗い天井と孝人くんの顔を見比べた。

 孝人くんは影の中にいる。私は今、この人としたんだね。

 「今、何時?」

 孝人くんはスマホ画面を一瞥する。

 「五時半」

 「そう」

 「腹減ってない?」

 今度は食べ物で私の気を逸らせるつもり?

 「冷蔵庫に昨日の肉じゃがあるよ。それチーンして食べる?でも、お母さんの肉じゃがあんま味しないけど。ごはんも炊いてないし」

 「いいんじゃない?待つよ。外雨だし」

 「うん、じゃあ作るから、待ってて」

 作らせる気満々じゃん。人の家にいるのに、遠慮という二文字を知らないようだ。孝人くんの胸板を上り、跨る。孝人くんの両腕は、まるでそうするために発明されたかのように、私の腰の後ろに回し、私の体をさらに近寄せた。私は両手を彼の肩にのせる。

 「私のこと、好き?」

 「急になんだよ?」

 「ごはんが食べたかったら、好きって言いなさい」

 茶色がかった髪からは、よく知っているハチミツの香りを帯びたシャンプーのにおいが伝わる。

 「好きよ」

 それを聞いた私は、孝人くんーーお姉ちゃんの彼氏――の唇にそっと自分のそれを重ね合わせた。


 お姉ちゃんは一つ下の彼氏を家に連れてくることは基本なかったので、ほとんどあったことなかった。その彼氏とは今同じ高校を通ってるけど、私が高校に入学したのと同時に、お姉ちゃんがその高校を卒業したから、学校にもそんなに話したことはなかった。

 月曜日、放課後。私はいつものように部活に顔をだした。部活は女子バスケ部を参加している。バスケには才能もないし、正直言ってスポーツに対しては大した興味もない。ただ私は、勉強ばかりで、塾が部活みたいなお姉ちゃんと違ったことをしたかっただけかもしれない。中学校から仲良くしてもらってる実咲ちゃんもいるし。先輩がちょっと厳しい以外、部活は基本楽しくやってる。ただ、女子バスケにいるには、一つ問題があった。

 「あ。寒河江先輩だ。学校来てたんだ」

 先輩たちの練習試合を、体育館の隅っこで胡坐をかいたまま見ていた私のとなりにいる実咲ちゃんが急にそう言ったから、私も気になって先輩たちから目をそらし、実咲ちゃんが見ている方向に視線を送った。

 そこには、練習着のTシャツと短パンに着替えてる寒河江孝人先輩こと、お姉ちゃんの彼氏の姿がいた。

 男子バスケの中には何人もの部員たちがビックリして、お疲れっす、お疲れっす、とあいさつしながら、お姉ちゃんの彼氏の周りに群がっていた。やっぱ人気ものなんだ。

 「やっぱ寒河江先輩、人気だよね」

 実咲ちゃんがさりげなく私が思ってることを言っちゃったから、私はてっきり自分の心の声が漏れたんじゃないかと思った。

 まあ、そんなこと知ってたし。とあるバカ姉が自慢してたからね。別に、学校の人気ものと付き合えたからと言って、なに自分のステータスが自動的に上がってるみたいに勘違いしてんだよ、とその時お姉ちゃんのダサさにあきれ果てたこともあった。

 「実咲ちゃん、寒河江先輩狙ってたの?」

 「まさか、あんな人気ものと付き合うとか絶対疲れるでしょ?うちの部だけでも、寒河江先輩が好きの子何人いるしさ。佐々木先輩とか、熊谷先輩とか」

「えっ?熊谷先輩?マジで?」

なんで知らないの、と言わんばかりの顔で頷く実咲ちゃんを見て、私はつい二の腕まで伸ばされた髪をポニーテールにして私たち一年生に、遅いわよ、と眉をひそめて叱る熊谷先輩の鬼のような面を思い浮かべてみた。

男子バスケ部のほうからボールが飛来した時、必ず真っ先に男子たちに厳しく注意する熊谷先輩が、男子バスケ部の先輩が好きだとか?なんかの皮肉なのかな。ちょっと草生えるわ。

「まあでも、噂ではすっごく美人のOBと今でも付き合ってるみたいんだけどね」

 そのOBはお姉ちゃんだし、お姉ちゃんは別に美人でもなんでもないよ。実咲ちゃんに名前言われた先輩たちや、何なら実咲ちゃんだって、お姉ちゃんなんかよりずっと寒河江先輩にお似合いだと思う。

 「てかあたし、イケメンと付き合うより遠くから眺めたほうが楽しいからね」

 「あっ、なんかわかる」

 私がクスっと笑って実咲ちゃんの発言に同感を示したら、実咲ちゃんも、でしょでしょ、と言わんばかりに私に指さす。それからは、二人で別の話をしながら、先輩たちの練習試合を見てた。女子部員の中には、練習中にもかかわらず、一週間も学校に姿を現してなかったお姉ちゃんの彼氏に、こっそりと黄色い視線を送る子が何人もいた。

 あっ、熊谷先輩今見た。本当に好きなんだ。

まあ、また急に学校サボって、東京の大学に通ってるお姉ちゃんに会いにいくかもしれないから、見たければ今のうちに見とけよ。


孝人くんに言われたままに、私はキッチンに来て炊飯器に米を入れる。でも、米はどれくらい入れたらいいんだっけ?孝人くんたぶんおかわりするから、適当にお茶碗で二回米を積んで入れた。次は水を入れるんだっけ?

