第五十二話 ハイジ、犬と契る
卒業式と謝恩会が終わって。三分の一の学生を失った本井浜は、ひっそりと静まり返った。翌日、おばあちゃんの家に両親とわたし、タロの四人で集まって、今後の話をする。
「すぐ入籍するつもりか?」
それは質問じゃなくて、詰問。お父さんは、まだわたしたちの結婚を認めるつもりがないんだ。でも、その気持ちは理解できる。生活の苦労も知らない、社会人としての経験もない、ないない尽くしのわたしを心配するのは当然だもん。わたしがまだ子供なのは事実だから、偉そうなことは何一つ言えない。だから、一歩引いて答えた。
「しないよ。まだ」
「え?」
即時結婚にこだわると思っていたんだろう。お父さんがびっくりしてる。
「一番最初にタロに言ってあるの。法律で、未成年の結婚には親の許諾がいるってことをね」
「ううむ。それは知らなかった」
ふわふわ浮かれたことばかり考えてる……そういう甘ったるい意識があるのは否定できない。だからわたしは、一番塩辛いところからタロとの人生を始めたい。
「わたしが成人するまでは婚約のまま。その代わり、成人と同時に夫婦としてのスタートを切る」
「それまでは試行期間ということだな」
「試行なんかしてる暇ないわ」
自分を甘やかせば、タロの中にしか居場所がなくなる。それは……神家の中に幽閉されることと何も変わらないんだ。
「ここで。本井浜で、わたしに何ができるか、どうするかを四年かけて考える。それは」
大きな声で、しっかり宣言した。
「誰にも邪魔させない!」
「わかった」
大学の四年間は、高校以上に重要で無駄にできない。モラトリアムなんて論外だ。高校生としての制限がなくなった自由さだけを享受して、社会人へのステップアップをおろそかにしたら、わたしはまたタロに置いていかれる。そんなのはまっぴら。
タロの顔を見ながら大きな溜息を重ね続けたお父さんは、もう一度うわ言のように繰り返した。
「わかった」
◇ ◇ ◇
先に呉に帰ったお父さんとは別に、一日長く本井浜に残ったお母さんと少し込み入った話をした。
「ねえ、のりちゃん。あんたがいいとこに就職したら、太郎さんをここに縛り付ける必要はなくなるんじゃないの?」
あまり男女差っていうのを考えないお母さんは、無邪気にそう言った。まあね。でも、わたしがここに、本井浜にこだわる理由はそういうことじゃないんだ。
「ねえ、お母さん。お父さんの転勤先についていくために、長いことがんばってた仕事をあっさりやめたでしょ」
「あっさりではないけど。そうね」
「お母さんにとって、お父さんがいるところが海。海から離れたら、魚は死んでしまう。違う?」
お母さんが、かすかに笑った。でも、否定しない。
「海にいるからタロなの。だからわたしは、タロをここの海から引き剥がしたくない。タロは生粋の海の人なの」
「海の人……かあ」
居間の窓をいっぱいに開けて、まだ冷たい海風を家の中に導く。少し粘りを感じる潮風。鼻腔をくすぐる磯の匂い。ここに来て、自分が海に連なっているということを確信し、それを一度も否定することなく時を重ねてきた。これからも、ずっと海を感じながら生きていきたい。海の男、タロと二人で。おじいちゃんとおばあちゃんが、ずっとそうしてきたように。
お母さんが、ずっと沈黙を守っていたタロに尋ねた。
「太郎さん」
「はい」
「苗字はどうされるの?」
タロが即答する。
「俺の犬神家という名は、もう使えないんです。拝路にします」
「そう……拝路太郎にするということね」
「よろしくお願いします」
タロが深々と頭を下げた。
お母さんは、記憶喪失のタロが仮の戸籍に納得していないからと取っただろうな。違うの。犬神家というのは御座の代称。すでにそこに別の神様がいるのなら、代称は返上しないとならないんだ。人間界と神家は別々の世界だと思うけど、タロはどうしても嫌なんだろう。律儀なタロらしいなあと思う。
お母さんが、満足したように頷いた。
「お父さんは、拝路という姓を残してくれることにすごく感謝すると思うよ」
「え? そうなの?」
「もちろんよ。本来なら、拝路姓はお父さんで終わりになるはずだったから」
「あっ!」
そうかあ……。お父さんにはお姉さんしかいないし、わたしも娘だし。
「昔と違って、今は姓と一緒に継がせるものがないからね。そんなにこだわる必要はないんだけど」
「うん」
「でも、姓は血族が生き続けて来た証拠だから」
そう言って。お母さんが、途絶えてしまった『柴崎』っていう姓をじっと見上げた。柴崎姓を持つ人は他にもいる。でも、おじいちゃんに連なる系譜は、苗字からはもうわからなくなったってことか……。
◇ ◇ ◇
両親が帰って、タロと二人きりになった。高校生という呪縛が嘘のように消え去って、わたしたちの航路を妨げるものは一切なくなった。わたしとタロはどちらからともなく手を差し出し、正面から抱き合った。タロの全身から潮の匂いが立ち上る。わたしは今……タロだけじゃなく海にも抱かれているんだろう。
タロにひょいと抱え上げられる。最初に出会った時の線の細い印象は、もうどこにも残っていない。日々の潜水作業で鍛えられて、四肢や胸、肩の筋肉が盛り上がっている。それらは人工的に作られたのではなく、生きるために積み上げられたのだということを実感する。タロが神様でも魚でもなく、タロという唯一無二の存在になったということを、どうしようもなく実感する。
わたしは両腕をタロの首に回した。息遣いを感じて、想いが高ぶる。身体が芯からかあっと熱くなる。
「行こうか」
タロの言葉には「どこ」がなかった。制限がなくなれば、今度はそれを言い訳にできなくなる。わたしが「いやだ」と言えば、それが制限になってしまう。タロは……わたしを試したんだろう。この先、本当に二人で歩いていけるかどうかを。初夜は契り。婚約の約の字を取るための、大事な契りだ。迷わず答えた。
「行こうよ」
「ああ」
寝室ではなく、客間に敷いた真新しい布団の中で、初めてタロとキスをし、初めてタロに愛撫され、初めてタロに貫かれた。破瓜の強い痛みを堪えていた時、初めてタロと並んで歩く自分の姿をリアルに思い描けた。快楽ではなく、脈動する痛みがわたしを突き動かす。止まるな、歩け! 歩くな、走れ! そう急かす。
ねえ、タロ。わたしは必ずここに戻ってくる。ここでタロと新しい神家を築くために。だから、わたしは全力で走ることにするね。
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