小説再現小説

きりん後

小説再現小説

 私は真新な白い世界を頭の中に浮かべていた、そこにはまだ誰もいない。文物も、概念も、何も存在していない。


 そこは新しい小説を読み始める上で必要な世界だ。編集者として、私は最も良い読者であらねばならない。その為には雑念を完全に捨てなければならない。真新な頭で小説を読み始めるのだ。


「それでは、失礼して」

「お願いします」


 わざわざ会社に押しかけてきた、小説家志望の若者はそう頭を下げた。私は彼が持ってきた茶封筒から丁重に原稿を取り出す。


 一枚目の中央には大きく、『オアシスに向かって』と書いてあった。この小説のタイトルだろう。と迷いなく察した。


 白い世界は直ぐに荒涼とした大地になった。そして彼方にあるオアシスに向かって、旅人が歩みを進めている様が浮かんだ。しかし旅人の様相は詳細にならなかった。何故ならそれに関する描写がまだ為されていないからだ。


 私は一枚目の原稿に目を通し始めた。


『一休みがてら、俺はラクダの口元に餌をやっていた。』


 一行目にはそう記されていた。

 荒涼した大地は砂漠となり、旅人は厚着をした顔の濃い髭を生やした男性となった。そしてその男の腕は、男が連れているラクダの口元へと動いていた。


『ラクダの涎はダラダラと、食む枯草を伝って、地面へと落ちてゆく。』


 ラクダは野生味溢れる食いっぷりで、枯草を食べている。その涎は砂漠の中に消えた。


『そしてラクダが咀嚼する度にラクダに乗せた荷物は大きな音を立てつつ揺れた。』


 ラクダの上に乗せた大荷物が揺れている。長い旅なのだろう。


『俺は水筒の蓋を開けて少し口を潤し、』


 男は水筒の中の水を無くなってはいけないと少しだけ飲む。ラクダの涎との対比で、本能と知能のギャップが見て取れる。


『ラクダがまだ疲れていないことを見越すと、』


 男がラクダの方を見た。


『先に進み始めた。』


 ラクダを連れた男は腰を上げ、砂漠の道を進み始めた。

 私は、世界観の見え易い、悪くない出だしに期待を膨らませた。視線を若者に向けると、若者は不安そうに、しかし真っ直ぐこちらの様子を伺っている。

私は続きを読み始めた。


『その時、声がした。』


 声?とにかく、どこからか何者かの声がしている。


『見ると、八百屋の老婆が手を振っていた。「ライチが安い」というので、俺は財布から数枚の硬貨を渡し、貰った。』


 砂漠の大地は一変し、市場へと変わった。南国の果物や野菜を地面に引いた御座の上に並べた八百屋で黒い肌をした老婆に男の自国の通貨を渡し、ライチを貰っている。私は自分の思い違いを恥じた。男はラクダを連れて、旅の途中に市場に寄っている途中なのだ。


『さらに進むと、今度は自転車屋の親父が「そんなのよりこっちはどうだい?」と声をかけてきたので、』


 オイルで汚れた中年男性が男の方を向いている。傍らには錆びた自転車が浮かんだ。時は現代、それに近い過去らしい。


『私は手を横に振った。』


 荷物の運搬用に使うなら自転車は足手まといということだろう。


『マウンテンバイク等には乗らないし、13万は高すぎる。』


 錆びた自転車がロードレース用の新品の自転車に変わる。同時に私は、この物語の時代設定は現代であると確信した。街行く人々の服装は鮮やかなTシャツとなった。と同時に私は男の服装を見失わねばならなかった。時代背景を考えると軽装でもあり得るかも知れないが、それではラクダと並んだ時に不調和だ。私の世界では男の服装は不明瞭のまま保留となった。


『更に歩くと、人混みが多くなって来た。』


 現地の人々や商人が山ほど居る賑やかなところなのだろう。道の両脇に様々な商店があり、人々はそれぞれの行先に縦横無尽に行き交っている。


『私は手綱を引きながらその喧騒を何とか通過し、』


 ラクダの前に立つ男が、人々の合間を縫いながら、体を縮めながら進み、喧騒を突破した。


『ようやく戸越銀座商店街を抜けた。』


 思わず原稿を落とした。それをようやく拾い上げ、私はもう一度同じ行を読んだ。


『ようやく戸越銀座商店街を抜けた。』


 世界は一変した。というより、組み立て直さなくてはならなかった。景色は南米の活気ある空間から、戸越銀座のお洒落な街並みへと変わり、道行く人々の肌の色、服装も日本人のそれとなった。八百屋の老婆も「おばあちゃんのぽたぽた焼き」のパッケージに描かれている様な人物になり、自転車はショーウィンドウの向こうに最新型のロードバイクが飾られ、その主人の親父はお洒落な風貌へと変わった。


 だとすれば、男はどのような人物なのだろうか?戸越銀座でラクダを連れて歩く男、今となってはどのような人物か、その様相も見当がつかない。


 私は小説家志望の若者に視線を送った。私を馬鹿にしに来たのなら一喝してやろうと思ったからだ。しかし若者は変わらず期待と不安を混ぜた熱い眼差しを私に送って来ている。


 仕方なく私は椅子に座り直し、ラクダを連れて歩く男の謎を解決することを目的の一つに添えながら続きを読み始めた。またこの時他の目的には、「オアシスに向かって」というタイトルの理由を解くことがあった。戸越銀座のオアシスとは、一体何だ?