お母さんに聞けばわかるけど、孝人くんのためにそこまでするのも億劫だ。

まあいいや。適当に入れよう。水が米を全体的に覆えばいいかな。

はい、スイッチオン。40分待ちか、普通に長い。ベッドに戻って孝人くんとまたベタベタしようかな、という考えが一瞬脳の中を過ったけど、私は部屋に戻るのにすらダルく感じた。

リビングのカーテンは開いてて、地窓から入ってくる光が、暗いリビングの床と壁とカーペットに不思議な模様を映す。私はしばらくソファに横たわってその不思議な光に自分の体を晒してみた。よくさ、一人で暗い部屋の中にいる時とか、雨の音に包まれる時とか、体が自分のものじゃなくなるみたいな、そんな浮世離れとした気分になるとか、そういう描写をテレビとか、小説に見るんだけど、私は恥ずかしいくらいそうならないんだよね。不思議な光に薄化粧を施されても、いつもの、私のよく知ってるリビングであることになんの変わりもない。

小説の登場人物たちとかは、どうやったらあんなに感性の豊かな人になれるんだろう。私には無理だよ。なのにこっちが恥ずかしく感じなければならないというもどかしさが本当に気持ち悪い。

これ以上深く考えてもしょうがないから、私は適当にテレビをつけた。ちょうどニュースをやってる。台風の影響で、電車がいっぱい運休してる様子がテロップ付きで画面に流れてる。駅に入れない人ごみの様子も流れた。集合体恐怖症の人が見たら絶叫しそう。あの中に、マスク付けてるお姉ちゃんの顔が急に映し出されたらめっちゃ受けるな、と思った。

でも、よく考えてみたら、お姉ちゃんは今ごろ両親といるのか。瑠美を会いに行くのが待ちきれないよ、と言わんばかりに、昨夜食べ残した肉じゃがにラップをかけるお母さんの後ろ姿が目に浮かぶ。

 「そう言えや、台風が来るんだけど、新幹線止まらないかな?」

 「でも、予報では月曜日東京に到着するんだから、大丈夫なはずよ」

そういえば、出発の一週間前に、台風を心配してたお父さんに、お母さんはそんなこと話してたよね。

それで予定より早く台風に直撃されて帰れなくなってるんだから、自業自得か。おかげさまでお姉ちゃんの彼氏と一緒に過ごすことになるとか本当受ける。

 受けるかな?

 お姉ちゃんがまだ地元にいた頃、孝人くんを家に連れてきたことはほぼほぼなかったのに、私が週末まるごと孝人くんを独り占めできるのは、よくよく考えたら物凄く贅沢なことかもしれないね。

 浅葱色の枕に抱きついて顔を押し込む。麻製の枕カバーの感触が鼻先から顎までくすぐる。もっと顔をこすり付けたくなる。お母さんがいつも使ってた芳香剤の匂いがする。もともと匂いとかに敏感だったお姉ちゃんは、この芳香剤の匂いがあんまり好きじゃなさそうだったけど、私には別にどうでもよかった。

なんか眠い。この眠気を招いてるのは、お姉ちゃんが好きじゃないと言ってたこの芳香剤の匂いなのか、それとも下半身のあそこから微かに伝わる温もりなのか。わからない。

スマホが手のひらに振動する。誰かから電話かかってきた。

 

 「あれ?李子は?」

 部活の休憩時間中、熊谷先輩が急にいなくなった。私と実咲ちゃんがその事実に気づいたのは、同じ二年の先輩たちが熊谷先輩の下の名前を呼びながら場内を見回す時だった。確かに、そろそろ練習を再開するというのに、さっきまでいたはずの熊谷先輩の姿はどこにも見当たらない。あの熊谷先輩にしては、ずいぶんと珍しいことだ。

 「松崎さん、ちょっと外で李子を探して来てもらえる?」

 熊谷先輩の不在を気づいてないフリをして水を飲み続けてる私に、別の先輩が話しかけてきた。めんどくさいけど、少しでも練習をサボれると思って、私は体育所から出て熊谷先輩を探しに行った。実咲ちゃんも一緒に行きたそうな顔してたけど、仲良し二人組が一緒だったらすぐにサボりがバレると思って、私はとりあえずこの贅沢を独り占めすることにして実咲ちゃんを後にした。

 さて、熊谷先輩どこなんでしょ?呆れるぐらいなんの手がかりもなかった。お昼に変なものを食べて、急にトイレにでも行きたくなったとかじゃないの?

