誰も、読み終えることができない物語。
杏
第1話 現実
「
灰色の屋上では何度となく、冷たく尖った風があちらこちらのビルの隙間へと流れ込んでいく。
少し深めの息を白く吐きながら、俺はスマホを夢中で覗き込む同僚に声を掛けた。
「ああ、
何の感情も含まない声で、西島は画面から視線を外すこともなくそう答えては、
そして俺も、あたかもその答えが返ってくることを知っていたかのように、意味も無く自分のスマホ画面に目を落とす。
「なんだかなぁ…」
呟いてはみたものの、西島は俺の声などには全く関心を持とうとしない。
少し重ための雲の合間から射した太陽の光に、どこからか聞こえる子ども達の声は歓喜になったが、目を細めないと直視できない俺にはただめんどくさいだけだった。
*
今の時代、人間同士の関係なんてそんなものだ。
インターネットの環境さえあれば、自宅に居ようが旅先であろうが仕事はできる。
運よく入社できた一流企業と類される社内は効率化が徹底され、AIが適した人材に仕事を割り振り、その評価で個人の格付けが決まっていった。
おかげでその分暇になった上司からは、事あるごとに嫌味が飛んでくる。
「ふっ、
背後から薄ら笑いを浮かべながら肩に手を置いてきた小柄な中年男は、皆から「
「どれどれー?」
そう言いながら俺のパソコン画面を覗き込む。
(明らかにアドバイスなんかする気も無い癖に…)
そんなことを思っていると、橋本はニヤニヤしながら勝手に話を続けていった。
「お前、入社してそろそろ10年だっけ?確か松下と同期だったよな。まあ、もう随分の噂だから知ってるとは思うけど、異例の大抜擢を受けて本社の幹部に任命されるって話。凄いよなぁー」
予想は、あっけなく肯定されていく。
こんなことなら自宅でやれば良かったか…ともよぎったが、あの壁の薄いアパートでは隣人の夫婦喧嘩が気になって仕方ない。
早く出世でもして、もっと防音の効いたところに引っ越したい。そうすれば、他の社員たちのように、…そう、松下のように、自宅で優雅に仕事が出来る。才能が無いと評価されるのはこんな環境のせいだ。
俺は今日も人がまばらのデスクの一角で、なんともやるせない思いを抱えながらキーボードの音とため息ばかりを響かせていた。
*
名前の通り、彼女が笑顔になればまるで華が開いたかのように社内の雰囲気も和んだものだが、それ以上に松下には才能があった。
どう考えても不可能で非常識なものも多かったが、彼女が提案するアイデアには誰もが驚くようなセンスがあった。
社内AIは、松下のそんな才能を察知したのか、様々な企画を振ってはことごとくそれがヒットしていったのだ。
ゆえに、今回の昇格も誰もが納得するもので、俺もそこに意を呈するつもりはない。
ただ、橋本課長のように、同期というだけで片やのサクセスストーリーの比較対象として弄ばれるのは不本意だ。
「———チクショウ!あいつら全員、消えちまえ…」
誰も居ない室内を確認してから発した言葉は、誰にも漏らしたことのない本音でしかなかった。
そのとき。
「ピロロロン♪」
(ああ、SNSの着信か)
スマホを開くと、通知アリのバッチが赤く点滅している。
とりあえず親指をスライドさせると、そこには高校時代の同級生の結婚式の様子が投稿されていた。
青い空を背景に、満面の笑みとカラフルな花、沢山の人に囲まれ、彼らもまた皆が笑い合っている。
『結婚おめでとう。式に出れなくてごめんね』
無難なセリフを打ち込むと、すぐに返信がついた。
『ありがとう!久々に
『ああ、仕事が落ち着いたらね』
(哲くんなんて呼ばれるの、何年ぶりだろう?)
社会人になってからは、青山さんとしか呼ばれなくなった。同期からもそうだ。プライベートを共にするような新しい友人もこの土地では出来ていない。それでも不便さを感じないのは、SNSを介して誰かと繋がっている気になれているからだろう。本名すら知らないどこかの誰かと繋がるのは、今や何の違和感すらもないものだ。
地元までは車で片道2時間。自由出勤だし結婚式にも行けない距離では無かったが、SNSに投稿すればすぐに数百のイイネが付くその同級生らに対して代わり映えしない俺を見せるのは気が引けて、
「ちょっとはゆっくりして行ったらいいのに」と帰省の度に母は言うが、最初のうちは「一人暮らしは大変だったろう」と労われても、3日も家に居たら「母さんばかり動かせて、ちょっとは楽をさせてやったらどうだ?」などと親父の説教が始まるということもあり、足が向くことは無かった。
(そういえば、俺が投稿したこの前のやつは?と…)
1週間前の日付がついたちょっと小洒落た飯の写真には、案の定何のコメントもついておらず、3つのイイネが残されているだけだった。
(その前の海のやつは?…)
更に遡った投稿には、4つのイイネだけ。
しかも、そのどちらも、内ひとつは自分で付けたものだった。
フッ、と笑いも混じったため息と滑稽な感情が、更に自身の情けなさを固定していく。
「沢山の反応を貰えてるヤツらと似せたものを投稿してるのに、何で俺のだけこんなにイイネが少ないんだよ。反応をくれる友達のスペックが低いからか?確かに友達の数が少ない人にイイネされても拡散能力は低いから効果は無いか…」
そうだ。悪いのは俺じゃない。
松下と俺の違いは、こういう所にもあるはずだ。
あいつには良い後ろ盾になるような‟友達”が多くて、俺には無い。
「どうしようもねェじゃねえかよ…」
だらりと首を回しながら椅子の背もたれに
「『
スマホアプリのゲームらしいが、肌を
復讐…骨肉の争い的なものなのか。
その手のゲームはしたことが無かったが、何故かこの時だけは当たり前の様に、脳よりも先に指からその画面に惹き込まれていったのだった。
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