『そして俺達は、行きつけの公園に辿り着いた。』


 ラクダを連れた男性が、清潔感がありシンプルではあるがお洒落な服が来た人々がいる、広々とした公園に入って行く。それは異様な光景だった。


『すると早速、散歩仲間の山口さんと出会った。』


 日本人の知人と男が会釈している。ということは、男も日本人なのだろうか。それとも日本人の知人がいる程長く日本に滞在している外国人なのだろうか。


『山口さんは、「今日もラクダちゃん元気ねえ」と言ってくれた。』


 山口さんという女性が、ラクダを見ながら言う。


『山口さんは旦那さんと一緒にトイプードルの「チーちゃん」の散歩に来ていたようで、』


 山口さんはその夫とトイプードルのリールを二人で握っている。


『俺は旦那さんと軽く挨拶をして別れた。』


 男とラクダは山口さん夫妻と別れ公園の奥に向かって進んでいる。


 私は、ラクダは男のペットなのだろうと認識した。そして男は恐らく変わったペットを飼っている日本人だろうと思った。


『「私、あんな夫婦に憧れるなあ」直ぐ傍で声が聞こえた。』


 公園の小道を進むラクダと男の傍で、すれ違ったカップルの女性が、山口夫妻を見て言っている。


『俺は彼女のその言葉に微笑んだ。』


 男がその女性を振り返りつつ、微笑む。


『何故なら、いつか俺もラクダと結婚したいと思っていたからだ。』


 ラクダと結婚?


『ラクダは続けて言った。「あんな夫婦になりたいって、そう思わない?」』


 ラクダが舌を垂らしながら、「あんな夫婦になりたいって、そう思わない?」と人の言葉を発している。


「え?ラクダって人間の女性なんですか?」


 私は思わず小説家志望の若者に尋ねた。


「え?そうですよ?漢字で書くと、楽しいの『楽』に田んぼの『田』で楽田(ラクダ)。ちなみにフルネームは楽田リエです」


 当たり前のことを尋ねたような口調で返って来る。


 そうか、ラクダは楽田リエという名前の女性で、男とは恋愛関係にあり、彼等はデートをしているのか。


 そしてこの主人公の男は、彼女に手綱を付けて歩き、枯草を食べさせていたのか。


「そうかそうか」


 そう呟きながら、私はやけくそになりながら続きを読んだ。


『その時、通りすがりの子供が俺を指さし、言った。』


 子供が男を指さして口を開く。


『「チンパンジーだ!」事実だが、俺は無視した。』


 男は人間に手綱をつけて歩くチンパンジーになった。女性はチンパンジーと戸越銀座でデートをしている。


『ふと気になって振り返ると、』


 チンパンジーが振り返る。


『ターミネーターまだ俺達を追いかけて来ている。』


 女とチンパンジーはデートがてら、ターミネーターから逃げ続けていた。


『その時ラクダが躓き、』


 女が躓いた。


『大荷物の蓋が開いて中からピーナッツの妖精達が逃げて行った。』


 女の持っていた荷物に入っていたのは、ピーナッツの妖精達だった。


『それを乗っていた戦車で全て撃ち殺すと、』


 チンパンジーは戦車でピーナッツの妖精達を殺した。チンパンジーは戦車から女の手綱を握っていたのだ。


『女の乗っていたクラーケン清掃員がそれを掃除した。』


 女の乗っていた清掃員のタコの化け物がそれを掃除した。


 チンパンジーは戦車から、ピーナッツの妖精の入った荷物を持った、クラーケン清掃員に乗った女から伸びる手綱を握りながら、ターミネーターから逃げながら女とデートをしていたのだ。


『そして俺達は行きつけのラブホテル、「オアシス」に向かって行った。』


 そこで小説は終っていた。

 私が沈黙していると、小説家志望の若者が尋ねて来た。若者はさらに続けた。


「どうでしたか?因みに途中で出て来る山口さんは山口もえのことです。」


 公園で声を掛けて来た夫妻は、山口もえと爆笑問題の田中裕二になったが、私にとっては最早どうでもよかった。


「え~と、これってジャンルは何でしょう?」


すると小説家志望の若者は揚々と答えた。


「はい、官能小説です」


 さらに小説家志望の若者は爛々とした目で、

「で、どうでしょうか出来は・・・」

と尋ねて来た。


私は「何か言ってやらねば」と思い、しばらく考えた後、言った。


「だとしてもないですね」

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