 どうせ手がかりないんだから、私はしばらく体育館の入り口の階段に腰を下ろしてグラウンドでランニングしてる陸上部を眺めてた。どうせ熊谷先輩が帰ってくるの待ってから一緒に戻ればいいしと思ったけど、なに練習サボってるの、と叱ってくる先輩の顔が一瞬頭の中をよぎって、私はやっぱり探してみることにした。

先ずは適当に体育所の裏をチェックすることにした。そしたらなんと、お姉ちゃんの彼氏とお姉ちゃんの彼氏に絶賛告白中の熊谷先輩を発見した。

 「返事は、今じゃなくていいですから。本当は、もっとちゃんと話してから言うつもりでしたけど、寒河江先輩がいない一週間、なんか耐えられないくらい辛かったし、長かったです。だから、もうこれ以上待つのやめようと思いました」

 うわぁ、いつもなら、何してるの一年、と叫ぶばかりの熊谷先輩が両手を背中に隠して上目遣いで告白してるよ。

 とっさに茂みに隠れた私の角度からは、お姉ちゃんの彼氏の顔が見えない。びくともしない彼の後ろ姿を眺めながら、私は、なんか言ってなんか言って、と催促せんばかりにかたずを飲んだ。同時に、目の前にある熊谷先輩の後ろ姿と、私のよく知ってるお姉ちゃんのそれと頭の中で比べてみた。

 お姉ちゃんの体には決して目立つ要素なんてなかった。髪型も可愛いほうではなく、地味なほうのショートカット。それと比べると、熊谷先輩は背中だけ見ても、お姉ちゃんよりスタイルのいいことはハッキリと分かる。女子バスケの中でもわりと長身で、背筋もビシッと伸ばしてる。どうせなら、熊谷先輩のほうがお姉ちゃんの彼氏と付き合ったほうが無難だと思うな。

 「あっ、うん。わかった。考えとく」

 「じゃあ、あたし練習に戻りますから」

 熊谷先輩が急に小走りで私がいる方向に向かって来るから、私は慌ててまた隠れた。先輩は私に気づいてなかった。気づいたけどかまう余裕がなかったという可能性もあるけど。

 すごいもの見た。

 私は茂みから顔をコッソリ出して、もう一度お姉ちゃんの彼氏の反応を確かめようとした。もう壁に持たれてスマホを見てる。

 スマホ最強説。いつでも現代の若者たちに物事を考えるのを後にすることのできる逃げ道を与えてくれる。

 しかし私はどうしょうもなく、即座に熊谷先輩を断らなかったお姉ちゃんの彼氏に腹が立って、その場から離れた。

 体育館に戻った時、熊谷先輩は案の定もう練習モードに入って、あとに入ってきた私に、

 「遅いわよ、一年」

 と叱ってきた。

 「すいません」

 私は脇目も降らずに返事をした。多分、入部して以来いちばん大きい声で。鳩が豆鉄砲を食らったような顔で私を見てしまったせいで、実咲ちゃんが飛んでくるボールに気づかずに膝を直撃されて床に転がってたのはその直後だった。悪いとは思ってるけどね。


 「うん、うん。じゃ切るね。はーい」

 電話を切った瞬間、さっきまで暗かった部屋が急に明るくなった。あまりにも急に襲ってくる眩しさに、私は目玉が貫かれたような

 「電話?」

 「うん、お姉ちゃんだったよ」

 私は正直に答えた。

 「瑠美ちゃん?大丈夫そうだった?」

 呆れた。彼女の妹とまさに今寝たばかりの男が、どの面さげて事もなげにその妹に彼女の様子を聞くんだよ。まあ、私も人のことを言えないけど。

 「うん、とりあえずお母さんとお父さんと家にいるって。てか心配なら自分で聞けばいいじゃん」

 「いや。LINEも送ったし、電話もかけてみたけど、返事なかったから」

 「あっ、ウザがられたやつだ。ドンマイ」

 私はつい失笑してしまった。孝人くんは私の隣にどすんと腰を下ろした。

 「俺がいることを言った?」

 「はっ?えっ、孝人くんなら言うの?言ったほうがよかったの?」

 私は自分でもわかるくらいに目を大きく見開いて孝人くんを凝視してしまった。

 「いや、言ってないならいいけど」

 「仮に私がお姉ちゃんに、孝人くんがうちにいるよ、そしてまさに今お姉ちゃんにナイショでセックスしたよ、って言ったら、お姉ちゃんにどう反応して欲しいの?」

 「いや、あれはセックスまでいってなかったと思うけど」

 孝人くんは私から目を逸らして、頬杖をついてるのか手に顎をのせてるのかよくわからないポーズになって目線を下に向けた。それで格好つけてるつもりとか、考えごとしてる自分のほうが深いとか、そう言いたいのなら、マジでやめてもらいたいよね。格好良くもないし、むしろダサいし。女子かよ。

 「はっ?いや、セックスでしょ?」

 孝人くんの反応はそこまで意外ではなかったので、私は別にそこまで怒ってはなかった。けど、下を向いてる孝人くんを少し追い詰めるために、あえてちょっと怒ってるみたいに言った。

