第五話 ハイジ、犬を餌付けする

「目ぇ、覚めた?」


 まだぼやあっとしていたタロの肩をつかんで、何度か揺すった。


「ああ。すまん。眠り込んでしまった」

「いや、神家の中と外じゃクウキが全然違うんでしょ。しょうがないと思う」

「そうか……まだ……実感が湧かん」


 半身を起こしたタロが両手を開いて、それをじっと見つめている。本当にそれが自分の体なんだろうかと疑うみたいに。


「ねえ、タロはずっとあそこにいたわけ?」

「そうだ。の時には離れていたが、時間としてはわずかだ。あとはずっと御座にいた」

「他の神様も?」

「いろいろだな。戻ってこない者もいた」

「えー? じゃあ、入れ替わってるってわけ?」

「そうだ。俺のところもそうなるんだろう」


 なるほどな。すごく力を持ってる神様ならともかく、下っ端の神様だったら順番待ちがいっぱいいるってわけか……。タロを強引に引きずり出してしまったわたしは、ちくっと胸が痛んだ。


「こっちに来たのを後悔してない?」

「いや、俺が決めたことだ」


 タロはきっぱり言い切った。うん。なんか……いいかも。


「お腹空いたでしょ。晩ごはんにしよ」

「いいのか?」

「最初は仕方ないわ。神家の中とここがどれくらい違うかわからないけど、少なくともここにいる限りはここのやり方で生きてかないとならないでしょ?」

「ああ、そうだな」

「何もかもいっぺんにはできないと思う。少しずつ慣らせばいいんじゃないかな」

「助かる」


 布団の上にゆっくりと立ち上がったタロは、わたしに向かって三度ぺこぺこと頭を下げた。


「えと。どゆこと?」

を捧げてくれる乙女には、三拝するようにと決まっている」

「へえー! すごいじゃん!」

「そうなのか?」

「こっちじゃ、女がごはん作るのは当たり前だって踏ん反り返ってるやつがいっぱいいるよ」

「む!」


 タロの顔が怒りで赤く染まった。


「それは、不敬ではないか!」

「みんながタロみたいに思ってくれるといいんだけどねー。神家にいた龍神だって、ろくでなしだったんでしょ」

「ああ、確かにそうだな」


 どうにも理解できないという感じで、タロが何度も首を傾げた。


「どうぞー。もう料理は並べてあるから」

「ありがたい」


 ものすごくクラシックなわけじゃないけど、今の若い人とはかなり波長が違うっていう感じだなあ。慣らすのが結構大変そう。ぶつくさ言いながら居間に行ったら、おばあちゃんがもう席についてて、タロが来るのを今か今かと待ち構えていた。


「ああ、太郎さん。大丈夫かい」

「ご親切にしていただき、ありがとうございます」


 馬鹿丁寧なタロのお辞儀を、おばあちゃんがにこにこといなした。


「まあ、お腹が空いとると何も思い出せんじゃろ。いっぱい食べ」


 無言で再び一礼したタロが、料理を見渡してうなった。


「こんな宴に招かれることなぞ、ついぞなかったな……」

「ええー? 宴じゃないでしょ。いつものうちの晩ごはんだよー?」

「なんと!」


 それまで硬かった表情がでろんと崩れて、目尻がだらしなく下がった。


「では」

「どうぞー。ご飯と汁はお代わりあるからねー」


 そのあとがすごかった。いやあ、食べるわ食べるわ。普段、おばあちゃんと二人だけだと、ちょびっとで間に合っちゃうんだよね。でもタロは、獰猛に見えるくらいの勢いでがつがつ食べた。食べ方も変だったな。ご飯や汁にはほとんど手をつけない。お魚、それも洗いやお刺身だけをこれでもかと食べた。


 ふむふむ。つまり神家でタロが食べてたのは、もっぱらそっち系ってことなんだろう。これが毎日ならお財布が保たないけど、今日は特別。お詫びと……わたしについてきてくれた決断へのごほうびだ。タロには無理させちゃったからね。


「太郎さん。ようけ魚を食べよるのう」

「こんな美味なものは食したことがありません」

「まあたまた。ほっほっほ」


 おばあちゃんは、たくさん食べる人を見るのが大好き。作ったものをおいしいおいしいって食べてくれるのは、料理した人にとっての一番の幸せだもんね。わたしは、おばあちゃんの家に来てから炊事を手伝うようになったけど、自分の好みのものよりおばあちゃんが喜んで食べてくれるものを作りたくなっちゃう。そういうのって、やっぱ伝わるんだよね。

 タロの好みも魚系みたいだな。おばあちゃんと一緒って考えていいんだろう。本井浜は漁港だから、魚の種類を選ばない限り食材はすごく安く仕入れられる。タロの餌付けは難しくなさそうだ。


「のりちゃんは、もう食べんのかい」


 おばあちゃんに言われて我に返った。おっと、ぼーっとしてたらタロに食い尽くされちゃう。わたしは慌ててハタの洗いに手を伸ばした。


「んーっ! おいしいっ! これだけは他じゃ味わえないもんなあ」

「そうなのか?」


 すかさずタロのチェックが入った。


「そりゃそうよー。市場に出荷されたら、お店に出るまで時間かかるの。どんなに上手に締めてあっても、鮮度が下がっちゃうもん」

「ううむ」

「お魚が好きな人は、一度ここに住んだら他には行けないだろなー」


 お茶を淹れに台所に行ったおばあちゃんが、テーブルに戻って言った。


「ほっほっほ。私も嫁いできた時、ええとこ来たいうて大喜びしたけん」

「おばあちゃん、ほんとにお魚好きだもんね」

「ほうじゃ。じいさんと魚さえありゃあ、他は何もいらん」


 ぽつり。ぽつり。おばあちゃんの会話の中には、少しずつ後悔と諦めが混じってる。おばあちゃんとの生活は楽しいけど……そこだけがわたしにはどうにも切ない。タロにもおばあちゃんの藍色の気持ちが伝わったのか、ずっと動かし続けていた箸が止まった。


「ありがとう。満たされた」

「よかった。今日は早く休んだらいいよ。まだ、昨日の今日だろうから」

「助かる」


 さっきわたしにしたのと同じように、わたしとおばあちゃんに向かって三拝したタロは、ゆっくり客間に戻っていった。


「のりちゃん。太郎さんは変わった人じゃのう」

「そうなの。でも……悪い人ではなさそう」

「ほっほっほ。ずいぶんと古風じゃ。でも、礼儀をよおく知っとる」

「うん」


 おばあちゃんは気づいてないのか。それとも気づいても見逃してくれてるのか。タロは、食事の時にしっかりぼろを出してる。記憶をすっかりなくしてるはずなのに、こんなおいしいのは食べたことがないなんて言わないよ。ったく。餌付けは簡単だったけど、そっちが心配だなあ……。


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