第二十四話 ハイジ、犬と一周年を祝う
ばたばた全力で駆け回っているうちに、あっという間に夏休みになっちゃった。おばあちゃん家にはエアコンがないから、梅雨が明けて本格的に暑くなってくると、おばあちゃんの老セン通いが頻繁になる。わたしも、日中はずっと海に出ていることが多い。その方が涼しいからね。
「ふうっ。一年、経っちゃったんだなあ」
はまや食堂で昼ご飯を食べて、突堤の先っぽまで歩いていった。波が穏やかな瀬戸内海ではごつい防波堤が少ないから、海岸や港の光景が優しい。あるかないかの波に揺られて、早起きだった漁船たちがのんびり昼寝している。そこから少しだけ視線を上げると、たゆたゆと寄せては返すさざ波に刻まれた夏の日差しが、玻璃のかけらを無造作に散らしている。わたしは、その輝きの間に少しずつ記憶を織り込んでいく。
神家でタロと出会った。出会いは最悪だったと思う。突然神家の中に引きずりこまれて、生贄だって言われて、戸惑っているうちにいきなりプロポーズ。冗談じゃないって拒絶して、神家から出してくれたら前向きに考えてもいいって言ったんだよね。その時には、犬顔の変な男の奥さんになることなんかこれっぽっちも考えてなかった。でも……。
今わたしは、もやもやと夢想し続けている。ここで。本井浜で。タロと二人で暮らしている自分の姿を。
運命っていうのは、たくさんの偶然の積み重ねなんだろう。そして、一度選び取ってしまった運命を逆回しすることはできないんだ。
タロは、わたしの無謀な提案を飲んだ。それは運命の選択。今のタロは、それを後悔していないだろうか。神家の中で、小さくても神様として在り続けた方がよかったと思っていないだろうか。
タロと同じように、わたしもタロの隣にいるという運命を選んでいる。これまでは、ね。でも、まだ高校生で不安定なわたしは、いつまでタロの隣にいられるかわかんない。それがすごく不安なんだ。わたしとタロの間には、何も約束がない。どちらかが離れると言ったり、離別を決めて行動すれば、それで終わり。
無我夢中で歩いてきた一年の片側に、いつもタロがいたこと。それがただの思い出になるのか、それとももっと濃密な運命の助走路になるのか。わたしにはまだ……なにもわからない。
突堤に座って両足を投げ出す。何も変わらないように見える瀬戸内の穏やかな海。でも、その中の海水はちゃんと入れ替わっていってる。一年の間に、わたしという海に何が入って、何が出て行ったのか。それを……ぼんやりと考え続けた。
「ノリ」
「え?」
いつの間にか、タロが隣に立っていた。
「休憩か?」
「うん。調査は一段落。今家に戻ったら蒸し風呂だから、日が傾くまでは磯溜まり見て歩こうと思って。タロは、お昼ごはん?」
「いや、今日は上がりだ」
「えー?」
「潜水調査が立て込んでて、これまで休日出勤が多くてな」
「そっか。代休かー」
タロがわたしの隣に座るのを待って、前から疑問に思っていたことを聞いてみる。
「ねえ、タロ」
「なんだ?」
「もし。もし、さ。あの時神家の中でわたしがオーケー出してたら。今頃どうなってたの?」
「……」
タロは、いつも浮かべている微笑みを消して、じっと海面を見下ろしていた。
「わからん」
「えー?」
「神家の俺たちには、そこにいる限り嫁を迎えられる機会がほとんどないんだ。あそこにいる誰もが半ば諦めてるんだよ」
「タロも?」
「もちろんだ。そんなところにノリがいきなり飛び込んできた」
「何言ってんの。タロが引きずり込んだんじゃん」
「違う」
え?
顔を伏せたまま、タロが小さい吐息を漏らした。
「あそこは……かつて龍神の在所だった」
「タロが説明してくれた、アレね?」
「そう。島の中だけじゃなく、島には神の司る領域……神域というのがあるんだ」
あっ!
「じゃ、じゃあ、あのあたりは島の外も……」
「そう。岩礁だけになってると言っても、あそこは神の島。住んでる俺たちの力が弱いから龍のするようなことはできないが、神域に入り込んだものは生贄の扱いになるんだ」
「冗談じゃ……なかったんだね」
「まあな」
手を伸ばしてホンダワラのかけらを拾ったタロは、それをひょいと海に放った。
「絶対に捧げられるはずのない生贄が来てしまった。ノリを引き上げた俺たちは……困って押し付けあったんだよ」
「うそお!」
「俺はたまたま勝ち残ってしまったんだ」
知らなかった……。
「じゃあ、なんで嫁にとか」
「それが、神に捧げられた乙女を生贄でなくする唯一の方法だからだよ。龍神と同じだ」
「そ、そういうこと……だったのかあ」
「まあな」
そのあと。いつものように微笑みを浮かべたタロが、ぽそっと言った。
「でも」
「うん」
「俺は……神家を出てよかったと思ってる」
「ほんとに?」
「そうだ。ここは……楽しい」
学園祭の時と同じだ。タロは『楽しい』っていう言い方をする。逆に言えば。神家の中は楽しくなかったってことなんだろう。わけのわからない世界にきて一年。タロにとっては大変だったと思うけど、悪いことばかりじゃなかったと思いたいな。
「あれから一年だね」
「そうだな」
「タロの好きなお刺身、大盛りで用意しとく」
「ありがとう。楽しみにしてる」
いつも食事の前にするように。立ち上がったタロが、わたしに向かって三拝した。それから、もう一度丁寧に感謝の言葉を繰り返した。
「ありがとう」
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