 「いや、でもほら。指しか入れてなかったし」

 「似たようなもんでしょ?」

 そっか。経験豊富な孝人くん様にとっては、下半身のあそこについてるちくわを女の陰部に入れてゴシゴシまでいかないとセックスの範疇に入らないみたいだね。指を入れられたぐらいで処女喪失の気分になってる私はバカみたい。はいはい、どうせ処女だよーん。

 「お姉ちゃんといっぱいした?」

 「そんなにしてねーよ」

 「ウソだ!ゼッタイ、ゲロ吐くぐらいしてた」

 「どういう例えだよ!瑠美はそんな言葉遣いしねーよ。似てない姉妹だな、本当に」

 「はいはい、どうせ私はお姉ちゃんじゃないんだよ!」

 私は枕を眉をしかめてる孝人くんの顔に、お姉ちゃんの嫌いな匂いがついてる枕を投げた。不意打ちを食らった孝人くんは、枕を顔に直撃する寸前に腕でブロックした。

 「で、どうなの?」

 「なにがだ?」

 執拗に聞く私に、孝人くんの声はドンドン不機嫌そうになっていく。私はソファから立ち上がって、そのままリビングのドアまで歩いて、先まで私の私物だった暗さを取り戻した。振り向くと、そこにはまるで窓に映りこんだ真っ黒なシルエットみたいになった孝人くんが見えて、気味が悪かった。でも、それでも私は孝人くんに問うのやめなかった。それは、相手に質問してるのか、無人の部屋で独り言を言ってるのかわからないような、変な感覚だった。

 「私がお姉ちゃんに今日のことをバラしたら、お姉ちゃんのどういう反応が見たかったの?」

 暗さで表情が見えないけど、孝人くんはやはり目を逸らしたのがわかった。まあ、答えなくても、想像は大体つくけど。

 

熊谷先輩がお姉ちゃんの彼氏に告白したあの日の夜、私は久しぶりに東京にいるお姉ちゃんに電話しようと思った。

いつもなら、家に帰って真っ先に部活で流した汗の匂いから解放されたくて風呂に入るんだけど、その日はどうしてもそれがダルくて、お母さんに、

「菜穂、ごはんよ」

と呼ばれるまでずっとベッドの上でゴロゴロしててお姉ちゃんに電話するかしないかを迷ってた。

やっと電話しようと決意したのは、夕食と風呂を全部済ましたあとだった。パジャマに着替えベッドの上で仰向けになった私は、お姉ちゃんが電話を出るのを待ちながら、私って一回風呂に入らないとやる気出せないのかよ、となぜか更にムカついた。

 『もしもし?どうしたの菜穂、急に電話して?』

 お姉ちゃんはわりとすぐに出てくれた。もともとお姉ちゃんとはそんなに話さないから、急に電話をかけてビックリさせたのか、電話の向こうにいるお姉ちゃんの第一声はそれだった。

 「別に?お姉ちゃん今日バイトは?」

 電話の向こうにほかの人の声が聞こえなかったので、家にいるのがわかった。確かに大学の近くのコンビニで働いてて、同じシフトの中国人店員があんまり日本語が通じなくて全然会話しないみたいなことを前言ってたっけ。

 『今日シフト入ってないよ。どうしたの?』

 まるで姉妹というものは特に理由がなかったら電話しちゃいけない存在みたいに、お姉ちゃんは私に二回も、どうしたの、って聞いた。

 「だから別にって。大学どう?最近忙しい?」

 『う~ん、最近ちょっとバタバタしてるかな?でも、友達も結構できたから楽しいよ』

 「お姉ちゃんの彼氏、先週学校に来てなかったみたいだけど、お姉ちゃんを会いに行った?」

 お姉ちゃんのインスタで既に入手した情報を、私は知らんぷりして本人に確かめてみた。

 『孝人くん?うん、来てたよ。なんで知ってるの?』

 「部活が一緒の体育館でさ、ここ一週間来てなかったから、もしかしたらって」

 『そっか。そういえば、菜穂はバスケ部だったよね』

 「そうだよ」

 そこで会話が一回途切れてしまった。私はベッドの上で転がって、壁のほうに顔を向けた。何年前かは忘れてたけど、壁に飛びついた蚊を私が叩きつぶしたことがあって、その時できたシミが真っ黒になって今も残っている。私がそのシミ人差し指で触りながら、熊谷先輩の件をお姉ちゃんに切り出す方法を探した。そもそも私は、どうしてお姉ちゃんにその話をしたかったのでしょ?別に私は二人の関係にそこまで関わってなかったから、二人がいちゃつこうが別れようが、私が気にすることじゃないはずだけど。むしろ巻き込まれたほうがめんどくさいけど。

 『うちらさ、喧嘩したんだよ。孝人くんが東京にいる間にね』

 お姉ちゃんが少し躊躇して言い出したその言葉に対して、私は何故か意外じゃなかった。

 「へー、何がきっかけで喧嘩したの?お姉ちゃん浮気した?」

 『してないわよ』

 「じゃあ、なんでだよ?」

 お姉ちゃんが電話の向こうで大きくため息をした。

 『なんかサークルの飲み会があってさ。せっかく孝人くんも来てるから、一緒につれて行ったんだけど。そしたら帰りに、孝人くんすごい機嫌悪くなって、それで家に着いたら喧嘩になった』

