一日一編

馬東 糸

020101【鴨は溺れてしまったのか】

 あの鴨は溺れてしまったのだろうか。

 目が覚めて、A氏が横に居ない事を確認し二度寝をした。

 電話の音が鳴る。

「今終わったから駅に向かうけど、どうする」

 返事をして、ベッドから飛び起きた。頭と体が未だきちんと繋がっていないのだろう、やや不気味な動きをする自分に戸惑ってしまう。

 身支度を適当に済ませ、電車に乗った。飲み込むように扉が閉まり、これで一安心かと思って駅に着くまでの間は目を瞑っていた。一駅ごとに扉がけたたましく開き、風が入ってきて体を芯から冷やした。両手を両脇に挟み、可能な限り丸まって体に残っている体温を逃さないよう努める。私だけがこんなに寒いのかと心配になり、ふと顔を上げて向かい側の席を見るとこれまた凍えそうにしている親子がいて安堵した。

 彼とお昼ご飯を済ませると、広い池のある公園を散歩する事になった。自動販売機で買った温かい缶珈琲を飲んでいるが、それだけでは幾分頼りなかった。

 暫く歩き進むと、鴨が一羽池の水面に浮いている事に気が付いた。ゆっくりと滑るように進み、進む方向と逆側には美しい波紋が出来ていた。私はその存在を知らせようと袖を引き、彼の足を止めた。

 しかし、私がその一瞬間目を離し、再び戻した時には水中に潜る時のお尻が辛うじて見えたのみであった。くそうと声を殺しながら静かに待ってみたが一向に上がってくる気配はなく、明らかに潜水時間の限界を超過しているように思えた。不思議そうな顔をする彼に鴨は溺れることはあるかと不躾な質問を投げてみた。彼は少しだけ困った顔をしていた。

 手に持っていた缶珈琲はすっかり冷めている。ただでさえ薄い味は更に薄くなり、もはや残りをどう処分しようかと途方に暮れていた。

 その瞬間だった。水面へ勢いよく、生まれ出たかのように先程の鴨が飛び出してきた。口には小魚を咥えているようだった。頭を軽く振り、水を切っている姿が光を反射して、それは美しかった。

 彼はそれを見て私に優しい眼差しで答えた。

「溺れていなかったね」

 私は持っていた珈琲を唇に当て、もう寒くないことを確かめた。

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