2話:貧乏人に与えた夢
唐突ですが、貴方は貧乏舌を幸せだと思いますか?
いや、聞き方が悪かった、貴方は貧乏舌を信じますか?
(辞書によると貧乏舌とは、「何を食べても美味しいと感じてしまう人」に対して使う言葉だそうです。)
馴染みのお客に初めて1人1万いくらする鉄板焼き屋へ連れて行って貰い松坂牛のステーキを食べた時、若干16歳にして初めて「生きていて良かった」
と(誇張でも何でもなく、本当に初めて人生が楽しいと)
感じたのは何故でしょうか?
私の家庭は共働きで団地という典型的貧乏家庭で、正月に食べるちらし寿しというのは魚が入っていないのが当然だと思っていました。
酢飯に卵のなんちゃらや椎茸や桜でんぶが入ってるのがちらし寿しだと。
どうやらそうでも無いらしい。
こう来ると貧乏自慢になっちゃいますが、家でも学校でも食事を美味しいと思った事が一度も無い。
家で出されるのは黒こげのハンバーグ、残すと父から殴られる、
給食に出るのは冷めたカレー、家のカレーも不味いが給食のカレーも不味い、
実家を出て気づいたただ一つの真理は「ボンカレーはどう作っても美味いのだ」
そう言えば当時、漫画家志望で日本に来ているという黒人の方と売春関係でお会いしたのですが、ファミレス店にて「アメリカに比べて日本のピザの値段は高い」
と愚痴をこぼしていた事を覚えています。
(後々NHヘルスで別の黒人のポコチンが痛いのなんのって酒飲んでセックスしたら「酒臭い」とクレームが来た話はこっちへ置いといて、)
その方はフェラチオだけで満足してお金払ってくれたので良かったのですが、当時の私は漫画を見て
「この人はジャンプに連載したいと言ってるけれど、こんなに緻密に描いていたら先ずダメだろうなあ」
などと思っていました。
何が言いたいのかと言えば、貧乏とは相対的だと言う事です。
話を戻しますと、私にとって食事の時間というのは苦痛でしか無かった。
ご飯粒一つ残しただけで父からお茶の入ったコップを投げつけられたもんですから、
(それを見てた母親が父の肩を持つってのも理不尽だなあなんぞ今思うとそうですが)
給食は給食で友達がいないものだからトレーを持ってうろちょろしていましたし....
馴染みのお客にニュー松坂へ連れて行って貰った時の事、初めて”生きていて良かった“と感じたのは、
食事に代替される幸福が無かったというのも有りますが、やはり肉だったからでは無いでしょうか?
血湧き肉躍る肉。
これが魚や野菜だったら恐らく感動しなかったでしょう、
あのミディアムレアのステーキは、生きているという実感が有るじゃありませんか。
“生きていると言う実感”、それは血の滴るステーキでしか感じられ無いのかも知れない。
ところで谷さんも貧乏でしたが、(前にも説明した通り母子家庭で母が客の借金の保証人になり夫に捨てられ貧乏のどん底)
谷さんは「家での食事は美味しかった」
と言っていました。
母がたまに作るすき焼きなり、野菜なり魚なり、「美味しかった」と。
当時も今も私は肉が嫌いだったので(焦げてカスカスのハンバーグなんぞと)谷さんの意見に同調していましたが....
しかし....「狭いながらも楽しい我が家」
そんなものクソくらえ!
穿った見方をすれば結局、貧乏舌なんてのはお上が貧乏人を納得させる為に与えた嘘、夢に過ぎないんじゃ無いですか?
またまた唐突ですが、ここでまたゆうりさんの話を思い出して欲しいのです。
私はかぐや姫の「神田川」を歌い、「こんな恋憧れるよね」
と言ったところ、ゆうりさんは「えー、貧乏臭くて嫌だよ」
と言った話。
あの話を恋愛に絡めて考えれば、ゆうりさんは裕福だったのでしょう。
ただし、金銭とは関係の無い裕福さ。
実際ゆうりさんは土建屋で肉体労働して一人暮らししている貧乏人だったのですから。
これの何が裕福かと言えば心の裕福。だってゆうりさんは私に何故か恋していたのですから。
恋というものは裕福だと、(もっと言えば恋は余剰だからこそ裕福だと、)そう思いませんか?
谷さんにしてもそう、「家での食事は美味しかった」
と言っていても、どう考えたって昔の(思い出補正なり母の味なりの)食事より今の松坂牛やら伊勢海老やらの方が美味しい。
しかし、しかしそれでも家での食事の方が美味かったとすれば、それは心の裕福さでしょう。心のゆとりと言っても良い。
エッセイだか幸福論だか「何がなんだか」分からなくなって来たのでここらで辞めますが....
しかし「狭いながらも楽しい我が家」
なんぞクソでも食らえ!
いくら貧乏や裕福が相対的だとは言え、このパーソナルスペースも無い、一畳二畳に4人布団敷いて寝る狭さの貧乏、これを「楽しい我が家」などと肯定されてたまるものか!
(こんなのはお上が貧乏人にフラストレーションを溜めさせないが為に与えた夢だとしか思えない)
ところで、暫くして気分が落ち込んだ頃にニュー松坂なりスエヒロなりへ一人でまた行きましたが、二度目はさほど感動しなかった。
あの一度目の感動、生まれて初めての人生への喜びはなんだったのか?
それだけは不思議でしょうがない。
一体全体、ステーキに感動して生きていて良かったと誇張無しに思わしめたあれは、なんだったのでしょう?
私には未だに良く分からない。
なので、無責任ですが答えはこれを読んで下さっている方々へ任せます。
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