 「お姉ちゃん、高校生を飲み会につれて行ったの?」

 『もちろん、孝人くんは酒飲まなかったよ。本人はなんかビールを注文しようとしたけど、私がやめさせてかわりにウーロン茶を頼んだ。流石に、未成年に飲ませるのはマズかったし』

 「そのあとは?」

 『そのあとは、まあ普通にサークルの先輩たちと飲んでたけど、孝人くんなぜかすごい無言だった。なんかずっと頬杖をついて下向いてた、話しかけてもつれなかったし、私が先輩と話してたら急になんか、瑠美ちゃんは昔からそうだよね、みたいなこと言うし。もう、わけわからんかった』

 私がお姉ちゃんの話を聞きながら、飲み会の時のお姉ちゃんの彼氏の情けない姿を想像した。どうして情けないと思ったのかは、自分でもわからなかった。しかし、お姉ちゃんの話に出てきた彼氏さんの顔や仕草とかをイメージしてみたら、そのほか当てはまる表現が出てこなかった。

 「やっぱキツかったの、遠距離?」

 『うーん、別に遠距離の問題とかじゃないと思うけどさ。あっ、ちょっと待って』

 電話の向こうからなんか鋭い音がして、それを聞いたお姉ちゃんがいったん会話を打ち切った。私は壁のシミを爪でかきながらお姉ちゃんが戻ってくるのを待ってた。音が止んですぐに、お姉ちゃんが帰ってきた。

『ごめん、お湯沸いてた。今なにを話してたっけ?』

「お姉ちゃんたちが喧嘩したのは別に遠距離だからじゃないとか」

『あっ、そうそう。なんていうの?やっぱ東京って地元と違いすぎるからかな?菜穂はさ、覚えてる?菜穂がまだ小学生だったころ、四人で一緒にディズニーランドに行ったこと』

 覚えてる。東京どころか、関東旅行も結局あれきりで行ってなかったから、わりとハッキリと覚えてる。

私にとって、あれは楽しい家族旅行とは言えなかった。池袋駅であやうく迷子になってしまったこともあった。ディズニーランドで最後、私もお姉ちゃんも行きたいアトラクションがあったけど、一つしか並ぶ時間がなかった。私はスプラッシュマウンテン、そしてお姉ちゃんはくまのプーさんに乗りたかった。私はその場で泣き崩れて必死に駄々をこねてたけど、結局お母さんは、子供には危ない、という理由で、四人がお姉ちゃんが乗りたいくまのプーさんに乗ることにした。

 それぐらいしか東京の思い出が残ってない。

 『菜穂はまだ小っちゃすぎたから覚えてないかもしれないけど、私にはあの旅行がすごく衝撃的だったの。その前に地元から出たこともあんまりなかったからさ、東京はまるで違う世界みたいだった。なんていうかな?私それまでお母さんたちに期待されて、勉強ばっかりしてきたんだけど、本当は理由なんてなかったじゃないかな、って』

 私は体を起こして壁にもたれた。

『でも東京行って、なんか気づいたんだよね。ここなら理由なんていくらでも見つけられるじゃん、みたいな?だから、東京に行くことをとりあえずの目標にしたんだ。そして、その目標が実現して、いまこうして東京に来た』

 「てことはあれか?都会に行ったら、急に田舎の彼氏がダサく見えてしまったとか?」

 『そうでもないよ。孝人くんのことは普通に今まで通り好きよ』

 「じゃあなんで?」

 『なんでだろう。たぶん、私がいろいろ追いつけなかったからだと思うんだよね。東京にきて、一時期は目標が実現したように感じたけど、じゃあ次はどうしたらいいの、とかばっかり考えて。東京に来ることは、結局目標ではなくて、目標までへの一歩でしたしかすぎなかったんだよ、きっと。けど私さ、東京に来たあと何をすればいいのか、全然決めてなかったんだよね。気づいたら、なんでも追いつこうとするようになってさ。孝人くんが来た時も、もしかしたらわざと格好つけようとしたんじゃないかって。ほんで、孝人くんにそんな私を見せて、距離を感じさせたんじゃないかって』

 ちゃんと聞いてるつもりだったけど、お姉ちゃんの言葉がいつの間にか聞いたことのない外国語で唱えられた呪文みたいに、耳ではなく、こめかみあたりに環状で響いてた。お姉ちゃんがそのあと何を言ってたのか、私がどういう風に返事をしたのか、あんまり覚えてなかった。覚えてるのは、私は結局熊谷先輩の話を一切できなかったことと、お姉ちゃんが最後に、

