第三十八話 ハイジ、犬の元に帰る

 修学旅行から帰る時。わたしの心は乱れたままだった。やっとタロの顔を見ることができるっていう嬉しさと、タロに辛い決断させちゃったことをどう謝ったらいいのかわからないっていう辛さがぐっちゃになって。でも、タロがもう引き返せないのなら、わたしも覚悟しないとならないんだろう。


 お土産でぱんぱんになったショッパーをいくつも抱えて、おばあちゃんちに帰り着く。


「ただいまー」

「のりちゃん、おかえり。楽しんだけぇ?」

「あはは。ちょっとお腹壊したりしたけど」

「あら」

「疲れちゃったから、部屋で少し横になる。お土産話は晩ご飯の時にするね」

「ほうじゃね。ゆっくり休みぃ」

「うん」


 おばあちゃんは、わたしをそっとしといてくれた。様子がおかしいなと思ってくれたんだろう。


 自分の部屋で床に大の字になって、木目模様の天井をじっと見上げる。修学旅行のお土産はいろいろあるけど。あの時じゃないともらえなかった切ないお土産があって。わたしはそれをずっと思い返していたんだ。


◇ ◇ ◇


 わたしが沖縄の海にタロの髪を返して休憩室に戻ったちょっとあとに、福ちゃんが様子を見に来た。


「拝路さん、どう?」

「痛いのは治まりました。まだむかむかはしますけど」

「胃が相当荒れてそうだね。帰ったら、すぐ病院に行った方がいいよ」

「えー?」

「ストレス性胃炎を持病にしちゃうと、受験の時にしゃれにならない」


 う……そっか。


「まあ、拝路さんの場合は、悩みのもとがそっち系じゃなさそうだけど」


 つらっと言った福ちゃんが、右手の小指を立てた。ただ……これまでわたしをからかってきた人たちみたいに、笑って茶化さなかったんだ。


「……はい」

「恋愛ってのは、どこまでもめんどくさいもんだよ」


 吐き捨てた福ちゃんは、わたしの横に座って畳の上に両足をぽんと投げ出し、そのままごろんと大の字になった。


「それがどんな形でも。うまくいってもいかなくてもね」

「そうなんですか?」

「だから、妄想してないで経験しろってのが、私の持論なの。甘い部分だけ食った気になってるのは恋に恋するってやつさ。エア恋愛はちっとも身にならない。げろまずじゃんと文句言いながらでもちゃんと食わないと、栄養にならないんだ」


 福ちゃんは美人だし、恋愛遍歴がいっぱいあるんだろなあと思ったんだけど、浮いた話を聞いたことがない。いくらきつい性格だって言っても、噂話の一つくらいありそうなもんだけど。


「先生は、恋愛経験あるんですよね」

「一つだけね。それは経験のうちに入らないかもしれない」

「え? どうしてですか?」

「一つだけで。うまく行っちゃったから」


 あれ? でも福ちゃんは独身のはず。カレシがいるってことなんだろうか? 首を傾げたわたしを見て、福ちゃんが微かに笑った。


「そいつはもうこの世にいないんだよ」


 そ……んな。わたしは、何も言えなくなってしまった。


「大学で知り合って、すぐに彼が一生のパートナーだって確信した。相手もそう思ってくれて。卒業と同時に結婚するぞって意気込んで」

「はい」

「卒業直前に、交通事故で死んだんだ」


 福ちゃんは、淡々としゃべった。まるで、ニュースの解説者みたいに。他人事のように。


「その時は、後を追おうと思ったんだよ。彼のいない世界なんか、もう何の意味もない。私の半身が力任せにもぎ取られたような、耐え難い痛みだったんだ」

「そ……んな」

「恋愛ってのは、そんなもんなんだよ。どんな始まりで、経過で、結末であっても、心が深くえぐれるんだ。生血がだらだら流れるんだ。そいつは、必ずしも私たちの望んだ形にはならない」


 ショックだった。オトナになれば、じれったい感情がちゃんとコントロールできるようになると思ってた。でも、逆だ。もっと難しくなる……ってことなんだろな。


「エロ女だってそうさ。あいつはそもそも恋愛をまだ知らない」

「えええっ!?」


 信じられない……けど。


「いい女は、自分も相手も見た目にトラップされやすい。恋愛に持ち込もうとしても、目の前のハードルが高くなっちゃうんだ」

「そうか……」

「相手の何もかもを受け入れ、飲み込んでくれるようなデカいやつなんかそうそういないって。そんなのを期待してるうちは、寸足らずの他人を受容できない。白馬の王子さまなんざ、最初から期待するだけ無駄だ。そうどやした」

「福西先生は?」

「私かい?」


 福ちゃんが、ゆっくり体を起こした。


「やっと涙が涸れたとこ。これからだよ」


◇ ◇ ◇


 人を好きになるっていうのはすっごくめんどくさいこと。好きになるプロセスとかその結末に、決まった形なんか何もないよ。福ちゃんの話は、すうっとわたしの心に染み込んだ。


 髪を切ったあとも、何事もなかったかのようにおいしそうにご飯を食べてるタロを見て、苦笑しちゃう。


「ねえ、タロ」

「うん?」

「やっぱ、髪短い方がかっこいいよ」

「そうか?」


 わたしを見るタロの目が八の字になった。ふふ。わたしはその顔だけで満足できる。嬉しい。ただ……そのタロの顔はわたし一人に向けて欲しい。わがままなのかな? でも、それが好きってことなんだよね。


「タロ。わたしね、話したいことがある。あとでね」

「ああ。わかった」


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