第三十四話 ハイジ、犬の髪を気にする

 エバ先生のどつぼは、学校内だけでなく、あっという間に町内全域に広まった。きっと、福ちゃんがオープンにしろって言ったんだろう。前に出て行く時だけ開けっぴろげにしてどつぼったのを隠すと、いずれバランスが崩れてひっくり返る。今回はまだ精神ダメージが軽度で済んだけど、ひどくなったら仕事辞めるとか人間辞めるっていうレベルになるぞ! 福ちゃんのどやしは半端なかったらしい。そんな深刻な話をべろんべろんに酔っ払ってするのが、いかにも福ちゃんだなあと思う。


 エバ先生的にはすぐ復帰したかったみたいだけど、福ちゃんが強制的に十日間の実家帰りを命じたって聞いた。


「ホームシックだよ。年齢には関係ないんだ」


 うん。わたしと同じだったってことか……。自分にも経験があるから、よーくわかる。寂しさを他の何かで埋めようとすると、ものすごくいっぱい元気を絞り出さないとなんない。でも、空元気の放出が行き過ぎたら周りに引かれちゃうんだ。タロが来たばかりの時もそうだったけど、みんなが物珍しさで興味を示してくれるのは始めだけなんだよね。


 エバ先生は、すごく辛かったと思うな。最初はみんな自分をちやほやしてくれたけど、じゃあと言って深く踏み込もうとすると、まともな人ほど下がっちゃうんだ。黒部さんやタロに煙たがられ、漁協の若い人や学生には高嶺の花として遠巻きにされてしまった。こんなはずじゃなかったのに……。エバ先生が焦って動き回るほど、町の人との距離が逆に開いてしまう。

 学校でもそうだよね。エバ先生と同じくらいの年の女性教師は福ちゃん以外いない。独身男性教師は皆無だ。生徒への受けもよくない。男子を夢中にさせちゃうから、女子からは総スカン。男子だって本気にはならないでしょ。先生たちの目がすごく厳しいから。

 エバ先生の感じてた疎外感や孤独感は、はんぱなかったんじゃないかな。わたしには友だちやおばあちゃんがいたし、ホームシックって言っても軽かったんだろう。先生は自分がオトナだって自覚してたから、かえって我慢しちゃったんじゃないかなと思う。


 じゃあ、タロは? 神家で感じていたはずの底なしの疎外感や孤独感にどうやって耐えていたんだろう? あそこ以外の世界を知らないから気にならなかった? いや……他の神様たちはみんな寄り集まってた。そこに入れなかったタロは、きっと辛かったと思うんだ。それは、神様で居続ける限り解消できないことだよね。

 もやもやといろんなことを考えながら部室に一人残って展示の準備をしていたら、杉田先生がひょこっと近寄ってきた。


「あ、先生。なんとか間に合いそうですー」

「済まんね。まあ、年によってでこぼこがある。今年の子はのんびりが多いんだろう。ああ、そうだ」

「はい?」

「拝路さんは、進路はどうしようと思ってる?」


 あ。一瞬頭の中が真っ白になった。


「まだなにも……」

「慌てることはないけど、うちの場合は海洋研究科の大半が海洋学や水産系に進むから、それ以外を考えてるなら情報を集めておいた方がいいよ」

「それ以外って……いるんですか?」

「結構いる」


 杉田先生が、メガネを外してぐりっと目玉を回した。


「海に対する憧れだけじゃ、一生は続かないよ。海には、魅力や引力だけじゃなく欠点も危険もあるから」

「はい……」

「見えていなかった側面を見たことで印象が動くのは、よくあることさ」


 筋論がりがりだった各務先生と違って、杉田先生はすごく視野が広い。さすが、生物部の顧問だなあと思う。


「まだ……自分がやりたいことっていうのがイメージできなくて」

「そんなもんだよ。今からかっちり決まってる子の方がこわい」

「そうなんですか?」

「これをやるって早くから決めすぎちゃうと、それが叶わない時に壊れることがあるからね」

「あ、そうかあ……」

「いくつか選択肢を持って歩いて、その中に自分を仮置きして。インターンシップなどもそうだけど、体験を通して自分との適正を考えていくっていうのが一番いいと思う」


 進学ならそれでいいんだろうけど。タロとのことは……なあ。わたしがしょげていたら、先生が苦笑した。


「彼氏とのことだろ?」


 どっきーん! 見破られて、どぎまぎする。


「あわわわわ」

「はっはっは。まあ、あと一年は我慢するんだな。卒業したあとは、拝路さんがどんな選択をしても自己責任だ。誰も文句は言わんし、言えない」

「そうなんですか?」

「そりゃそうだよ。高校だって本来はそうなんだ。義務教育はもう終わってるんだから」

「そっか……」

「高校でそっち系をオフにしてるのは、君らの事情じゃなく、学校側の事情さ」

「どういうことですか?」

「稼ぎもないのに夢ばかり見てるバカップルを安易に養殖してどうするんだ……親たちにそう糾弾されたら、学校は成り立たないからね」


 ううう、先生ってば何気にえぐい発言を。ぐっさり刺さったわ。


「それでも、学校が規制してるのは行為だけだよ。想うことは自由……というかそもそも制限できない。海に境界がないのと同じだな」


 粋なセリフで締めくくった先生は、メガネをかけ直して目を細めた。


「がんばれ」


◇ ◇ ◇


 学園祭の準備になんとかめどが立って、一息つけられた。タロと並んで食べる晩ご飯が、格別おいしい。今日はサルエビがどっさり茹でてあって、手が止まらない。殻をむきながら、タロに話しかける。


「ねえ、タロ」

「うん?」

「その髪さあ。切らないの」

「切らない」


 公務員になるのにそれでいいのかなあって、ちょっと心配になったけど。所長さんはいいって言ってるのかな。わたしをじっと見下ろしていたタロが首を振って、背中に垂らしていた長髪をふいふいと揺らした。


「いや……まだ切れないんだ」

「え?」


 タロは、そのまま黙り込んでしまった。


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