 『ごめんね、菜穂、なんかうちらの話ばっかりで。でも、ありがとう。なんか久しぶりに菜穂とこんな話ができて嬉しいな』

 と私に言ってたことだった。私は久しぶりというより、そもそもお姉ちゃんとこんな話したことはないと思った。

 電話が終わったあとも、私はずっと寝落ちするまでベッドで動画を適当に見てた。


 孝人くんはしばらくテレビの真っ黒なスクリーンをにらんだまま、何も言わずにソファに座り込んだ。私はその間にも、壁にもたれてまっすぐに孝人くんをじっと見つめていた。この時間は、孝人くんにとっては苦痛だろう。けど、私は彼を逃さない。自分が被害者なのか加害者なのかわからないという気持ちに挟まれてほしくて。

「どういう反応って、そもそも言っちゃダメだろう」

 孝人くんはリビングのテーブルに足をのせて荒れた口調で言う。人んちのテーブルに足をのせるとか、マナーのかけらもないね。私かお姉ちゃんが同じことをしたら、すぐにお母さんのお説教を食らうんだよ。

「どうして?彼女の妹と寝て、今更罪悪感とか、そういうの感じ始めたとか?」

「最初から悪いと思ってんだよ」

「じゃあ、なんであの日誘いにのったんだよ」

「知らねよ!その日の自分がおかしかっただけかもしれない、けど瑠美ちゃんには絶対に言えない。瑠美ちゃんに知られたら、俺は死にたくもなる」

「ほら、そういうとこ!結局、孝人くんは自分のことだけじゃん?けどね、孝人くんは仮にお姉ちゃんに今日のことを知られても、怒られても、恨まれても、それでもまんざらでもなく感じるよ、きっと。だって、孝人くんはそうだよね。結局姉に見てもらいたいだけでしょう?だって、学校での人気ものの孝人くんにとって、注目をもらうことはあたり前のことで、むしろそうじゃなくなったら、腹立たしくてしょうがないでしょう?お姉ちゃんのこともそうだよ。地味なお姉ちゃんが自分に惚れたのは当然のことで、そこから自分の地位の揺るぎなさに満足してる。けど、世界はそれよりずっと広くて、学校なんかよりずっと広くて、そしてその広い世界にいるのはお姉ちゃんで、自分はただ狭い世界にいるだけという事実を認めたくないだけでしょう。ううん、本当は孝人くんだって気づいてるよ。けど、自分よりお姉ちゃんがもっと偉い人になるの耐えられないくらいの屈辱で。けど、その屈辱ですら認めたくなくて、勝手にお姉ちゃんに八つ当たりなんかもして。最低だよ、それ。自分の情けなさを認めたらどうです?お姉ちゃんに認めて欲しかったら、顔をあげて生きたらどうです!そうやってお姉ちゃんに救難信号ばっかり出して。情けないよ、孝人くんは」

 まただ。この人と同じ空間に閉じ込められると、未知なる感情に駆られて、自分自身でも怖くなるほどの行動に走ってしまう。

 目がやっと孝人くんの表情がのぞけるぐらいにリビングの暗闇に慣れてきた。孝人くんはやはり俯いてる。空気を呼んだ炊飯器はそこでビービーなりはじめて、私はキッチンまで行って、炊飯器のフタを開けた。ごはんの量が思ったよりずっと多かった。私は茶碗を二つ取り出して、自分と孝人くんのぶんのごはんをいれた。

 「自分でするよ」

 孝人くんはソファから立ち上がろうとしないのに、そんなことを言い出す。

 「いいよ」

 私は次に冷蔵庫から肉じゃがを出して、電子レンジにいれた。何分チーンしたらいいだろう。適当に2分ということにしたら。

 「来たら?」

 孝人くんはやっと足をリビングのテーブルから下ろして、電気をつけてからキッチンのテーブルに座った。私はごはんと肉じゃがをテーブルに置いた。肉じゃがの量はそんなに多くないから、ごはんがいっぱい作ったのはむしろ都合がよかったかもしれない、と思った。

 私たちは黙って食事をした。いつもならお母さんに注意されるけど、今日はお母さんもお父さんもいないので、片方の足を椅子に乗せた。孝人くんがほとんどごはんしか食べてないことに気づいたのは、孝人くんのお茶碗の中ごはんがほとんど残ってない時だった。

 「肉じゃがも食べれば?味うすいけど」

 「いいよ、ごはんだけで十分だよ」

 「いや、絶対足りんでしょ?私そんなに食べないから」

 「いいって」

 「年下の女の子から肉じゃがを譲ってもらったくらい、孝人くんの男の地位が揺れるわけじゃないんだからね」

 と私は少しふてくされてる孝人くんのお茶碗に肉とジャガイモを分けてあげた。孝人くんはしばらくお茶碗をじっと見つめて動かなかった。私は孝人くんを無視してひたすらごはんを食べてた。

