第二十二話 ハイジ、犬と通話する
三月。海は少しずつ春の装いを見せるようになってきた。海風が温くなって鼻の奥につんと刺さらなくなり、海面をうらうらと照らす日差しが暖かいもやを作って波を覆う。大好きな瀬戸内海の春景色が、もうすぐ毎日を彩ることになる。
わたしの心も、近づいてきた春と鼓動を合わせるようにして、じわりじわりと温度が上がり始めていた。去年の暮れにいろいろあった嫌なことが、潮が引くように片付いていったからだ。
乙野高校は県立だから、先生は入れ替わって行く。1Aの担任だった各務先生は他校に転出になった。わたしは裏表がない各務先生は嫌いじゃなかったけど、他の子たちはすごく嫌ってた。福ちゃんがどやしてたみたいに硬派一直線で、デリカシーがなく、どやしてばかりでケアを全然しないから。やんちゃな子が多かった水産高校時代ならともかく、今の乙野高校には合わないんだろう。けんか相手がいなくなっちゃうから、福ちゃんは寂しがるかもね。
学年末試験の成績はかなり押し戻せた。V字まで行かないにしても真ん中から少し上くらいには。これで、落ち着いていろんなことが考えられる。転校とか転籍とか、そういう崖っぷちに立たされるのはもうこりごりだ。これからは気をつけないと。
わたしに嫌味をぶちかました水谷部長は、神戸大に一般入試で合格した。推薦じゃなかったことを聞いて、杉田先生の言ってたことが頭をよぎった。
『部長というポジションにいないとわからないことがある』
自分の未来を掴み取るための勉強をすることが、学校にいる意味だとすれば。それ以外のことに時間を持っていかれる部活の長をこなすのは、すごくしんどかったのかもしれない。今更だけど、申し訳なかったなと思う。
でも、生物部で「卒業生を送る会」をやった時に、広大に合格が決まってた
「ハイジー、それ、違う」
「え?」
「おまえ、地元生じゃないだろ」
「あ、はい」
「それなのに、漁協や水試にコネがあって、ばりばり利用してる。水谷のは嫉妬。ジェラシーだよ」
うわ……。全然気づかなかった。そうだったのか。
「まあ、俺たちまだガキだから、いろんな感情を消化できねーってことはあるわ」
「そうなんですか?」
「そりゃそうさ。自分より成績いいやつは、こいつ余裕こきやがってって思うし。がんがん出てくるやつは、引っ込んでろって思うし。陰キャはうぜえって思うし」
「ひええ」
「でも、そんなもんだよ。人のことより、自分とうまいこと付き合わんとさあ」
なんか……三年生ってものすごくオトナに感じたけど、そんなこともなかったんだな。わたしは、感情のでこぼこをちゃんと丸められるようになるんだろうか。どうも……自信がない。
「まあ、がんばれや」
「はいっ!」
「石頭の各務もいなくなるし、そっち系も少し楽になるだろ」
先輩は、そう言って右手の小指をぴっと立てた。周りにいた部員が、一斉にわたしを見てげらげら笑った。ううう、わたしはおつまみじゃないよう。
でも、こうやってタロとのことをいじられるのは人との接点があるってことだ。わたしは、前向きに考えるようにしよう。
◇ ◇ ◇
「やほー。タロ。ちゃんと起きてる?」
「んんー」
まだぼけ倒してるなー。大丈夫かな。
おばあちゃんから起こされるのと目覚まし。そのダブルでもタロの寝起きはよくない。目を開けたまま寝てるんじゃないかと思うこともある。なので、春休みに呉の実家に帰っている間も、モーニングコールは欠かさなかった。
「起きたー」
「いいけど、おばあちゃんに迷惑かけないでよ。朝ごはん作って待ってるんだから」
「わかってる」
ごそごそと布団をたたむ音がして、タロの始動を確認できた。これで安心だ。やれやれ。通話を切って、わたしも始動する。着替えて、顔を洗って、朝食の支度を手伝おうと思ったら、もう準備ができてた。
「お母さん。朝食、早くない?」
「いやあ、こっち来てからはいつもこの時間よ」
「ふうん。まだ七時前なのに」
「横浜と違って、こっちは職住接近。パパの通勤に時間がかからないから、ほっとくとぎりぎりまで寝てるの」
「なある。だから、逆にうんと早くしてるわけね」
「そう。一番快適な時間なんだから、無駄にするのはもったいないでしょ」
「そだね」
お父さんは昨日から出張で横浜の本社に行ってて、今日はお母さんと二人だ。きっと、お父さんがいるところでは言えない突っ込みが入るだろうなあと身構えていたら、案の定。朝食のあとのコーヒーには、砂糖じゃなく、えげつない突っ込みがついてた。
「ねえ、のりちゃん」
「んんー?」
「避妊してるの?」
ぶーっ! 思わずコーヒーを吹いちゃったよ。
「な、なにをいきなり」
「いやあ、母親としては一応いろいろ覚悟しておかないとさあ」
「そっち系にぶっ飛ぶような話じゃないよー」
「でも、好きなんでしょ?」
「う……」
嘘は言いたくなかった。言いたく……なかったんだ。
「好き。でも、まだ告白してない」
「あら」
意外だーって感じで、お母さんがわたしをじろじろ見回す。
「向こうの感触は?」
「わかんない。だって、記憶喪失なんだよ?」
「それもそうか」
「タロは、まだおっかなびっくり生活してる感じ。わたしのことを考える余裕はないと思う」
「ふうん」
しょげちゃったわたしの顔を覗き込んで、お母さんがにやっと笑った。
「んなもん、あとはパッションよ。押し倒しなさい!」
「ちょっと! 普通逆じゃないの?」
「とろっとろやってたら、誰かに盗られるわよ」
どっきーん!!
お母さんが思い出し笑いしながら、舌舐めずりした。
「私なら放っておかないわ。いいオトコよねえ……」
ううう。お母様。それは激しすぎます。
「まあ、あんたもなんだかんだ言ってお父さんの子ね。理屈が先走って、肝心な時に腰が引ける」
「はあ……そうかも」
「アタマで考える恋愛はうまく行かないよ。それだけは言っとく」
「うう。アドバイス、サンクス」
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