深くて蒼い海の底から 5
それはまるで、水面から包丁が突き出されているかのような光景だった。
水面を切り裂き、波紋を立てながら泳ぎ回る包丁は、悪霊サメの背ビレだ。
先までと違い、ゆったりとした動きのそれは、じっくりと地上のブラッドアンバーを値踏みしているかのようだ。
『おお、サメ映画でよくある場面だ……全身映さなくてもいいから』
「……理由が切ない」
『ジョーズですら予算との戦いだったと聞くし、サメ映画はそういうものなんだ。悔しいだろうが仕方ないんだ』
「別に悔しくはないが……」
掛け合いながらも、社が悪霊サメの動向から目を離す事はない。
飛び掛かってきたら、準備している
水中でそれが出来なかったのは、悪霊サメとブラッドアンバーの速度差だった。
この
水中では、その射程距離に悪霊サメを捉えておくことが出来ない。だが今なら、話は別だ。
だから――
「さぁ……かかってこい」
そう、社は呟く。しかし、泳ぐ包丁はなかなか飛び込んでこない。ゆるりと回遊を続けている。
『どうする、このままだと埒が明かないぞ?』
「なら、こちらから突いてみるしか無いか。琥珀、頼む」
『了解。
琥珀の声に合わせて、左腕下腕部に魔弾タスラムの射出機が形成される。
社はそれを、水面に向けた。
発射。
そこまでしっかりと狙いをつけず、何度も水面に魔弾を撃ち込んでいく。魔弾が水面に突き刺さるたびに、破裂音にも似た音とともに水柱が立ち上がる。
有利不利はとうに逆転した。そちらから来なければ、こちらは一方的に攻撃し続けることができる。そういう主張だった。
それに気付いたのか、あるいは射撃を一方的に受け続ける状況に焦れたのか。悪霊サメの動きが変化した。
水中で円を描くような動きから、一直線にブラッドアンバーから離れていく動きへと。
「逃げるつもりか……?」
言いながら、社は射線をもって悪霊サメを追っていく。背ビレを追って、縦一列に水柱が連続して走っていく。
『違う……来るぞ、社!』
琥珀の声と共に、急に背ビレが向きを変えた。一八〇度反転。つまり、一直線にブラッドアンバーから離れようとする軌道から、正反対の突っ込んでくる軌道へ。
「よし、来い」
社は左腕から魔弾タスラムを放ちつつ、右腕を後ろ手に構える。
サメが陸上に上がってこれない以上、飛び上がってかかってくる筈、そこを、ブラッドアンバーは
しかし――
『飛ばない……?』
悪霊サメは水面から飛び上がってくる様子がない。かといって、進行方向を変えることもしない。
速度を保ったまま、魔弾タスラムを物ともせずに、一直線に向かってくる。
「バカな、このままだと地上に乗り上がるぞ……!?」
『来る!』
悪霊サメは飛び上がらない。愚直なまでに、水面を斬り裂いて向かってくる。大顎が、開かれて、まるでブラックホールが向かってくるかのような威容と化していた。
悪霊サメが、巨体を陸に乗り上げる――
「……ん?」
しかし、陸に着いたのは、その胴体部ではなかった。
悪霊サメの胴体部から生えた、二本の見覚え有るものが、身体が接地するのを防いでいるのだった。
見覚えのある、二本のそれとは――
「脚だ」
『脚だな……』
人間の、脚だった。まるで人間からもぎ取って直接つけたかのように、悪霊サメの胴体部から、人間の脚が生えているのだ。
悪霊サメはその二本の脚を使って、地面に立っていた。
「いや、なんで人間の脚が生えてるんだ……」
『社、私達は勘違いしていたんだ……あの悪霊サメは、ただのサメじゃない』
「まぁ、悪霊の時点でそうだが」
『事故で死んだサメは、人間を食い殺してる! つまり、あのサメはサメだけの霊じゃなく、サメと幽霊の
「お、おう……」
『取り込んだ人間のパーツを使って、あの悪霊サメは地上に適応することを選んだんだ……見ろ、社!』
琥珀の勢いに押されるようにして、社は悪霊サメを確認する。
一歩一歩、互い違いに脚を前に出して、悪霊サメはブラッドアンバーに向かって歩みだしていたところだった。
『脚を手に入れた悪霊サメは、このまま地上も征服するつもりだぞ! ガイアシャークは伏線だったんだ!』
「テンションを上げるな気持ち悪い……だいたい、冷静になってみてみろ」
悪霊サメの歩む速度は、杖をつく老人でもまだマシに見えるほどのろのろとしている上に、今にも横に倒れてしまいそうなものだった。
「サメが地の上を征服なんて出来るものか」
二本の脚だけでは悪霊サメの巨体を支えるには至らず、悪霊サメの胴体後部は、地面に堕ちて、無様に引きずられる形になっていた。
『……期待させておいてあんまりじゃあないか!?』
「勝手に期待して勝手にキレるな……そんなことより、間合いに入った。行くぞ」
言うと、社は半身になって、右腕を後ろに構える。
『ちぇー。
「喰らえッ」
気合と同時に、社は右腕の手刀を振り下ろす。
間合いに入った、とは言うが、手刀は明らかに悪霊サメへと届かない。彼我の距離は五メートル程度は離れている。
だが――
社が手刀を空振らせ、動きを止める。その瞬間に、悪霊サメもまた、その歩みを止めていた。
『
琥珀の言葉が終わると同時、悪霊ザメの肉体、その中心に赤い筋が浮かぶ。その一直線に沿って、ずるり――と、悪霊ザメの肉体がズレた。
そのまま、重さに任せるままに、悪霊ザメの肉体が倒れていく。文字通り、中心から真っ二つであった。
それは、紀元前中国の書物、荘子に語られる、屠竜之技という故事を元にした
竜を屠る技を必死に習得したが、竜など存在しないので何の意味がなかった――即ち、身につけても意味がない技術、という例えとして使うための、実在しない技だ。
しかし、そうして語り継がれてきたのであれば、
架空の殺竜技は、姿なき刃として
あまり近すぎても、遠すぎても当たらない、という意味では使い勝手に劣るが、その威力は折り紙付きだ。
絶技トリュウによって両断された悪霊サメは、地面にその身を横たわらせてから数秒と保たずに、まるで赤熱した鉄板に氷を落としたかの如く、その存在を消失させていた。
異界が元に戻るのも時間の問題だろう。
「……
社は消え去った悪霊サメに背を向けながら、そう言った。
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