 「それでも、瑠美ちゃんが好きな気持ちは本物だよ」

 孝人くんは私にそれだけ言って、すぐに自分のお茶碗に入ったごはんと肉じゃがを平らげて、ごはんのおかわりをいれた。

 「うん。でもね、孝人くん。お姉ちゃんは、あなたがいなくても私の一番尊敬してるお姉ちゃんだよ」

 私は急にもうこれ以上この人と同じ空間にいるのが耐えられないくらい気持ち悪いと感じた。お姉ちゃんのとなりに歩いた時この人や、熊谷先輩に告白された時のこの人の後ろ姿も、あの日橋の下で眺めてたこの人の横顔も、セックスのあと見たこの人のすね毛、雨の音も、今この一緒に食べた肉じゃがの味でさえも、全部とてつもない嫌悪感と化して喉の底から一気に湧き上がってくるような気がした。

 「ちょっと、コンビニ行ってくる」

 「そと雨だよ」

 「大丈夫」

 私は席から立った。孝人くんはまだ何か言いたげな顔をしてるけど、私は彼がなんか言ってくるより先に部屋をあとにした。彼が追いかけてくる気配はなかった。

 可哀想な孝人くん。情けない孝人くん。私はしばらく無言で廊下の壁にもたれて。そんな孝人くんに言ってやりたい最後の言葉を廊下の暗闇の中で呟いた。

 「早くお姉ちゃんに振られてろ」

 

 お姉ちゃんと話して数日後の出来事だった。その日の朝は晴れてたから、私は傘も持たずに学校に行ったけど、午後になると急に曇り始めた。部活が終わって体育館を出たとき、空を覆うずっしりとした雲はまるで今にも持ち堪えなそうに暗くなっていた。

 「降りそうだね。あたし傘持って来てないんだけど」

 となりにいる実咲ちゃんは、首にかけたタオルで額の汗を拭きながら、空を見上げて言った。熊谷先輩がお姉ちゃんの彼氏に告白したところを目撃したことは実咲ちゃんにも言ってなかった。

 「実咲ちゃんち遠いでしょ?どうするの?」

 「お母ちゃんに連絡してのせてもらうよ。菜穂は?家まで乗せとく?」

 「降ってくる前に急いで帰るよ。ありがとう」

 けど私は、すぐにその選択に後悔することになった。学校に出てすぐ、雨が降り始めた。最初はまだ5秒に一回しずくが前髪に落ちてきたのがわかるくらい、遠慮してそうに降ってたけど、すぐに土砂降りになった。私がすぐに自転車を漕ぐのをやめて、大急ぎで帰り道にいつも渡る橋の下で雨宿りすることにした。

 そしたら、お姉ちゃんの彼氏もそこにいた。ベンチに座ってる彼は、こっちに気づいてる様子もなく、ひたすらスマホに集中していた。

 私は後ろからなるべく物音立てずに接近し、彼の後ろ姿をしばらく眺めてた。いつからいたのかわからないけど、頭からスカートまでびしょ濡れになった私と違って、彼はほとんど濡れてなかった。

 このまま雨宿りをやめて、土砂降りの中で帰る選択肢もあった。ここから頑張って漕げば、家に着くまでには10分もかからないはず。どうせもう濡れたし、帰ってすぐ風呂に入れば風邪を引くこともないと思った。

 でも、その時の私はお姉ちゃんの彼氏の後ろ姿を見て、急に変な感覚に取りつかれたみたいだった。なんか、自分の中の鼓動が急に自分の血液循環で制御してるものではなくなったみたいに、身じろぎができなくなった。

 彼の背後にどれくらい立ってたのかわからなかった。でも、雨は一向に止む気配なかったし、彼もこっちの存在にまったく気付かなかった。

 「孝人くん」

 お姉ちゃんの口調を真似して彼のことを呼んでみた。私はそれまでに、彼を名前で呼んだことはなかった。肩をビクッと震わせた彼は、物凄い勢いで振り向いた。一瞬しか見せなかったけど、顔が明らかに動揺してた。

 「ビックリした。妹か」

 妹です!

 姉の真似が本当に似てたのか、とりあえずの彼は私の顔を確かめたあと、心からほっとしたように見えた。そして、ベンチの空いてるところを指さした。私はそこに腰を下ろした。

 「めっちゃ濡れてるやん。タオル使う?」

 私は彼からタオルを受け取って髪を適当に拭いた。タオルは濡れてなかったし、汗の匂いもしなかった。

 「瑠美ちゃんも前話してたけど、本当に同じ高校になったな」

 「はい。あっ、お姉ちゃんがお世話になってます。これ、ありがとうございます」

 私は一礼してタオルを返した。彼は笑顔でそれを受け取って、適当に畳んだあとまた鞄の中に戻した。

 「帰りいつもこんな時間なの?」

 「部活ありますので」

 「なに部だったっけ?」

 「バスケ部です」

 「えっ?全然気付かなかったけど」

 そりゃそうでしょう。あんた今学期ほぼほぼ部活サボってたよね?部活に来ててもどうせお姉ちゃんのことばっかり考えて周りなんて見てなかったよね?

 「寒河江先輩もバスケですよね?」

 「お、まあ今日はちょっとサボってたけど。ここで座ってたらいつの間に雨降りだしたし、最悪だよ」

 「寒河江先輩、最近あんまり部活に来てないんですね。先週も全然こなかったし」

 「まあ、先週はちょっと」

 「お姉ちゃんのところ、行ってたでしょう?」

 私の質問に、彼は一瞬キョトンとした。私も表では平静を装ってるけど、心臓が正直ヤバいことになってた。自分の行動が読めなくて怖かった。

雨は止むどころか、さっきより激しくなったような気がした。お姉ちゃんの彼氏と二人で知らない空間に閉じ込められてる感じがした。湿った地面も、草も、ベタっと肌に貼りついてる制服も、川を激しく叩く雨の音も、全部私をおかしくしてるみたいだった。

「それも、瑠美ちゃんから聞いた?」

「お姉ちゃんのインスタで写真見ました。直接聞いてはないけど」

「そっか。瑠美ちゃんなんでもインスタに乗せたがるもんな」

「そうですね。寒河江先輩はインスタとか使ってないんですか?」

「使ってないね」

そりゃあよかったわ。使ってたらお姉ちゃんのこととかすぐ熊谷先輩たちにバレちゃうよ。

「寒河江先輩って、なんか変だね」

それは自分のことじゃなくて、私の彼に対しての呼び方をさしてるということを、私はしばらく気づいてなかった。

「いやなんか、お姉さんの彼氏なのに、寒河江先輩ってなんかちょっと水臭いじゃん」

「そうでうか」

私は全然そんな風に思ってなかったけど。

「じゃあどういう呼び方がいいですか?」

「孝人くんとか?」

「うん、じゃあ孝人くんで」

「マジかよ」

孝人くんは笑った。私はそんな孝人くんの横顔を眺めて、どうしてこの人がお姉ちゃんの彼氏になって、どうして二人が喧嘩になったのか真剣に考えはじめた。学校で人気者の孝人くんと、勉強ばっかで地味なお姉ちゃん。高校生の孝人くんと、東京の大学に通ってるお姉ちゃん。

「孝人くんは、どうしてお姉ちゃんと付き合うようになったの?」

「どうしてって?告られて、俺も前から瑠美ちゃんのこと可愛いと思ったし」

「じゃあ、お姉ちゃんのこと好き?」

「あたり前だろう」

「喧嘩したのに?」

「喧嘩なんて恋人同士みんなすることだよ。でも喧嘩したからって、好きなのは変わらんよ。てか、瑠美ちゃんからどんだけ聞いたんだよ」

「お姉ちゃんと喧嘩したのは、お姉ちゃんが東京に行ったからなの?孝人くんの気持ちが変わらなくても、お姉ちゃんも変わらない保証があるの?」

「ねーけど、分かるよ。まあ喧嘩したのは俺のせいだけど」

「どうして?」

「どうしてって?俺もよくわからんけど。でもなんか、腹が立ったんだよ」

「どうして?」

「わからんって。瑠美ちゃんと東京にいる時の自分がなんかおかしかっただよ、お前本当に質問多いな!」

「この前、熊谷先輩に告られた時、どうして断らなかったの?」

「なんでそれも知ってんだよ!?」

「女の子に告られるのはまんざらでもなかったから?」

「違げーよ。ちゃんと断ろうと思ってんだよ」

「でも、その場でしなかった。彼女がいるのに、ほかの人に好意を示されて心の中でニヤニヤしてたんでしょう」

「してねーよ。わかったから、明日ちゃんと断るから。でも瑠美ちゃんには絶対に言うなよな」

「私、本当はお姉ちゃんに言おうと思った。けど、なんか言えなかった。言えない自分がなんか嫌いになってた」

「優しい妹ね」

「全然だよ!私はお姉ちゃんのことを昔から理解しようとも思ってなかったし、お姉ちゃんの力になろうともしなった。私は最低の妹だよ。今この瞬間だって、もし私が孝人くんの彼女だったらみたいなことばっかり考えてる」

「なに言ってんだよ!俺はお姉ちゃんの彼氏だろう、バカなことを言うんじゃねーよ」

私はそこで、孝人くんの太ももに跨って強引にキスした。孝人くんは最初こそ抵抗したように感じたけど、やがてそうするのもやめた。唇が離れて、私は孝人くんの目から逃げずにじっと見つめてた。孝人くんは何か交通事故の現場にたまたま居合わせたようにビックリしてるけど、私の目からも逃げなかった。髪も服も濡れてまま、だけど私にはスカートの薄っぺらい布を隔てて伝わる孝人くんの下半身の微熱しか感じられなかった。

「お、おまえ。。。」

「今度の週末、お母さんたちお姉ちゃんを会いに東京に行くから、うち来て。住所わかるでしょ?」

固くなった孝人くんに、私は更においうちを与えるつもりでまっすぐに質問した。孝人くんは一瞬固唾をのんだように見えたけど、やがて風の寒さに耐えきれずに顎を震わせたみたいに頷いた。

あぁ、お姉ちゃん。私、この人をあばくよ。暴いてみせるから。

早くこいつと別れてろ。


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その雨の密度に 咲倉露人 @tyt_sakura

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